恋は野の鳥「先生……!」
ぱあ、と顔を輝かせた少年は、今日は風音の村に立ち寄っていたはずだった。跳ねるようにセクレトを飛び降りこちらへと駆け寄って、手にした革袋を開いてみせる。
「すごく質のいい蒼雷晶だって、とても喜んでくれました。ひとつおまけしてくれないかお願いしてみたら、ハンターさんのためなら、って」
傍らから覗き込んだ袋の中には乳清が満たされ、丸められた白いチーズが三つ浮かんでいた。
「先生が、お好きだって仰ったから――」
「……それは、気を遣わせたな」
ありがとう、と微笑む男の白い横顔を見上げた少年の頬は、生来のつややかな褐色ゆえに判りづらくはあるが、ほんのりと朱を上らせているようだった。
「疲れただろう。今日は依頼も入っていないし、午後は好きに過ごすといい」
「でも……」
先生のお手伝いがしたいんです、とナタは言った。
「道具の手入れとか、お食事の支度とか、何でもいいので……何か、お役に立てることがあれば」
言葉の途中でぷつりと黙り込んだ少年の顔が、今度こそ誰の目にも明らかなほど上気してゆく。そのことに微塵も気付いていないのは、子供の柔らかな黒髪をくしゃくしゃと手のひらで掻き回している当人のみだろう。
「休養できる時に身体を休めておかないと、いざと云う時に動けなくなる。それでは、困るな」
長身を屈め目線を合わせた男の顔を、ナタはもはや見ることすらできない。
その気持ちは判らない訳ではない。
『鳥の隊』のハンターは、類稀なる美貌の持ち主なのだ。本人にその辺りの自覚は一切ないようで、自分の容姿が他者に与える影響に頓着しておらず――それだけに、たちが悪い。
「夕刻には支援船が到着する筈だ。おまえが楽しめそうな本を何冊か頼んでおいたから、読むといい」
「あ――ありがとう、ございます……先生……」
距離が近い。無闇に微笑むな。
突っ込みたいところを何とか堪えて見守るうち、今にも沸騰しそうな少年の頭をぽん、と軽く叩いておいて、さて――と男は顔を上げた。
「エリックに話があるんだったが、どこへ行った」
「今日は一日森の調査だそうです。戻って来たら知らせてくれるよう、託けておきますね」
「ああ。頼む」
にこりと笑って、男は立ち去った。
固まったまま棒立ちになっているその手から革袋を受け取り、ご苦労さまと声を掛けてやれば、まるで夢から覚めたかのような顔で、少年はぱちりと目を瞬いた。
「……アルマ」
「なあに」
「いつからそこにいたの?」
「さっきからいたけど」
腑に落ちぬげな表情でそうだったかなとナタは首を捻り、程なくして、は、と顔を上げた。
「せ――先生は、エリックさんと、し、親しいの……?」
「親しいとは」
「昨日も遅くまでお話されてたし、今日だって、」
少年の明るいはしばみ色の目は、うっすらと水の膜さえ湛えている。胸底から深い深い息を吐き出して、あのね、とアルマは言った。
「エリックが見つけた痕跡のことは聞いたでしょ」
「……はい。新種かもしれないって」
「星の隊と合同で調査に行くことになったから、その打ち合わせをするって、先週言わなかった?」
「言った……かも」
「もう。しっかりしてね、ナタ」
ごめんなさいと俯いた少年の、柔らかな癖髪の頭はだが、出会った頃よりも幾分高い位置にある。武器を扱うための基礎訓練にも、人一倍懸命に取り組んでいることは知っている。今は見上げることしかできない男の隣に肩を並べる日は、もしかすればそう遠い未来の話でもないのかもしれない。震え泣くことしかできなかった子供が、前向きに逞しく成長してゆく姿は無論微笑ましいし、姉のような気持ちにもなる。ただ。
「あなた、ずっと駆け回ってばかりでしょう。張り切るのはいいけど、もう少し気を楽にしたほうがいいわ。あ――ほら、ノノさんがお食事を一緒にどうかって言っていたし、たまには羽を伸ばしていらっしゃい」
同じ年頃の子同士で――と付け加えかけたアルマの言葉を遮って、そうだね! とナタは言った。
「秘蔵のチーズを出してくれるって言ってたよね。先生、きっとお好きだから――伝えてくる!」
「あ」
飛び上がる勢いで駆け出した背中をなす術もなく見送り、そうして――アルマはまた、深い息を吐いた。
震え泣くことしかできなかった子供が自らの生きる意味を見つけ、歩み始めたこと自体は喜ばしく、年長者として応援してやるべきなのだろう。ただ。
「何で……よりによって、なの」
そんなことは問うだけ無駄だと知っている。気まぐれな小鳥の止まる枝など、誰にも決められない。口にしても詮無いことだと判ってはいるが、かと云って吐き出さねばいつまでも胸のあたりがもやもやと重苦しい。
支援船の物資が到着したことを知らせる鐘の音を聞いて、鈍々とアルマは歩き出した。
もし荷の中に酒があったら、加工屋の仕事終わりを待って飲みに誘ってみよう――と考えながら。