いとしのいとこ「おい」
「今おいって言った?」
凛の鋭い呼びかけに、女は作業の手を止め、ぐるりと振り向いて即座に問いかける。凛のすっと伸びた背筋がより一層ピンとして、らしくもなく顎を引いて口ごもった。「…………はろちゃん……」ばつの悪そうな凛の表情と柔らかく言い直された呼びかけに首を傾げて、「なあに?」柔らかい声で嘉会玻璐は返事をした。それでいい、と言いたげに。
「麦茶出なくなった」
「なくなったのかな、追加するねー」
「ん……」
弱々しい凛の様子に向けられた視線は二分化される。信じられないものを見たという視線と、哀れむような視線。前者は、普段「チッ」「ぬりぃ」「うぜぇ」時々「タコ」しか言わないような凛がしょんもりとした背中をしていることに対する、えッぐいホラーを見てしまったな……という視線だ。後者は、監獄の外にいる家族の中に、姉という生き物が含まれている男たちからの、同情の視線である。彼らは姉から「ねえ」と呼びかけられただけで即座に「すみません」と返す生態をしている。覚えがなくても先手を打って謝ることで、のちに訪れる悲劇を矮小化させるためだ。たとえ呼びかけの内容が昼食のメニューの相談だったとしても、先手は欠かせない。
姉──ではなく、糸師凛の従姉である玻璐の冒頭の台詞は、ただ「え? あの凛が今「おい」って言った? 男の子みたい!」という純粋な疑問と感想から出た言葉だった。その後すぐに昔からの「はろちゃん」呼びに変わったので、周囲の友人の前でカッコつけたかったのかなと思っている。幼い頃は仲が良いと言える関係ではあったが、彼女が高校に進学してからの交流が薄く、いくつか年下の冴と凛の間にあった確執を玻璐はまるで知らない。凛の変化は、「男の子の思春期ってすげー」でしかなかった。
スタッフルームに引っ込んだ玻璐が、ティーカートの上に麦茶の入ったボトルを乗せて戻ってきた。大きめのジャージの上からでも分かるほどほっそりとした腕の彼女は、見た目通り膂力がないのか、よくカートや台車を転がしているのを目撃されている。サーバーの空のボトルをがこりと外して、華奢な指が中身がたっぷり入った替えのボトルに触れる前に、凛が動いた。彼女の代わりにサーバーにボトルを差し込んだのを見て、玻璐は凛を見上げる。
「凛、手伝ってくれたの?」
「ん」
「ありがと!」
麦茶を飲んでいる凛に、また何かあったら呼ぶようにと言い含めた彼女がスタッフルームに戻る。凛が予めとっていた席に戻るまで、凛を追う視線は減らなかった。
その視線のうちのひとつ、烏旅人は食事をつつきながら溜息を吐く。心なしか瞳が遠くを見つめていた。
「案外凡なところあるやんけ……」
彼は、姉をもつ弟であった。