引力(宮トガ) 「さよなら」のあいさつをして、すぐに向かったのは図書室だった。
出入り口から入って、カウンターにいる学校司書の先生からの「こんにちは」の挨拶もそこそこに、一目散に向かったのは「絵本」の棚の前。
僕は、その棚にずらりと並んだ背表紙のタイトルや表紙を舐めるように見つめて、お目当ての本を探した。
数が多い上に、本のタイトルだけじゃ何のことを書いてあるのかイマイチわからない。
それっぽいタイトルを見つけたら、その度に本を抜き取って中を確認する。違っていたら本を元の位置に戻す。それを何度も繰り返す。とてもとても、途方もない作業。
そのうち、目がチカチカしてきて、右手が痛くなってきた。
一旦、目を閉じて、両手で両目のまぶたを押さえて温めてあげる。
僕の体温は、他の人より少し高いそうで、チカチカぴりぴりとしていたまぶたは、じきにホカホカと温まってきた。
痛くならない程度に、やさしく揉んで、それからゆっくりと開けた。
目の前には、やはり本棚が胸を張って立っている。
もう一度、と、探している本を頭に思い浮かべながら探した。
「こんなところで何してんの」
急に後ろから声がかかり、びっくりして変な声が飛び出た。
さらには、驚いた拍子に後ろに倒れ込んだ僕の上に、本棚から出しかけた本とその両隣の本がバサバサと落ちてくる。
「わ、大丈夫かよ小宮くん!?」
「うん…なんとか」
僕に呼びかけたのはトガシくんだった。
彼は慌ててしゃがみ、僕の上に乗っかった本を退かしてくれた。
騒ぎを聞いて、学校司書の先生も急いでやってくる。
ケガは無いか、どうしてこうなったのかなど、いろいろと心配してくれて、とても申し訳なかったけれど、さいわいケガはなく、落っことした本も無事でほっとした。
学校司書の先生から「どんな本を探していたの」と尋ねられる。
僕は拙いながらも、頭の中にある、探している本について伝えた。
タイトルも、書いている人も知らないけれど、絵がとても綺麗で、細かくて、前居た学校で先生が教えてくれた本だったこと。
星というより、地球に関する内容で、今では常識であることとは真逆のことが、常識のように書かれたもの。
そして、今で言う“常識”とは、たくさんの人が辛い思いをした上にあり、たくさんの人たちと時間が繋いできた先にあるということを、どうか忘れないで、というメッセージが込められているということ。
「それはひょっとして…」と学校司書の先生が答えようとするのと同時に、僕の一歩後ろに立っていたトガシくんが「その本、たぶん知ってる」と、僕の服の裾を引っ張った。
「トガシくん知ってるの」
「うん。読んだことあるかも」
そんな僕らの会話を、学校司書の先生はにこやかに聞いている。
「たぶんあっちの棚」
「え、どれ?」
「こっちきて」
トガシくんは、僕の袖を摑んで、目的の棚のところまで引っ張っていく。
その様子に、学校司書の先生は意味ありげに微笑むと、じゃああとはトガシくんに任せようかなと立ち上がり、もしも探してる本と違ったらカウンターにおいで、と一言残して、去っていった。
僕は、トガシくんにぐいぐいと引っ張られて『科学の絵本』と書かれた棚の前に連れて来られる。
「ここ?」
「うん。ちょっと待ってな」
トガシくんはその場にしゃがみこみ、えーと…と口元に手をやって、鋭い目線で本を探す。
僕はそんなトガシくんの横顔をじっと見る。
河川敷で僕のフォームを観てくれてるときと同じ目だ。
僕はいつも、このまなざしに助けられ、励まされている。
カッコいいなぁ。
僕も、もっと足が速くなったらトガシくんみたいに、カッコよくなれるだろうか。
「あ。あった」
「ほんとに?」
トガシくんが、背の高い本が集まるところから、人差し指を使って、本の頭の方を引き出し、それから背表紙全体を摑んで引き抜く。
棚から出てきたのは、トガシくんの言った通り絵本だった。
「“天動説の絵本”?」
「うん」
トガシくんはその場で、絵本を開く。
僕はその隣から、ぐっと身体を寄せて覗き込んだ。
1ページ、2ページと、見定めるようにページがめくられる。
「古い本みたいな色してるね」
「そうだね」
何ページ目かに現れたのは一人の天使だ。
どこかの星の絵に乗っかって、太陽の絵を引っ張っている。どこかの星は、もしかしたら地球かも知れない。
不思議な絵だなぁと思っていると、トガシくんが次のページをゆっくりと開いた。
そこには、さんさんと輝く太陽と、その下で魚を釣ったり、畑に何かを撒いていたり、動物を追いかけてる人たちの姿が描かれていた。
「……『小さな国がありました。人びとは太陽の下でくらしていました』」
トガシくんが、物語のはじまりを小さな声で読み始める。
僕は何も言わず、その声に耳を澄ます。
僕は、トガシくんの声がすきだった。
たぶんきっかけは、体育のときの「ブチかませ」だと思う。
よく通る、綺麗で、意志の強さを感じる声。
物語は進む。ページも進む。
トガシくんの読み聞かせの速さは一定だった。
抑揚もなく、淡々と、平坦に、心地の良い時間が過ぎていく。
まるで、トガシくんと河川敷を慣らしで走っているときみたいに。
「……『どうか、おまもりください。神さま!!』」
はっ、と目が覚めた心地になった。
絵本はエンドロールを迎え、1ページ、2ページ、と丸い地球儀の絵が続く。
そうして最後、再び天使が現れ、今度は、太陽の絵に乗って、どこかの星…いや、地球の絵を引っ張っていた。
「そっか。これは引力だ」
「そこなんだ」
トガシくんは苦笑いして本を閉じた。
「どうだった?」
「ありがとう。きっとこれだと思う」
「良かった」
はいどうぞ、と言って、トガシくんが“天動説の絵本”を僕に手渡す。
僕はそれを受け取って、もう一度彼に御礼を言った。
「なんでこの本を探してたの」
「うん、ふと思い出したんだ」
「へぇ」
「僕、今までは走ることで辛いことをぼやけさせてたけど、トガシくんから教えてもらったとおりに速くなることを極めたら上手く行くようになったから。僕にとっては当たり前だったことも、きっかけや見方が変われば、覆ることができるって思ったら、そういえば前の学校でそういう本を教えてもらったなって」
「あー、なるほど」
「結構深かった」
「そうだね」
「あ、僕とトガシくんがずっと走り続けたら、地球が丸いこと体感できるかも」
「はは。なにそれ」
トガシくんが立ち上がるのに合わせて、僕も立ち上がる。
「それ、借りるの」
「うん。あ、でも僕はじめてだ」
「じゃあカウンターまで着いてくよ」
2人一緒にカウンターにいくと、学校司書の先生はにこやかに応対してくれて、手慣れた様子で貸し出し処理をしてくれた。
御礼を言って、カウンターを去ろうとすると、学校司書の先生が思い出したようにトガシくんを呼び止める。
「彼のこと、気にしてくれたんでしょ。えらいね」
するとトガシくんは、なぜだかちょっとバツが悪いような顔をして「まぁ、はい」と頬を掻く。
なんのことだか見当もつかない僕は、そのやりとりを隣で見て首を傾げた。
図書室を出て、靴箱まで2人並んで歩く。
「トガシくんって本読むの?」
「うーん、そこまで読まないかな」
「でも読むの上手だね」
「………まじで言ってる?」
「マジだよ。また読んでほしいくらい」
するとトガシくんは、変な顔をして目をきょろきょろと動かしてみせる。
あーとか、うーとか、上を向いたり下を向いたりして唸ったあと「考えとく」とぼそっと返した。耳が赤い。ひょっとして照れてるのかな。なんだ、トガシくんってカッコいいだけじゃないんだ。
「楽しみだなぁ」
「えー、やめてよ恥ずい」
眉をふにゃりと下げて、トガシくんが困ったように笑う。
ちょっとかわいい。僕の知らなかったトガシくんを、またひとつ増えた。
出来たら、これからも少しずつ知れたら良い。
でも、そうしたら、その先には何があるんだろう。
“天動説の絵本”をぎゅっと抱く。
もしかしたら、常識が覆る何かが、そこにはあるかも知れない。
その日はいつもより遅くなったので、練習はお休みした。
2人並んで、誰もいない通学路を淡々と、のんびりゆっくり、沈む夕日に向かって歩いていく。
出典
『天動説の絵本 てんがうごいていたころのはなし』
安野光雅著/福音館書店
補足
配架場所や分類は、そこそこの所蔵館によって違いますので悪しからず。ここでは絵本や自然科学というカテゴリに括らず、科学絵本として別置し、子どもたちが手に取りやすく配置してます。