色付く帰路自分は透明なのかもしれない。そんなふうに思うことがある。吠にとってはもう、慣れ親しんだ感覚だった。
確かにここに居るのに、誰も自分を見ていない。
指先から透け、輪郭がほどけ、かたちを失うような。寄せては返すその感覚は、ふとした拍子に高く波立つ。そして吠を呑み込んでしまうのだ。
暗く冷たい、深海みたいな自己嫌悪の底へ。
夕暮れの河川敷。草の生い茂る土手で膝を抱えてしばらくが経つ。傾きかけた陽を反射して輝く川面。水切りして遊ぶ子どもたち。
吠はポケットから一枚の紙切れを取り出した。元はぴんと伸びた上質紙だったのに、今では無惨なありさまだ。何度も書き直したせいで薄汚れ、おまけに丸めた跡がくっきりとついていた。
「…履歴書もタダじゃねーってのに」
ぐちゃぐちゃの折れ皺を手で伸ばしてみる。ぎっしりと埋まった職歴に反して、空白の目立つ特技欄。
バイトに落ちた。ただそれだけだ。人間界に戻ってから何度も受け取った不採用通知が、ただひとつ増えただけ。奮い立たせた言葉を、暗い思考が塗りつぶす。
――いや、今回は不採用通知すら貰えなかった。
面接官は吠と履歴書をちらりと見比べ、躊躇なく手の中の紙を丸めたのだ。帰っていいよ。冷たい声。理由を問いただす前にばたり閉ざされた扉。
何がいけなかったのだろうか。
履歴書の内容か、服装や態度が良くなかったのか、それとも――自分がつまらない人間だから?
その答えを知ることは、永遠にない。けれど、自問自答を止めることもできなかった。
「はぁ…」
息を吐いた吠の頬をじりじりと灼く西陽。
河原で遊んでいた子どもたちが、一人また一人と去っていく。親に手を引かれて歩く小さな後姿をぼんやりと見送っていると、カレーの香りが鼻をくすぐった。
「…?」
この辺りに飲食店なんてないのに、どうして。疑問は長く続かなかった。簡単に思い至ったのだ。これは、誰かの帰りを待つ家の匂いだ。
きっと誰にも帰る家がある。吠以外の、誰にも。
――まただ。
ふと訪れる感覚。薺の花を弄んでいた指先が色を失い、消えていく。もちろん実際にそんなことはありえない。ただ、からっぽの心が生み出したまぼろしのようなものだ。
だけど、自分は確かに存在するのだと胸を張って言うことはできるだろうか。
実の親に見捨てられ、居場所を持たず、労働力としてすら必要とされない今の自分なんて。
「このまま、消えちまっても――」
その先は、言葉にできなかった。
「な、なんだ!?」
体が宙に浮いたからだ。なにかの喩えではない。宙ぶらりんの爪先を掠める狗尾草の穂先。襟首を掴まれているとわかったのは、首にかかる圧迫感のせいだった。それなりに身長もある大の男を、まるで仔犬のように軽々と持ち上げる。そんな馬鹿げたことができるのは、吠の知る限りひとりしかいなかった。
「なにしてんだ――竜儀!」
振り返ると、予想通りの男が想像通りの表情で吠を見下ろしていた。
「こちらの台詞だ」
威圧的に言い放った竜儀は、ぱっと手を離した。薄くなった靴の底が、柔らかな草に受け止められてふわりと沈む。
「面接に出かけたきり帰ってこないと思えばこんな所で…何時までほっつき歩いているつもりだ」
「関係ねーだろ。ガキじゃねぇんだから、そのうち戻る」
しまった。反射的に言い返してしまった。吠が内心冷や汗をかいた瞬間、黒い眉の根本にぐっと皺が寄る。
「関係ならある。お前を探しに飛び出そうとする禽次郎さんと一河を抑えるのに、ずいぶん苦労させられたからな」
「ジジイと角乃が?なんで…」
首を傾げる吠を前に、竜儀はさらに眦を吊り上げた。
「それに、お前が居ないと百夜がわざとらしい溜息と犬の動画を大音量で延々垂れ流す。営業妨害だ」
「あのヤロー…」
吠は竜儀と視線を見合せた。脳裏に浮かぶキザな仕草に、二人揃って溜息を吐く。
「この通り多大な迷惑を被っているのだから、無関係とは言わせ――ん?」
吠の手元の紙切れに気付いた竜儀。不思議そうに首を傾げたのは、一瞬だった。
「これは…」
「…」
うつむく吠に、ぐしゃぐしゃの履歴書。
なにがあったのか、おおよその察しがついたのだろう。竜儀は表情に満ち満ちていた不機嫌を消し、顎に手を当てる。そして、すうと息を吸い込んだ。
「…いいか、遠野」
「な、なんだよ」
「お前は柄も悪ければ口も悪い。マナーどころか一般常識すら怪しく、おまけにテガソード様に無礼の限りを尽くす不敬者だ」
「ケンカ売ってんのか?」
吠は顔を顰めた。覚えがあるだけに、その言葉は傷心を容赦なく抉る。
テガソード馬鹿のこいつが、人を励ますわけがない。――まして、仲間でもない俺なんて。
吠が何度目かの溜息を吐きかけた、そのとき。
竜儀の表情が、ふっと緩んだ。
「だが――お前ほど見ていて飽きない馬鹿もそうはいない」
「…」
「お前の存在を、その生き方を、紙切れ一枚で測るような節穴に――お前の価値は映るまい」
はっと顔を上げる。数センチ上にある垂れ目は、真っ直ぐに吠を見つめ返していた。ひとかけらの優しさも憐れみもない、鏡のような瞳がただ吠を映し出している。
「竜儀…」
「わかったら、もう二度と滅多なことを口にするな」
ぽつり零れた小さな声に、目を見開く。
――聞いてたのか。
確かめる隙は与えられなかった。骨ばった大きな手が、吠の手首をがしりと掴んだのだ。竜儀は吠の手を引いて歩き出した。足元に絡む衣服も、まとわりつく烏麦もお構い無し。迷いない足取りで元来た道を辿ってゆく。
「おい!どこ行くんだよ!」
抗議の声にぴたりと立ち止まる竜儀。くるりと振り向いた彼は、呆れ顔で口を開いた。
「帰るに決まっているだろう」
「帰、る…」
「早くお前を連れて戻らないと、いいかげん通知が喧しくてかなわん」
印籠のように掲げられたスマートフォン。竜儀の言葉通り、液晶には現在進行形で通知が更新され続けている。ちかちかと目を焼く文字の羅列は複数人から送られてきているらしい。文章量も文体も様々なメッセージ。共通点は、そのどれもに犬の絵文字が付いていることだけだ。
「――」
「行くぞ」
再び景色が動き出す。掴まれた手首にかかる力は、ごく弱い。それなのにどうしてか、振りほどけなかった。
幼子のように手を引かれて歩く遊歩道。
薄青から黄金へ変わる空。生い茂る草木の緑。連れ立って歩く影の黒。そして、徐々に染まる夕陽の赤。
吠はふと、自分の手を見た。厚い皮膚に、脈打つ血潮。
――もう、透けてない。
いつの間にか傍にあった彩りが、吠の帰路を照らしていた。