本編続き一閃、空を薙ぐ。
いつも持っている長物とは違い、長く鋭い刃が空気を裂く。持ち手に白い布を巻いただけの無骨な黒い刃には無数の傷が付き、これまで吸ってきた血の量を物語るように、じっとりと濡れた光沢を纏っている。
手入れを欠かさず常に持ち歩いているものの、少年を伴っている時は終ぞ抜かぬ武器だった。
数度振って感触を確かめると、男はそれを鞘に納めてセクレトに託す。
ごう、と勢いを増してうねる吹雪に空気が揺れる。雪と灰色の空の輪郭がぼんやりと溶けて、そこから吹き付ける雪は白い簾となって視界を遮っていた。
屋根と壁と言えるものがある簡易キャンプの側にいても、吹き込んだ雪が宙を舞う。
男は静かなこの場所が好きだった。止むことのない雪が音を吸収して、冷えて澄み切った空気が、彼に自身と環境との境界線を意識させる。
白い息を吐き出すと、男は長い耳の先に触れる。突き出した皮膚は冷気を拾いやすく、赤く悴んで、触れればじんと痺れが走り痛みが和らぐ。
それも狩猟を始めるまでの辛抱だった。ハンターは腰のポーチから赤い瓶を選んで取り出すと、舌に刺激のある液体を一気に煽る。
食道が焼けるように熱を持ち、そこから胃に落ちた液体がじわじわと体に広がっていく。
自身の背丈よりも長い棍をくるりと掌で回すと銀色の石突が光り、黄色に黒い縁取りが入った翅を持つ猟虫が簡易キャンプから飛び出して、その左腕に取り付く。
「リル」
「はーい」
火に当たり一際赤い毛並みを輝かせるアイルーは、ぴょんと簡易椅子から飛び降りた。
◇
「そう遠くない場所に居ると思われます。あなたは理解していると思いますが、どうかお気をつけて」
鳥の隊編纂者の声。念を押すように加えられた言葉には、信頼の中に多少の不安が感じられた。
今回偵察に赴く個体は氷霧の断崖の生態系における頂点、ジン・ダハドを執拗に狙う行動が確認されている。
それは以前の護竜アルシュベルドの行動を彷彿とさせて、報告を受けたアルマとハンターの間には、暗雲のような暗い予感が広がっていた。
「ああ」
ハンターはその言葉に軽く頷くと、周辺を注意深く観察する。二羽の小さな竜と、小さな獣人族が連れ立って動く。
ふと壁面の一点を見つめると、先頭の朱いセクレトが足を止めた。
降りた男が慎重に雪を払う。少し雪に埋もれているものの、特徴的な鎖状の鱗を擦り付けた跡がそこには残っていた。
モンスターの一般的な成長速度から考えて、恐らく隔ての砂原で孵った個体、または同時期に他の場所で生まれた個体が成長したものだろうということだった。
それを裏付けるように、記憶にある護竜アルシュベルドのものよりその鱗の跡は少し小さく、ハンターの肩ほどの低い位置にあった。
討伐対象が特定できていたとしても、痕跡から得られるものは多い。鉤爪の残る氷の壁からその個体の大きさを測り、位置から攻撃性を推測する。
吹き付ける雪は今しがた踏み固めた氷ですらすぐ覆ってしまうようで、十センチ程度の足跡はすぐに消えてしまう。
「どう思う」
「判断材料が少ないのは事実ですが……、事前の情報からしても、他に、選択肢は無いかと」
「……そうだな」
ギルドの調査拠点近くまで降りてきて、獲物を探し彷徨う姿が何度か目撃されている。
今はまだジン・ダハドに並々ならぬ執着心を持っているようだが、それを打ち倒した後、果たしてその執拗さが何処へと向けられるのか。
その力の強大さ故に、既に見過ごせるラインは超えていた。
「だから、あの子を置いてきたんですか?」
男の指が少しだけ持ち上がって、その動きを止めた。鷹を思わせる黒い瞳が遠い箇所から戻ってきて、アルマにゆっくりと向き直る。
「──いいえ、今は関係のないことでした」
男が空中から答えを見つけるよりも早く、アルマはその問いを撤回する。
編纂者は長いマフラーに顔を埋めると、吐き出した息が行き場を失い、眼鏡を曇らせた。鼻梁にかかるそれをくいと引き上げると、その表情から迷いが消える。
痕跡は点々と続いている。
特徴と足取りが掴めたら、あとは薄緑色に光る虫たちが標となり、煙る視界に浮き上がる影を追う。光が薄く拡散されて、大粒の雪が視界に張り付いた。
──近い。
そう思うのと、灰色の雪の中に紛れた巨体が揺らぐのは同時だった。
二人の視線は素早くそちらへ移る。
「周辺地域の安全確保のため、ギルドは、アルシュベルドの狩猟を要請します」
「──拝命した」
ハンターが背中の棍に手をかける。それを合図に、左腕に取り付いていたメイヴァーチルは翅を翻し、オトモのアイルーは前足を地につけて目標との距離を測った。
男が手綱を振って合図を送ると、朱いセクレトは敵に向かって走り出す。接敵直前、背中を跳ね上げたタイミングに合わせ、男は勢いをつけて鞍を蹴り、宙へと飛び上がる。
セクレトはその衝撃で立ち止まると、軽くなった背を反転させて、素早く後ろへ下がった。
空気を蹴って昇り、まずは一撃。宙から全ての体重と落下分の重さを棍の先に込めて、硬い皮膚の間を狙って叩きつける。
それでも重い感触が手に跳ね返る。突然の奇襲に、白い巨体は姿勢を崩して後退し、その瞳がハンターを捉えた。
一拍を置いて衝撃波を伴った咆哮が、あたりに轟、と響く。
周囲に振動が伝わり、元々不安定な形状をしている氷柱が軋んで、斜面に積もる雪が地面に落ちる。ハンターの頭蓋にも衝撃がビリビリと響いて、本能に訴えかける音に怯む精神を、なるべく素早くねじ伏せた。
辛うじて動く右手で反射的に指示を出すと、黄色い蝶がモンスターの頭部へと襲いかかり、鈍い音を立ててぶつかった。
相対するものは多少小さくとも、やはり鎖刃竜であることには間違いがない。
しかし熟練のハンターである男の直感に何か、小さな棘が引っ掛かった。それは得てして正しい。
違和感の一つも取りこぼしまいと男は鷲のような目を大きく見開き、距離をとりながらその生き物を睨みつける。
その獣も、じりじりと距離を保ちながらこちらの様子を探っている。前足で何度か雪を掻くと体を震わせて、体毛の白に殆ど同化するように積もっていた雪が落ちた。
目立って気になる特徴は見られない。左腕の鎖の先が砕けているのは、恐らくこの地の頂点との争いによる傷だろう。
──だとすれば、違和感の正体はその行動か。
男は棍を構えたまま走る。振り下ろされた太い爪を軽く避けると、猟虫が導いた軌道で刃を打ち付ける。
側頭部に重い風切音が横切り、足元に雪の飛沫が舞う。構わずに、一撃、二撃。
身の丈よりも長い棍を扱う上で重要なのは、その重心を正確に操り、回転の勢いを損なわずに一点へ乗せることだ。
それだけでも威力は出るが、三振目は振り回した棍の遠心力を全て乗せて、そこに全身の筋肉をしならせた力が加わる。
「は、あッ!」
様子見などせずに、その瞬間に全力を叩き込む。それがハンターとして覚えた生きる術だった。
その一撃は確実にアルシュベルドの頭を捉え、相応のダメージを与えたと思われた。
通常の個体であれば怯むであろう攻撃の連続によろめきながらも、その体躯に見合った大きさの目はぎょろりと動きハンターを捉える。
血走って焦点を失い、曇った真鍮のように濁った瞳。その輪郭を失った瞳孔と目が合ったと、確かに感じる瞬間があった。
加えてこの衝撃への無頓着さ。獣は前足を上げて姿勢を崩したまま、既に攻撃を始めている。例え体が潰れ四肢が欠けようとも、まるで気にせず相手を蹂躙することだけに固執するような状態。
これでは、まるで──。
崩れた体制のまま、体を無理に捻ったアルシュベルドから鎖が伸びる。棍を全身で叩きつけた男が体勢を立て直すよりも早く、それは四方から伸びて男の体に打ちつける。
ハンターは大きく後方へ弾かれて、雪飛沫を上げながら足裏で衝撃を殺した。
咄嗟に庇った手甲には傷が入って抉れ、牙竜種の皮を張った重い外套の一部が鎖刃に削り落とされている。裂傷こそ無いものの、体に打ち付ける痛みは確実に男の体力を奪った。
「相棒!」
「寄るな! 狂竜症だ」
近寄るオトモを遮るとともに、短く叫ぶ。その意味は正しく伝わったようで、アイルーはその緑の目を大きく開いて、白い巨体とハンターを交互に見る。
「アルシュベルドの、狂竜症感染個体……!?」
その声は少し離れた編纂者にも届いて、驚愕の声が響く。
その体は先ほどよりも暗さが増したように見えた。雪に紛れるほどだった白い毛並みは、灰色に濡れそぼっている。
白い鱗は輝きを失い、乾き切った表面が割れ、その下には細かな黒い亀裂が走っていた。
ぴしりと音を立てて広がる亀裂と共に、獣は唸って動きを緩める。自らの翼に噛み付くと、鱗や白い毛をメリメリと毟る。そして苦しげに喘ぐと、その場で体勢を崩して転がった。
その名の通りの狂ったような行動は、ウイルスの汚染が進んでいる証拠か、或いは、自らの正気を保とうとしているのかもしれなかった。
ゴア・マガラの生息が確認された時点で目を通したファビウス卿の研究によると、モンスターの狂竜化を緩め、抑える結晶の存在が確認されているらしい。そして、まだ進行段階の低い、この個体に使えば──。
一瞬過った可能性を、男はすぐに否定する。そも安定供給が望めない素材で、今この場に無いということは、この個体を救う術は、既に残されていない。
中途半端に手を差し伸べることは、そこへ引き摺り込まれることを意味している。ハンターとして長年活動をしている男は、その怖さをよく知っていた。
それでも彼の思考を遮ったのは、男の弟子が持つ眩い信念を、間近で見てしまったことが起因となっているのかも知れなかった。
勢いをつけて石突を地面に刺す。叩き付けた勢いを利用して下半身を持ち上げると、再度地面を突き上げ、足先から空へと体を躍らせる。
首を逸らすと眼下に鎖が迫り、鼻先を掠めて低い風切り音が通り過ぎた。
鎖状の翼が通った後には、無防備な背中が差し出される。それは空を跳ぶものにとっては格好の的となった。
破裂する印弾の衝撃によって推進力を得る棍を主軸に、ハンターは体制を立て直す。
勢いをそのままに、大きな背中に刃を突き立てる。遅れてその体が降り立つと、獣は大きく身を捩って抵抗を始めた。
背後から迫る鎖刃を避け、獣が身を大きく揺する衝撃を飛び上がって避ける。男の振り翳す棍の勢いは衰えず、鱗を削ぎ、赤紫色の飛沫を飛ばして、灰色の長い毛が空を舞った。
黄色い猟虫が羽を翻し、あちこちに纏わりついては、男に色とりどりの粉塵を撒く。
刃を打ち付ける斬撃音、唸り叫ぶ獣の声、遠く吹雪く雪の中で、男の足裏で響く硬質な音がやけに耳に届く。パキ、バキ、と赤黒い亀裂が拡がっていく。
細かな亀裂はやがて大きな裂け目となり、水に溶ける血のように、黒い粒子がじわりと空気に溢れ始めた。
声を上げて暴れる獣の上で、ハンターはステップを踏むように軽やかに跳び、重いマントが大きくはためいた。
頭に乗った男を振り払うため、獣が大きな角を揺らす。
バランスを崩したところを見計らうと、ハンターは獣の後頭部を強く蹴り上げて宙に飛び上がり、霜の降りた壁へとその巨体をぶつけた。
氷柱が張った壁面は予想外に脆く崩れて、ガシャン、と高い音が入り混じって崩壊し、地面が揺れる。乾いた雪が衝撃に舞い上がり、視界を覆った。
男が地に降りると、棍の先にも黄色い翅がひらりと舞い降りて、彼は軽く口の端を持ち上げる。
轟音が収まると、ハンターは一度周囲を見渡す。編纂者やオトモ、セクレトは無事に退避できているようだった。
崩壊による連鎖的な雪崩が気に掛かったが、アルマのこちらへ頷く様子を見ると、男は正面に視点を戻した。
収まり始めた煙の中からチカ、チカ、と赤い光が点滅する。小さな光は煙に反射して、ぼんやりと輪郭を失っている。
その光は段々と強さを増して迫り、煙の幕を裂くように、涎をぼたぼたと垂らし、傷付いた獣が飛び出す。
激昂したアルシュベルドから、赤い光が迸る。苦しげな咆哮を上げると、その体からは赤黒い靄と紫の体液が吹き上がり、黒い粒子がぶわりと勢いを増して溢れ出した。
急に勢いを増して飛び出した巨体を避ける間も無く、ハンターは棍を構えて受け止める。
その衝撃に、棍がぎち、と嫌な音を立てた。攻撃を受けるようには作られていない長い棍は徐々に撓んで、曲がっていく。
アルシュベルドが頭を上げた拍子に、角に引っかかりしなった武器が、勢い良く弾き飛ばされる。
男の四本の指は多方向からの力が加えられない構造上、握力がどうしても弱い。鈍い銀色の棍が視界から消えたことを認めると、男は眉を寄せ苦々しい表情を作った。
斜め後方に、金属がカランと岩に当たる軽い音がする。その音は連続して、徐々に谷底へと遠のいていく。
その場に残されたのは生身の竜人族と、勢いを増した影だった。武器を失った男はスリンガーに閃光弾を装着し、それを向けて威嚇する。
目線を逸さずにじりじりと後退を始めるが、獣が武器を失った狩人を恐れる道理は無い。突進を始めたアルシュベルドは眼前で炸裂した光に阻まれることなく、男の脚を捉えて地面に引き倒す。
「くそッ……」
大きな口が大きく開いて紫色の舌が覗く。呼気には黒い粒子が混ざって、生臭い血肉の香りと共にぶわりと男の顔に降りかかった。
──やはり、狂竜化ウイルスか。
咄嗟に息を止めても体表に付着し、目を開けていればそこからウイルスは侵入する。目を開けなければ、そこに待つのは死のみであった。
腰のナイフをなんとか後ろ手に引き抜き、硬い爪先で迫る牙を蹴って距離を取る。拘束されたままでは心許ない距離だった。
硬い鱗のついた翼が体を締め上げる。胴にかけられる丸太のような太さの腕の重みに息が詰まる。腕の先についた鉤爪が、直前に放った閃光によって狙いが逸れていることが救いだった。
「相棒を、離せ──! ネコ式トゲバリスタ!」
少し離れた場所から放たれた金属製の太い矢は、炎を纏って男の元へ飛んでいく。
それはアルシュベルドの頭の側部に綺麗に入って、姿勢を崩した獣の拘束が解けた。
地を蹴って下がる男の手には、剥ぎ取り用の小型のナイフしか残されていない。
男は背中にナイフを仕舞うと、獣と対峙したままオトモの名前を呼ぶ。
「リル!」
「うん!」
少し離れたところから援護の機会を伺っていたアイルーは、それだけで意味を理解する。
セクレトに駆け寄り、袋から飛び出す長い鞘を引き抜くと、小さな手でそれを掲げ、ハンターに向かって投げた。
ざくりと音を立てて眼前の雪に半ばほどまで刺さったそれを、男は音もなく引き抜く。
昏い刃がぬるりと現れ、長く鋭い刃が空気を裂く。
手元で数度揺り動かすと、先ほどまで持っていた棍との重心の差を確認する。
その刀身は薄く、打撃を主目的とする棍よりもわずかに軽い。
鷲を思わせる鋭い眼光が持ち上がり、獣を捉える。
獣が腕を振り上げるのを見ると、男はその刀を鞘にしまい、体制を低く取る。
再び正面から赤いエネルギーの噴出を伴った鎖が男を目掛けて振り下ろされると、男は角度、勢い、距離を見計らって、その刃で攻撃を逸らす。隙のない受け流しに、刀は止まることなくその勢いすら利用して、獣の懐まで入り込み、腹の柔らかい内臓を目掛けて突き刺す。
環境適用のために分厚い鱗や皮、毛を持っているモンスターには、これが最も有効な手段であることが多い。
頭に入っている限りのアルシュベルドの骨格、筋肉の位置から最も内臓に届きやすい場所を、長い刀身が半ば埋まるまで、差し込んだ。
刃からは血が滴り落ちて、男の手と足元を濡らす。横から太い腕が迫るのが見えて、刀を一旦刺したままに、男は後方に引く。
腹に刺さった太刀を抜こうと、アルシュベルドが仰反る。そしてバランスを崩し、ひっくり返った瞬間に柄を手に取ると、太刀を横に振り、筋肉ごと腹を引き裂いた。
あたりには赤黒い固形物や鮮血が吹き出し、白い雪の上に滲んで、次第に紫や黒へと色を変えていった。
傷付いた腹を庇うように、その獣はすでに体を引きずって、夥しい血が這い回った跡に残される。
先程体内に侵入したウイルスが、全身を回り始めた様だった。目の前の敵を切り刻みたくて、頭が熱く煮えたぎる。冷たい刃が疼くようにすら感じる。
体表は侵食されてちくちくと痛みを伴う。長い旅の中で、幾度か経験があるものの、冷静な思考を妨げるこの衝動を、男は嫌っていた。