惑溺が望ましい 意識を手放すまで酒を呷った。
珍しい来客だった。
その客の神変出没さは日を追うごとに薄まっており、香に気付いたときには既に彼――白鸞のことである――が紫鸞の視界に映っていた。
達者で暮らせなどと告げられた際は、白鸞とはもう二度と逢えないのかもしれないと覚悟していたくらいなのに。
なんだかんだ、短いひと時をこうして何度か過ごす機会が幾度とあった。
最近では挨拶もそこそこに二人で酒盛りを始める。といっても、紫鸞も白鸞も比較にならないほど生真面目な性格な故か、羽目を外すような楽しみ方はしない。
近況を浅く伝え、静かに頷き、手慰みに一口呑む、といった状況だった。
「ふ……っ」
「……?」
やにわに白鸞が微笑んだ。真っ白な肌が月明かりを受けて青白く映えるが、その頬に僅かな生気が宿る。
うっすらとだが、困ったように笑んでいるようだ。
「何があった」
唖然としたまま紫鸞が問う。酒を呑んでいるからとはいえ白鸞が一人でおかしくなるだなんて。
いや、もしかしたら単に自分が白鸞についての何かを忘れてしまっていただけで、実は彼は自分が認識しているような彼ではないのかもしれない。現に、酔って微笑む彼の眼差しは紫鸞の顔面をジイっと熱く見つめているではないか。
見たことのない、記憶にもない彼の痴態を目の当たりにして紫鸞はバツが悪そうに唇を噛んだ。
極め付けが、
「我が瞳では真実を見抜くことはおろか、太平の世を築く真の英雄なぞ見極められぬものよ」
こんな世迷言である。
焦点がずれていく白鸞が続ける。
「紫鸞、お前のその眼こそがこの世に必要なのだ……」
「酔っているのか?」紫鸞も間髪入れず続けた。「いや、酔っているな」
「何……? この私が、酒に溺れるなど」
「今日は帰らない方がいい。危ない」
机に突っ伏す白鸞の身体を起こし、抱き上げて牀に運んだ。
より良い安眠を求めて大きな物に新調しておいて良かった。自分の寝床で悩まなくて済みそうだ。
「否。お前と過ごすとは言ってないっ」
「早く寝よう」
前後不覚に陥った白鸞を寝かし付け、紫鸞も隣で横になった。
朧げな記憶だが、遥か昔にこうして一緒に寝たことがあるかもしれない。気のせいかもしれないが……。
懐かしく感じる。紫鸞は彼を腕の中に閉じ込めて瞼を閉じた。
よく寝た、気がする。
朝日につられて目を覚ました白鸞は、上体を起こしてようやく置かれた状況に気付く。
隣にいるのは美しい顔で寝ている紫鸞だった。陽を反射する黒い髪と輝く肌。伏せられた睫毛の妖しさに白鸞は後退りする。
「紫鸞」
何故自分がここで寝ていたのか、どうして紫鸞が隣にいるのか、いつまでここにいていいのかが何もかも分からなかった。
不意に、喋るはずのない紫鸞の声が頭の中で静かに響く。
『ここにいればいい』
ああ確かに奴ならそう言うだろうな。
しかし。そうはいかないのだ。
太平の要として生を受け、かつての仲間だった男と袂を分ち、何かにつけて再会を繰り返して付かず離れずの距離を保ってきた。
紫鸞から「共に行こう」と何度も声を掛けられた。
違う!
(お前が来い! 紫鸞!)
彼が漢室に連なる道を歩み続ける限り、白鸞が紫鸞の隣を歩くことなど許されないのだ。
すやすやと寝息を立てる、あどけない彼の唇を口で塞ぐ。
「……んんっ」
息苦しさで彼が目を覚ます前に白鸞は牀から降りた。
(……また、いずれ会おう)
そう心の中で呟きながら、会う為の用事を作るのはもう止めようと心に決める。
奴の顔を見れば見るほど、別れのときに胸が苦しくなるから。