無題 私は今床と溶け合っている。もう自分の境界が分からない。微睡む意識は私の頭を優しく溶かして、ぐちゃぐちゃに歪んだ床に零れ落ちていく。
「先輩、本当にごめんなさい…私のせいで」
ずっと後悔していた。私があの時怪我をしなければ、あの時自転車で突っ込むような真似をしなければ、
先輩は今頃まだ平穏な日常を夢見て私と将来について話していたかもしれないのに、死ぬのは私だけで済んだのかもしれないのに。
また吐き気が押し寄せてくる。私の傍に転がった薬の瓶にもうほとんど薬は無くて。
いつからか自己嫌悪で始めてしまった、所詮ODと言うものだ。こんなことしても先輩は幸せにならないのに、報われるわけないのに。それでも現実を受け入れられない私は、許されたい一心で錠剤を飲んだ。
「……くん、人間くん」
?
誰かいる、あれ、ここ私の家だし、しかもトイレ。
あ、そっか、さっきまで私吐いてたんだ。でもどうして人がここにいるんだろう
「誰ですか…どうやってここに、鍵だって閉めてあったはずなのに」
「人間くん、僕は怪異ですよ。鍵なんているわけないじゃないですかぁ」
「?怪異…」
「うーん、病み腐ってる人間の匂いがしたから来てみたんですけど、酷い有様ですね。こんばんは、画らくたと申します。人間くん達のジャンル?で言う人外お兄さんとか言うやつです。先程言った通り僕は怪異であり人間では無いので、その…人様の道理?とかはないんですよ」
「はぁ……ぅッ」
また吐き気が押し寄せて吐いてしまう。
苦しい。
「人間くん、僕は怪異でありながらも、君を助けに来たんですけど…苦しいですよね、助けて欲しいですよね?」
「…は、い……まあ、そうですけど」
助けて欲しいのは山々だが、自分のことを怪異と言い張る奴に助けを求めるなんてどうかしている。拒絶したいがさっきから吐き気が酷くてまともに話せそうにない。
「そうですよねぇ、助けて欲しいですよね。いいですよ、助けてあげます。苦しい人間くんが楽になるように……僕といいことしましょう♡」
そう言って、彼は自分の口に何かを含んで私に口付けをしてきた。
「!?」
「あーこら暴れない。せっかくお兄さんがサービスで口移しまでしてあげたんですから、ちゃんと飲んでください」
そう言って手で口を塞がれたせいで飲むしかなくなってしまい、何か飴のようなものを飲み込んだ。
「ゲホッ…ゴホッ、…なんですか今の…飴?なんか気持ち悪い」
「大丈夫ですよ、すぐ良くなりますから…そうですね、まあ、怪異のちょっとしたお呪いみたいなものですよ」
そんな怪しいもの信用出来るわけない。不法侵入してきた上に初対面で口付けなんて、こいつは常軌を逸している。
視界がぼやけるせいでシルエットしか見えていないが、人間にそっくりで怪異なんて嘘では無いかと思う。気持ち悪い。帰って欲しい。
「まあまあ、そんな嫌そうな顔しないでくださいよ。…ほら、段々気持ち良くなってきますから、それまでお話しでもましょうか」
自称怪異のお兄さんが言うには、廃材とかを食べて暮らす怪異らしい。私のところに来たのは、単に人間に興味があったからであって、助けに来たのが本来の目的ではない…とか何とか。
どこかで聞いたような話だが、頭がふわふわしてよく分からない。
あ、でも少し気持ちいかも。
少しずつ心が満たされていく感覚がある。
「あ、効いてきました?幸せそうな顔してますね、人間くん、気分はいかがですか?」
「ふわふわして、気持ちいいかも…」
「ふふっ、良かったです。あ、もう仕事行かないと…今離れるのは残念ですけど…また明日来ますね、いつでも呼んでください♡」
「?、はい」
足音が遠ざかってく。
あー、なんかすごく幸せ。あれ…でも何も考えられない。まあいいや、こんな気持ちになれたの久しぶりだし…
気づいたら私はそのまま寝ていて、でもすごく気分が良くて、上機嫌で仕事…怪異調査に行った。最近は体調の面を考慮してか、現場周辺の聞き込み調査を任されている。今日は、いつも辛かった仕事が少し楽にできた、そんな気がした。
それでもやっぱり夜は辛くて、また過剰摂取をしようと脳が訴えかけてくる。境界が曖昧になって、わたしの輪郭が溶けてしまえば、何も考えなくていい。
もうそうするしかない。習慣になってしまったのだ。
「きっと先輩悲しむだろうなぁ…」
そう思うと涙が出そうになる。先輩ごめんなさい、私のせいなのに、私はそのことから逃げようとしてる…
「もう、だからいつでも呼んでくださいって言ったのに。ほら、怪異な僕が今日もやってきちゃいました。まあ、明日も来ると約束したので、その辺はちゃんと守ろうかなと…」
気づけば薬の瓶を開けようとする私の横に、お兄さんが立っていた。
昨日ははっきり見えていなかったけれど、こうして近くで見ると確かに、触覚とかしっぽとか…顔が暗くてよく見えないけど、人ではないのがよく分かる。
「あの、私お兄さんの事何も知らないし、何より怖いので…「怪異が怖いなんて当たり前ですよー、まあでもすぐ見なれますし、今日も僕が助けに来たんですから、大人しく僕の施し…受けた方がいいとは思いませんか?それとも嫌でした?昨日の『いいこと』は」
「いや、その…」
確かに怖かった。でも、久しぶりに優しさのようなものに触れて私はおかしくなってしまった。いやであることが正常なはずなのに、脳は全く拒絶していない。
「ほら…昨日みたいにまた君のことを『気持ちいい』で満たしてあげるので…あーん」
言われるがままに口を開いた。
そうして、数日間夜になるとお兄さんが私のところに来て、お呪いをしてくれた。快楽を口いっぱいに含んで飲み込むことが、お兄さんに触れられることが救いに感じた。脳がそれを求めるようになるのに時間はかからなかった。
しかし、何日目かで気づいた。効きが悪くなっている。
特に今日は具合が悪い…吐き気、頭痛、目眩、手の震え、それにやけに汗をかいている気がする。
「これ、もしかして脱離症状ってやつなんじゃ…」
呼吸が苦しくて、ゼーハーゼーハー肩で息をする。お呪いなんて嘘だ、この症状、聞いたことがある。脱離症状にも色々ある。でもこれはカフェインとかそういう身近なものじゃない。
違法薬物────────
効きが悪くなっている中、その日の夜はお兄さんも来なくて、ずっと苦しいまま。まともに動けないせいで仕事も休んだ。
違法薬物なんて憶測に過ぎない。違うかもしれない。でも、脳は確実にお兄さんから与えられる快楽を求めている。
嫌だ、今まで真っ当に生きてきたのに、違法薬物なんて。
お兄さんに会いたい。会って話しがしたい。そんなものじゃないよ、ただの怪異のお呪いだよと否定して欲しい…安心したい。
部屋の床に蹲って、じっと症状が良くなるのを待つ、地獄のような昼間だった。今日は来てくれることを願い続ける。お兄さんは言っていた、いつでも呼んでくれと。
「お兄さん…」
「はーい…あ、人間くん。あーあこんなになっちゃって、予想よりも早いですね、やっぱり普段から過剰摂取してるから、ある程度耐性があるのかな?」
意味がわからないことをペラペラ話すお兄さん。今はそんなことはどうでもいい。震えながらも精一杯口を動かす。
「あの、お兄さんがくれた飴みたいなのって…」
「あー…流石に気づきました?あれ違法薬物なんですけど、人間くん、見事に人の道を外れちゃいましたね♡」
そう言ってお兄さんは笑う。酷い。そんなもの私は要らないのに。
「なんで…」
「なんでって言われても…職場の廃材の中に混じってたんですよ、
僕はねぇ…人間くん。君のことずっと見てたんですよ?毎日飽きもせず泣いて、吐いて、そんな代わり映えの無い日常、つまらなくないですか?それに馬鹿の一つ覚えみたいに先輩先輩って…」
「え」
顔を上げてお兄さんの方を見る。暗くてよく見えない顔。でも見覚えがあった。
「先輩…?」
「チッ…あーもう、先輩先輩うるさいですね、ほんと…ねぇ人間くん。薬物って、そんな簡単に辞められるものではないと聞いています。今まさに脱離症状が出て苦しいですもんね?助けて欲しいですよね?もう僕がいないと人間くんはダメなんですよね?」
「いや、いらない…」
先輩に似たそれはこちらを見ている。画らくたという名前。なんで忘れてたんだろう、先輩の行方が分からなくなったその時に調査していた怪異…
身体を取られたのかもしれない。そうでなければ説明がつかないほど、画らくたは先輩に似ている。
「いや…先輩…ごめんなさい、ごめんなさい」
「あーもうそんなに謝って…可哀想に、人間くん。いくら謝っても先輩は帰って来ない。その上先輩が乗っ取られた怪異に騙されるなんて…
君ってば本当にバカで…可愛いですね♡」
さっきまで耐えていた吐き気が一気に押し寄せてくる。
なんで気が付かなかったんだろう。
ODもしていないのに、いつもよりも吐いた。
苦しい苦しい苦しい苦しい
「もう苦しいのも痛いのも嫌ですよね?人間くん。ここまで来たら、今もう1回やったところでかわりませんよ…ほら、口開けて……僕とまた『いいこと』しましょう?」
あと1回なら…よく聞くセリフだ。でも一時的にやり過ごしたくて、結果的に受け入れるしかなくなる。
「良い子ですね、人間くん。ほら、おいで…お兄さんが優しく抱きしめてあげましょうね」
意味がわからない。意識が浮いたり沈んだりしている。まるで海に浮いているみたいだ。
抱きしめようと、手を広げるお兄さんが先輩に見える。大好きだった、大切な人…
なんとか手を伸ばす。こんな自分を受け入れてくれるわけが無いのに、先輩の表情はやけに優しくて、
「うぅ…先輩……」
バチンッ
「え」
伸ばした手は、先輩に届く前に叩き落とされた。
先輩の方を見た。
先輩ではなかった。
それは私の髪を掴んできた。
「だからさっきからうるさいって言ってますよね!?君の前にいるのは僕なんですよ!君を、今助けているのは僕なんですよ?なんで僕を見てくれないんですか!?!?君の大好きな先輩は、君のことを置いて行って、もう帰ってこないんですよ、なんでわからないんですか!?」
「い、いやだ…先輩は、先輩は……」
きっとどこかで生きてる。こんなの悪い夢だ、だってさっきまで私の前に……
「あァもう、面倒くさい!」
ガッッ
強い衝撃が頭に走る。殴られた?痛い────
冷たい。いつもは溶け合っているはずの床が、やけに冷たく感じる。
寒い暑い苦しい気持ち悪い痛い
「ハッ……ウェッ、ゴホッ」
急に起き上がったせいで、頭が揺れてまた吐いてしまう。
「あ、まだ生きてましたね…良かった。心配したんですよ、死んじゃったかなって…」
自分で殴った癖によく言うなと思ったが、口には出さない。今度こそ本当に殺されるかもしれないから…
「人間くん…さっき、なんで薬を飲ませたのか聞いてきましたよね?廃材の中に混じってたのを拾って、興味があって使ったと言うのもあるんですけど、僕は…君が毎日苦しんで泣いてるのを、見ていられなかった。それと…」
お兄さんの言葉が詰まる。
「君のことが好きで、大切で、僕のことを見て欲しかったんです…」
「え」
予想外の返答に驚いてしまう。いくらそう思っていたって、普通は想いを寄せている人を犯罪に巻き込まない。本当にこの人はいかれている。
逃げなきゃ
直感的にそう思った。でもどうやって?
周りを見てみると、ここが自分の家ではないことに気づいた。
「あの、ここどこですか」
「…説明が面倒なので、僕の家と思ってください。人間くんと暮らす為に、連れてきちゃいました。だってだってぇ…人間くんはもう僕無しじゃ生きていけないですよね?今も、手が震えてるの…僕はちゃんと気づいてますよ」
一緒に暮らす?お兄さんと?恐怖で血の気が引いていくのがわかる。
この手の震えは薬物によるものか、恐怖によるものか…
薬のせいか頭に霧がかかったみたいにモヤモヤして、考えがまとまらない。どうしよう、逃げたいが立ち上がれない。立ち上がれたとしても、ここがどこなのかもわからない。
上手く回らない頭をなんとかしようと必死になっていると、お兄さんが何かを取りだしてきた。
「僕、ずっと考えてたんです。人間くんがもう辛くならなくて済む方法…本当は、僕に縋って欲しくて、少しずつ薬をあげて壊すつもりだったんですけど…無理そうですね、もういっぺんに壊しちゃいましょう。人間くんが辛いのは、そうやって、考えるから…ですよね?それなら、その脳を壊せば全部解決すると思うんです」
そう言って、お兄さんは取り出したものを見せる。
「これ…人間くんにあげてた錠剤の液体バージョンなんですけど、手に入れるの…ちょっと大変でした。まあでも、錠剤をちまちまあげるよりも、血液に直接流しちゃった方が速いらしいですし、この方が君も苦しむことなく脳をぶっ壊せるそうなので…」
お兄さんが取り出した液体を注射器に吸わせ始める。
「嫌、怖い…ごめんなさい、もう先輩のことで泣かないし騒がないから…お願い、許してください、助けて……」
自然と涙が溢れる。本当に壊されてしまう、回らない頭が警鐘を鳴らしている。
「別に…もう怒ってないですよ。これは人間くんを助けるために、僕がしたいだけなので…」
「嫌だ…」
まだ戻れる。ここで辞めれば、きっと戻れる。ただそれだけの希望から、力の入らない腕で必死に抵抗する。
「はいはい、暴れないでくださいね〜。大丈夫ですよ、ちょっと刺すだけで終わるんですから、ね?」
しっぽが身体を締め付ける。身動きが取れない。どうしよう、どうしよう、状況を飲み込むのが精一杯で、逃げ出す術が思い浮かばない。
もう諦めた方が良いのではないか。そんな嫌な考えが顔を出す。
……でも確かに私は考えたく無くて、ODをしていた。それなら、壊してもらった方が楽かもしれない。
「ほら、暴れないで…良い子良い子…」
そう言ってお兄さんは頭を撫でてくれた。もう力が入らない…眠い、疲れた。意識が薄れてくのがわかる。
せめて真っ当な人間として死にたかったな…
「人間くん、ただいま。良い子にしてました?」
「あ、お兄さん、おかえり!ちゃんといいこにしてたよ」
あれから僕は、人間くんと暮らしている。脳を壊すと言っても、一部の機能が失われるだけ…とは言え廃人になることも覚悟していたけれど、人間くんは薬の影響で精神退行という形で収まった。
もう人間くんは先輩…真殻巧の事も、自分が調査員であったことも覚えていない。理解しているのは僕とこの部屋の存在だけ。
…最初は嬉しかったが、しばらく生活してわかったことがある。
「人間くん、僕ら怪異は人間の感情から生まれ、感情を喰らって生きてるんです。でも、素体となる人間は感情が無い方が、余計なものを取り込まなくて済むので好まれていました。だから僕は、感情の薄い真殻巧を乗っ取ることにしました…でも────」
虚ろな目をした人間くんを、そっと撫でる。口角は上がっているが、瞳が何を映しているかは、もうわからなかった。
「でも、彼は意外と君のことを大切に想っていたみたいですね、僕もその感情を取り込んで君を大切にしたいと思った。結果、こうして君を壊してでも、僕のそばに置いてお世話をしているわけですけど……もうだいぶ身体が馴染んで、感情も薄まってきました。って言っても、わかんないですよね…君は」
「うーん、むつかしくてわからないよ」
壊れた脳は、幼くなった君は、呑気に僕のしっぽをくるくるして遊んでいた。
「はは…そうですよね、まあ簡単に言うとお別れしましょう、人間くん。…でも壊れた君を社会に放り投げるのは、流石の僕もできかねるので…君のことは、僕が食べてあげます」
「お別れ?わたし、お兄さんに食べられちゃうの?」
「食べると言うより今よりも近く…一緒になると言った方が近いですね、多分」
「いいよ。お兄さんといっしょにいられるなら」
どこか幼くて舌っ足らずな声が悲しげに聞こえた。でも、もうどうにも出来ない。
「さようなら、人間くん」
あー…面倒な感情に振り回されたな…
所詮は恋愛ごっこと言うような感じの愛情のおままごとですかね、
結局最後は飽きが来るんですよね。人間の個体はどれもたかが知れてるというか、なんと言うか…すぐ食い潰してしまってダメですね
まあこの身体も馴染んだしいいか…