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    raityouraizap

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    raityouraizap

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    種静ちゃんとメイド服です(健全部分)

    種静メイド服①いくら暦を視線でなぞっても、外の天気はまだ春とは言えない肌寒さが続いている。春はどこに行ったのか。晴れは晴れでも風が冷たいので防寒着は必須であるし、寒さに震えて入店したコンビニでホット飲料を購入したくなる気持ちが湧き上がる指先の冷えからしても、どうやら今年の春は随分と眠りが深いらしい。
    桜の蕾が緩み、青空に薄桃の雲が浮かぶのはいつのことか、大学での最後の集まりを終えて帰宅した大曲竜次は長めの入浴でしっかりと温まった後、欠伸を噛み殺してビールを飲んだ。
    どんなものかと思っていた就職活動もどうにか無事に終え、こつこつ進めていた卒業論文も恙無く提出し、四年間過ごした大学を卒業したのは先日のことだ。自由気儘、というほどではなかったが、大学の図書館にある大量の蔵書を誰に気を使うでもなく二刀流で読み耽り、専攻学科と合わせて興味のある授業を受け、自分のやりたいことに挑戦した四年間は紛れもなく良い思い出だ。
    図書館に通い詰めたせいか、風貌とは裏腹な真面目さと勤勉さが目立ったせいか、司書や教授達にはすぐに顔を覚えられた。サークルは決まったものに入らず、友人達の誘いを受けて色々なところへ顔を出した。やったことは多く、充実した四年間だと思う。
    それでも、仲間達と共にテニス漬けの生活をしていたあの頃の方がずっとずっと濃密で揺るぎなく確かな時間だったのだと、痛感した四年間でもあった。思い出に浸って懐かしむにはまだまだ熱く輝く、まるで冒険のような目まぐるしさは、すぐに思い出せる。
    大学生になったとて、一年の内の数ヶ月はU−17選抜合宿の特例召集選手として顔を出し、それ以外では馴染みのメンバーで集まってはあの年に出会った後輩達の高校に練習試合を組んでもらっていたので、身体はまだまだ現役のつもりだ。流石に高校三年生の頃とは言えないが、そこいらのテニス選手に負けるつもりは一切ない。
    それに加えて、大曲は連続した休みがある度に遠山金太郎に駄々を捏ねられ大阪までテニスをしに遠征する生活だったので、身体の調子を落とすことが出来なかったというのもある。
    トレーニングは自分の欠かせない日課であるが、やはり実力を遺憾なく発揮することを恐れない強者とテニスをするという大きな目標が常に目の前に掲げられていることが嬉しく、誇りであると思う。
    大学でテニス部やテニスサークルに入らなかったこともそれが理由だ。学生時代をテニスに捧げ、日本代表として世界大会という大きな舞台で試合をした大曲達には、大学のテニス部やテニスサークルのレベルでは、残念ながら暇潰しの遊びの一つにもなりやしない。そのため、実力を知る仲間達か後輩達と打ち合うのが一番ベストで、それしかないとも言えた。惜しくも敗北してしまった世界大会決勝戦の後、世界を相手取りラケットを奮うことなどもうないだろう、殺気にもよく似た気迫と意地のぶつかり合いを凝縮した小さな世界はもう遠いものになるのだろう、と思っていたにも関わらず、結局は縁が出来たこ世界大会の面子とも適度に会って本気のテニスをしている。
    「………………ま、良い四年間だったし」
    世界大会では相棒と組んで試合をすることは叶わなかったけれど、あの世界大会だって互いの胸には片時も忘れることなく相棒の姿があり、大学生になってからは二人並んで同じコートに立ってラケットを奮った。それが幸福なのだと感じられる相棒に出会えたことが、大曲にとっては何物にも変えられない一番大きな宝物だ。他の仲間達も同様だが、大曲のことを自分の勝利だと言い切ってくれる相棒に今後出会えるだなんて思えない。
    社会人になったとて、自分達の傍らには必ずテニスがある。自分達の世界を構成する数多の内の最も大きな部分を占めるあの頃は何一つ薄れることも、掠れることもなく。相棒も、仲間も、同じ気持ちでいてくれるだろう。
    「……ん、修二?」
    一本目のビールを飲み干したところで、頭に浮かんでいた相棒の種ヶ島修二から着信が入った。種ヶ島は構って欲しがりの性格をしているためどんな時間帯でも連絡が入ってくることはあるので不審に思わず、そのままタップしてスマートフォンを耳に当てる。妙な予感がぞわそわと背筋に走った気はしたが、それもすぐに種ヶ島の声で掻き消された。
    「あいよ」
    『りゅーじー!』
    「うるせぇ」
    『なぁ来週の日曜って暇!? 暇やんな!? 頼みたいことあんねんけど!!』
    「人の都合を勝手に決めんなや。てか何の用件だし」
    スマートフォンの向こう側にいる種ヶ島は、どうやら本気で慌てているらしい。基本的に冷静で俯瞰的に物事を見ており、オールマイティに対処出来るはずの男がこんなにも慌てているということは、思い当たる節が一つしかない。
    春の空におぼろ雲。月を薄っすら隠す薄雲を帰り道に眺めたためだろうか、穏やかな晩酌の時間はあの月のように姿を晦ましてしまったらしい。だから妙な予感がしたのか、と思うものの、出てしまった以上はその頼みたいこととやらに付き合うしかないということ、他ならぬ相棒の性格上ここで断れないことくらい大曲は理解しているのだ。
    しかしながら溜め息は出るもので、近くにある鞄からスケジュールを書き込んである手帳を取り出して、該当日に何もないことを確認した。もしもここで予定があれば他の誰かが犠牲になるので、そうならなかったことを良しとすべきだと思うしかない。
    「空いてっけど、どうしたよ」
    『静ちゃんが……静ちゃんがー!』
    「広瀬絡みなのは最初から分かってるから、用件を言え。用件を」
    種ヶ島が溺愛して止まない恋人の名前が出てきたことで、この後どうなるかの予想がいくつか浮かぶ。この慌てっぷりから察するに種ヶ島には看過出来ないことなのだろうが────夜の微睡みを蹴散らすように勢い良く続けられた言葉を聞いて、大曲はこめかみに指を当てながら種ヶ島にも聞こえるように大きな溜め息をもう一度吐いた。面倒事に巻き込まれる一人の男の心情は、雲がぼんやりとたなびいている、どこか重々しさの揺らめく窓の外の空を映したそのものだった。


    △ ▽


    種ヶ島に指定された日曜日、大曲は事前に送られてきた情報近くの商店街に足を運んでいる。大きな通りを持つために商店街の雑踏の混み具合は程々で、商店街周辺が繁盛していることが伝わってくる。今日は天気も良いためだろう。先週の肌寒さが嘘のように春めいて、上着はいるものの寒い寒いと縮こまる必要はない気温に加え、太陽もしっかりと顔を出していて丁度良く上手く心地良い。
    まだぽかぽかという陽気ではないものの、外出したくなるような晴れ具合には漸く春が来たかと感じてしまう。つまり新社会人になる日が近いということなのだけれど、それは一旦置いておき、隣にいる背の高い二人組へ、大曲は付き合わせて悪いなと声をかけた。
    「今日は休みだ、問題ない」
    「久し振りに一緒にご飯行けて嬉しいですわ!」
    大曲も高身長の部類だが、人波から頭がゆうゆうと飛び出ている日本が誇る高身長ダブルスには敵わない。越知月光と毛利寿三郎はプロとして忙しい身ではあるが、今回は丁度休日で東京にいたらしい。種ヶ島から依頼を受けた大曲が仲間内のメッセージグループにヘルプを要請したところ、折角だからと付き合ってくれることとなった。
    「広瀬さん、どこおるんやろ。ちょおあっち見てきますわ!」
    アイドルの君島育斗、プロの越知と毛利、ここにはいないが同じくプロの徳川カズヤ、世界を放浪しているという平等院鳳凰とデューク渡邉というように、大曲の仲間は多忙な者が多い。
    そんな多忙な仲間と久し振りに会ってやることがこれかと思うが、越知も毛利も種ヶ島のことはよく知っているため、快く引き受けてくれた。背の高さを生かして辺りを見渡してから駆け出した毛利を見送り、大曲は種ヶ島から送られてきた店舗情報を改めて確認する。
    種ヶ島から電話で伝えられたのは、このような内容であった。
    『静ちゃんがその日友達に頼まれて、ビラ配りのバイトするんやって! 飲食店の新装開店のビラ配りらしいんやけど、どうしても心配で……! せやけど、こっち引っ越す前に友達の手伝いしたいて言われたら俺もダメなんて言えんやんかぁ……。俺、その日と次の日は親の知り合いが就職祝ってくれるんに祇園とか回って色々と顔出さなあかんくて、絶対そっち行けへんの。竜次、お願いやで様子見てきて! バイト代とか交通費とか出すし! 後生やから〜!』
    種ヶ島の恋人である広瀬静は四歳年下で、先日氷帝学園高等部を卒業したばかりである。京都に住む種ヶ島とは遠距離恋愛中だが、静が京都の大学に進学を選んだことにより今月末からはそれも終わる。
    交際を始めるまでに紆余曲折あったこともあり、京都で半同棲の生活をするのだと幸せいっぱいの毎日が目前でウキウキしていた種ヶ島の前に、突如として、かわいい恋人に変な虫がつくかもしれないという懸念事項が現れたため慌てて大曲に連絡したらしい。
    ビラ配り、しかも四時間ほどのことでそれほど心配しなくても良いだろうに、と思う反面、種ヶ島が心配してしまうくらいに静が魅力的に成長したことを知っており、そして、静は真面目ではあるのだがどこか抜けている部分があることを思い出し、仕方なく頼みを引き受ける次第となった。
    静の進学先が京都になったことを心の底から喜びつつも、生まれ育った東京と、中高と続いた友人関係を自分が理由の一つとなり離してしまう負い目もあるのだろう。静には『頑張ってな』と優しく言いつつ、引っ越す直前に何かトラブルが起きたらどうしようと不安がる種ヶ島の姿が簡単に思い浮かぶ。
    何やかんやと言いながら頼まれた通りにこうして顔を出すこととなった自分は、あの相棒に対して甘いのだろう。とは言え、ビラ配りの最初から最後まで四時間ちゃんと見守って、のお願いは流石に断っているので、常識的な判断力はまだ持っているはずだ。
    静がいくら自分達と親しいとはいえ、歳上の男三人に四時間全てを見られていれば仕事がやりづらいに決まっている。大曲は越知と事前に相談の上、二時間ほど見守ることにしたのだ。種ヶ島には文句を言われたが、うるせぇとだけ返しておいた。
    「店がこの一本奥の通りで……、ああ、この辺だし。人通りの多い道で昼間にビラ配りするくらいなら問題ねぇだろうにな」
    「ふ。種ヶ島は心配性だ」
    「広瀬のことに関してだけな。念願の彼氏になったんだから、もうちょい落ち着いて欲しいとは思うし」
    「あれだけ大切にしているんだ、それは無理な話だろう。とは言え広瀬とてもう十八で、氷帝の高等部を優秀な成績で卒業した一人の女性なのだから過保護も程々にしてやれ、とも思いはする。難しいところだな」
    微かに笑う越知の言うことも尤もである。確かに静は今でも小柄で幼さが強い面差しだが、もう十八を超えて、春からは立派な大学生になる。出会った頃のイメージが強すぎて感覚がズレているとは思うものの、高校三年生までの五年間をサポーター訓練生としてやり抜いた静はもう子どもではない。勉学の面でも、メンタルの面でも、静はそんじょそこらの同い年よりずっとしっかりしている。種ヶ島もそこはきちんと理解しているが、それで納得出来るような男ではなかった。
    「修二からすりゃ、あんだけ待って告白して遠恋してんだから過保護にもなるのも仕方ないって感じだろうけどな。限度はあるけどよ。ま、今日は見守り終わったら修二の金で飲み食い出来っから良いし」
    「そうだな」
    静のことを一人の人間として、信頼している。それでも、種ヶ島にとって静は、絶対に自分が守りたくて仕方のない、寂しさに焦がれることを良しとした唯一の相手なのだから、誰に何と言われても過保護を止めるつもりなどないだろう。かつて守護神と呼ばれた男が京都で一人苦悩する様を考えると、申し訳ないが面白かった。
    「知り合いにここら辺の美味い店いくつか教えてもらったから、まずはぶらぶらしてみっか。あー、そういや近くに猫のいるカフェあるらしいぜ」
    「夕飯まで時間がある。是非行こう。……む、毛利が戻ってきた」
    「お、見付かったか」
    猫という単語に食い気味で反応した越知だったが、聞き慣れた声が自分を呼ぶ声に気付いたのだろう。少し離れたところから駆けてくる毛利を見付けたが、どこか強張った表情の様子を見てすぐに口元を引き締めた。
    「どうしたし」
    「毛利の様子がおかしい。焦っているように見える」
    「は?」
    「つ、つきさーん! 大曲さーん!! どないしましょー!?」
    身長百九十を超える高身長の毛利は目立つので、その動きに合わせて人波が自然と割れる。すんません、すんません、と謝りながら二人の元へ戻ってきた毛利は大きな目を困惑に染めていて、もしや本当にトラブルが起きているのかと思わせるほどだった。ビラ配りの最中に変な奴に絡まれたか、もしくは体調でも悪そうなのか、どう対処すべきか考える前に毛利が走ってきた方を指差す。
    「あっちに広瀬さんおったんですけど、あんな広瀬さん見てしもたら種ヶ島さんが何て言うか……!」
    「……?」
    「おいおい、面倒事じゃねぇだろうな……」
    毛利の発言の意図がいまいち分からず、二人は首を傾げて言われるがままに背中を押されて歩き出す。二分ほど歩き、あんな広瀬さん、とはどういう意味なのかを改めて問う前に答えそのものを見てしまい、大曲は片手で顔を覆い、越知は低く息を吐いた。 毛利は二人の反応を見て、やっぱりこれはまずい事態だと再確認して顔色を悪くしている。
    ビラ配りをするため、人が多く行き交う大通りを選定することは当然だ。何らおかしなことではない。そして、ビラ配りをするのだから目立つための工夫があることも。
    天気が良いからだろう、賑わう通りは話し声や足音で雑多な反射をしているが、静の声はちゃんと聞こえる。老若男女が行き交うその中、多くの人の間から覗く少し低めの位置に、つやつやとした栗色の髪が見える。
    動く度に揺れる裾がようやっと目覚めた春を祝福するように可憐にひらひらと微笑み、濃い色とその上に重ねられた白ははっきりと街の風景から浮き上がって人の目を惹き付け、数人の足を止めさせている。栗色の髪に添えられた白花は淡く光を透かしている。
    ビラを手にして声をかけながら、にこにこと笑う静本人は、あくまでも普段通りだ。特に意識して愛想良くしているわけではない。自然な笑顔をしているだけで、声掛けに変わったところもなく、店名の紹介とよろしくお願いします、とそれだけだ。だが、動作ではなく別のところが、三人の頭を非常に悩ませている。
    「……あ!」
    ビラ配りをするために周囲を見渡していた静は人波から飛び出る三人の頭を見てこちらに気付き、近くにいた責任者らしきスタッフに声をかけてからやって来る。靡くリボンの端がひらりと軽やかに揺れてかわいらしく、また三人は胃がずっしりと鉛が押し込まれたように重くなった。
    「皆さん、お久し振りです! 今日は来てくださってありがとうございます!」
    「おう……」
    「ああ……」
    「うん……」
    こうして会えたことを嬉しそうに喜んでくれること自体はとても有難く、三人とてかわいい後輩の素直な気持ちが嬉しいのだが、今の静の装いを前にすると何も言えなくなってしまった。主に種ヶ島の反応が怖いという意味だが、歯切れの悪い反応に首を傾げる静は少しして何かに納得したように頬を赤くした。自分が着ているものへ視線を下げて、恥ずかしそうにしている。スカートを握る指が照れ臭さを秘めているので、自分が今、非日常の住人である自覚はあるのだろう。
    「あ、えっと、これはですね。似合ってないのは分かってるんですが、その……」
    「いやいや、めっちゃ似合うとるよ! 広瀬さんはそういうん似合うなぁてさっきも月光さんと大曲さんと話しとったくらいやし! ねっ!」
    「ああ。広瀬は楚々としたものがよく似合うな」
    「似合ってんのは間違いねぇし」
    あの濃すぎるGenius10の面々にあっても明るく朗らかに過ごしていた素直な毛利のフォロー力に感謝しつつ、大曲はなるべくおかしな声色にならないように注意して、照れる静に問いかけた。
    「今日は飲食店のビラ配りのバイトだって聞いてたつもりなんだがよ……その格好はどうしたんだ?」
    そう。大曲は種ヶ島から『飲食店のビラ配り』と聞いていた。まさかこんな特殊な装いをするだなんて聞いていれば、いくら静に甘い種ヶ島と言えども絶対に許していないはずだ。
    「はい。お友達のアルバイト先のビラ配りで……お店がメイド喫茶?というところだそうです。スタッフの皆さんも同じようにメイドさんのお洋服を着用されているので、私もこうしてお借りしています」
    「あ〜……………………なるほどやね〜………………………………」
    にこやかに答える静は────自分が纏うロング丈のメイド服のスカートを少し持ち上げて、聞いたときはちょっとびっくりしましたけど、と言った。びっくりしたのはこっちだと言いたくなる衝動をどうにか抑え込み、レースがふんだんにあしらわれた華やかでかわいらしいヘッドドレス、シンプルな形の黒いワンピースにフリルの飾られる白いエプロンを着るという、華奢さと少女性をこれでもかと繊細に彩られたかわいい静の理由が、悪意ある誘いでこうなったわけではないことに安堵する。
    しかしその反面、この状況を種ヶ島にどう伝えれば良いのか、どう説明すれば良いのか、上手く打破出来る道筋が全く思い浮かばないことが三人の胃を非常に重くしていた。
    どうやら聞けば、中等部でとても仲が良く高校からは外部に進学した友人からのアルバイトの誘いであり、本来ならばビラ配りをするはずだったがどうしても外せない家の都合で急遽休むことになったため、今日一日四時間だけという条件で静に話が来たそうだ。
    店舗改装によるリニューアルオープンで店内の備品やメイド服等は別に預けていたそうだが、業者の予定に空きが出来たとやらで前倒しで届けてもらうことが出来て、ビラ配りはメイド喫茶の正装であるメイド服で行うことになり、それも今朝決まったことで、静も到着してから聞いたとのことだったらしい。なるほど、その流れはどうしようもない。静に非がないため、三人はどう言って良いのか分からずに口篭る。
    友人を助けるために臨時のアルバイトをすることは良い。雰囲気と合わせても、確かに静はメイド服がよく似合う。シンプルなラインのワンピースは華美ではなく落ち着いていて、長袖かつロング丈のスカートなので露出がないことも、それは良い。
    ─────問題は、静が種ヶ島の恋人である一点に尽きるのだ。
    「…………いくら制服とはいえ、そのような装いをすることに戸惑いはなかったのか? 日常生活で着ることのないものでビラ配りをすることは、大変だろう」
    随分と悩んだ末に、越知はそう尋ねる。言葉を選んだ問い掛けは静が不審に思わないように慎重で、越知らしい現実的で冷静な問いかけだった。ナイス越知、と大曲は心の中で親指を立て、静が自分からメイド服に対して何か思ってくれていることを祈る。何か取っ掛かりがあれば事態が好転するかもしれない────
    「ちょっと恥ずかしいとは思ったんですが……前に一度、似たようなメイドさんの服を着てお仕事したことがあったので、それを思い出せば何とか大丈夫でした」
    「は?」
    「」
    「む……」
    だがしかし、返ってきたのは驚きの事実だった。いつの話だと疑問が浮かぶ。種ヶ島と静の出会いは四年前のU−17選抜合宿であり、静は当時中等部二年生だった。種ヶ島が世界大会後から明確に片思いを始めたが、それより前だとすると年齢的に『仕事をする』という部分と噛み合わない。しかしそれ以降ならば静がメイド服で仕事をするなんて分かれば種ヶ島が大騒ぎをするはずだが、そんな覚えは誰にもない。少なくとも当時のGenius10のメンバー、特に相棒である大曲が知らないわけがない。
    静に限って種ヶ島に隠れて、というおかしなことはないに違いないが、大曲は咄嗟に上手く反応が出来ず、食い気味にいつの話だと聞き返してしまう。問われた静はその食いつきに小首を傾げたが、いつも通りににこやかだ。
    「中等部二年の夏休みに跡部先輩が主催された合同学園祭です。氷帝の模擬店の一つがとても立派な喫茶店で、跡部先輩達はスーツ姿だったんです。メインは跡部先輩達なので運営委員の私は制服で良いかと思ったんですが、模擬店の雰囲気に合わせるという話になって……わざわざ二日間のために一着を購入してもらうのも申し訳ないと思っていたら、跡部先輩のお家にある予備のお洋服を貸していただけることになったんです。それがこういうエプロンドレスで……滅多にない機会だと思ってたんですが、また着ることになるなんて。びっくりです」
    その話を聞いた瞬間、三人の心は一つになった。
    ────跡部!!
    懐かしい思い出を語る春の木漏れ日のように穏やかな静の微笑みを見る傍ら、脳裏の跡部が不敵に笑った気がした。
    「…………そうか、そんな催し物が確かにあったな…………」
    「……あー……それが切っ掛けで広瀬がマネになったってやつか……」
    「そういや前に切原からそないな話聞いた覚えありますわ……」
    「はい! 氷帝男子テニス部の運営委員になったことマネージャーに、そこからサポーター訓練生になったので、私にはそこが始まりなんです。そのときもお店の雰囲気に合わせて着ましたから、こういうコンセプトのお店なら仕方ないかなと」
    静がテニスに関わることになった始まりの夏。そう言われてしまうとどうしようもない大曲は眉間の皺を揉んで気を紛らわせる。
    合同学園祭というイベントについて、種ヶ島から羨望と嫉妬混じりの愚痴として聞いたことがある。当時の中学生達が関東大会を終えた後、全国大会までの間にあったという主に関東の強豪校を巻き込んだ合同学園祭を跡部が主催し、氷帝男子テニス部の運営委員に静が選ばれ、大小様々なトラブルを共に乗り越えたことで静は各校の男子テニス部員からの確固たる信頼を得て、マネージャーになったのだという。
    それまで部活に所属していなかった静はマネージャー業務に真剣に取り組みその姿勢を認められて、U−17選抜合宿に中学生を特別召集することとなった年に同時に行われたサポーター訓練生育成プログラムに参加し、そこで種ヶ島と出会った。種ヶ島は静に心を傾け恋を育て、静もまた種ヶ島への恋の花を咲かせた。
    そうして交際を始めた二人は、これまで離れていた分を埋めるように来月から京都で共に過ごすこととなるのだが、その全ての切っ掛けは、跡部が主催した合同学園祭。もしも跡部が合同学園祭を企画しなければ、静は男子テニス部のマネージャーになることなどなく、合宿所で種ヶ島と出会うこともなかったのだ。四歳も年上で京都に住んでいる種ヶ島が、テニス以外で偶然静と出会う可能性は限りなく低い。
    つまるところ、跡部は二人の恋のキューピットと言える。跡部がいたから種ヶ島は静と出会うことが出来たという明確な事実を前にすると、全ての切っ掛けとなった合同学園祭で静がメイド服を着ていたことは仕方のないことだったように思う。いや、そう思うしかないのだけれど。
    少なくともその頃には出会ってすらいない種ヶ島が過去の出来事へ文句は言えない。そして現在、自分の引っ越しで遠く離れてしまう友人のために協力している静の心意気は素晴らしいものだ。故に、大曲が口に出来たのは、これだけだった。
    「……………………そうか……なら……仕方ねぇか……」
    「? はい、残り時間も頑張ります!」
    実際のところ全く良くはないのだけれど、そう言うしかない。やる気に満ち溢れる静は上品なメイド服姿が本当によく似合っていて、大曲はひたすらにぎりぎりと痛む胃の叫びを感じ取っている。

    静がビラ配りをしている場所のすぐ近く、交差点の真向かいに空いているテラス席のあるカフェを見つけた三人は、ここならば不審者にならずに見守ることが出来ると判断して入店した。外で立ちっぱなしだと静が気にするが、カフェで寛ぎながら待っているならば問題ないだろう。
    小腹が空いていたこともあり、長時間座らせてもらうこともあり、複数選んだ注文がテーブルを埋め尽くしてから、小声で作戦会議をすることにした。テラス席は四人がけのテーブルが一つだけなので、男三人がここにいれば他の者がわざわざ近付いてくることもないだろう。
    店自慢だという珈琲のブレンドを飲みながら静に目をやれば、すぐに気づいてこちらに向けて笑顔で手を小さく振ってくれる。越知以外は学校の直接の後輩というわけではないが、大曲にとっても、毛利にとっても、静はかわいい妹分だ。そんな妹分を守るための会議がいざ始まる。
    「さて、どうするよ」
    「うーん……種ヶ島さんがこれ知ったら……」
    「広瀬に対して強く怒るようなことはないだろうが、動揺はするだろう。確か種ヶ島は自分のいないところで広瀬がかわいい洋服を着ていると、いつも嫉妬していなかったか?」
    「切原らと遊んどるときとかはそうですねぇ」
    「広瀬のことに関しては普段の余裕がねぇからな。修二の反応が気掛かりとはいえ、別に広瀬が何か悪いことしてるわけじゃねぇのがな……」
    珈琲の苦味に口を付ける。苦味で頭が冴えることに期待して重い苦味がオススメというブレンドを頼んでブラックで飲んでいるが、ここにいる三人であの種ヶ島が『静がかわいいメイド服でビラ配りをしていた』という報告をどうやってすれば良いか、良策を思い付くことが出来るだろうか。
    種ヶ島はああ見えて物事を俯瞰から見、冷静に対処する術を心得ている男だ。入江や君島との舌戦も楽しんでやり、搦手や策略も涼しい顔で迎え撃つタイプであるので、相手にするにはテニス以外でも手強い相手だ。心理学が得意というだけあって人の反応を捉えることにも長けており、正直なところ種ヶ島は敵に回したくないタイプの男だと再確認してしまう。
    入江や君島は種ヶ島と同じ土俵で戦うことが出来るが、この場にいない者を巻き込むことは難しい。どうしたものか、うーん、と三人が悩む中、大曲は、それならばいっそ下手な小細工は無しで、シンプルに誤魔化すしかないという結論に至る。今日明日と京都から絶対に種ヶ島が出られないならば、四人が話を合わせればどうにかなる。
    「広瀬に話合わせてもらって、店のエプロン借りてやったっつう体でどうだし。俺ら三人と広瀬が余計なこと言わなきゃバレねぇだろ」
    「そうだな……種ヶ島には悪いが、ここは誤魔化す一択だ。もしも種ヶ島が知って機嫌が悪くなりでもすれば、広瀬が自分を責めてしまうかもしれない。それは避けてやりたい」
    「そうですねぇ。ほんまもんのスタッフさんはともかく、広瀬さんは臨時バイトやもん。あの洋服やなくて店のエプロン借りたってことなら、流石の種ヶ島さんも疑わんとおってくれそうやし」
    「俺らはともかく、広瀬は誤魔化すの苦手だからなるべくシンプルにいくぞ。広瀬があと一時間くらいで終わるから、そんときに打ち合わせすっか」
    「ええですね、そうしましょー!」
    「あー……そういや修二にバイトの様子撮ってくれって言われてたな……しゃあねぇ、忘れてたで押し通すか」
    「それならば業務中は店舗スタッフ以外の撮影は禁止だった、で良いだろう。広瀬は臨時アルバイトなのだから写真を撮られることもなかったで通るはずだ。後でそこは確認しておこう」
    「おう、サンキューな越知」
    かわいい装いのメイドばかりなので男性スタッフは勿論いるが、念のために静に変な男が声をかけないか見張りつつ、三人は相談を重ねていく。視線の先にいるメイド服を纏う静は普段の礼儀正しさや姿勢の良さ、そして自然な笑顔で対応しているので、衣装の物珍しさもあってか、ビラを受け取る者が多いようだった。あと様子ならばビラ配りの臨時アルバイトとしては上出来だろう。
    良い生地を使っているようで、静の動きに合わせて膝下まであるスカートがくるりと優雅に円を舞い、地面にその形の影が踊る。丸い影を目にし、それが何だか懐かしいジャージの、種ヶ島の独特の着こなしを思わせるので大曲は少し笑った。
    あのときからもう四年も経つのかと思わないでもないが、Genius10としての最後の試合を終えた後も、高校を卒業した後も、自分が信頼を託す相棒は種ヶ島で、その周りにいて共に笑い合うのは日本代表として同じ世界を走った仲間達だ。地元や大学にも仲の良い者はいるが、世界一を目指して汗と血を流した仲間はやはり特別だと感じる。
    「今日の晩飯、何しよかな〜。大曲さんはどっか食べたいもんとか決めとります?」
    「さっき越知とも話してたんどけどよ、知り合いにここら辺の美味い店は教えてもらってんだよ。だから夕方くらいまでゆっくり相談するんで良いんじゃね」
    「広瀬がいるから最初の店は酒なしだな。もし飲みたいようであれば、広瀬を家に送り届けた後に別の店に行くことにしよう」
    「おう、そうするし」
    「なら一軒目は広瀬さんの希望にしましょか! 何やろ、イタリアン、洋食とかないかな〜」
    種ヶ島が静への恋心を自覚してからは仲間達を巻き込んで片思いに奮闘し、両思いになってからも仲間達はこうして見守っているので、これからも何やかんや二人の近くにあって見守ることになるのだろう。そんなささやかな幸せが散りばめられている未来があること、二人が笑うほんの近くに自分がいることを、大曲は嬉しく思うのだ。
    とはいえ今日さえ乗り越えれば、種ヶ島が期待に胸を膨らませる二人の生活が始まるので、今日のようなことはない気もするのだが。一杯目の珈琲を飲み終え、小腹満たしに選んだほうれん草と鶏肉のキッシュがなくなったところで、静がこちらにやって来る。
    青空から光が降り落ち、新緑の街路樹の葉に落ちたそれが反射して輝きとなり、淡く花が綻ぶそのときのように、スカートが足捌きによってふわりふわりと膨らんでは柔らかく波打つ。
    光を受けて、栗色の髪に天使の輪が浮かんでいるのがどことなく眩い。ベージュとダークブラウンのブロックが交互に敷き詰められた道をシックなメイド服の静が小走りで駆けてくる様子は、どこか映画やドラマのワンシーンじみて非日常の可憐さであったので、やはり三人は胃が重い。種ヶ島がいないところでメイド服を着ていることもそうだが、あの光景を恋人である自分が見ることが出来なかったと絶対に拗ねるので絶対に面倒臭い。
    「広瀬さん、どないしたん?」
    まず毛利が尋ねると、静はまず頭を下げた。
    「待っていただいて、すみません。ありがとうございます」
    「いやいや、全然。ここのケーキ美味しいからゆっくり堪能させてもろとったで」
    「ああ。そんなに慌てなくて良い」
    「あと一時間ちょいくらいだろ? 何かあったか?」
    次に顔を上げた静は嬉しそうに笑っている。白い頬の笑窪がかわいく、顔周辺を飾るヘッドドレスと相まって更にかわいいと感じる。きっと種ヶ島がここにいたならばかわいさのあまりに、あの綺麗な顔をデレデレと緩ませていることだろう。
    「実は今日の分として用意していたビラがもうなくなってしまったそうで……元々ビラ配りだけでしたし、私はもう終わって良いそうなんです」
    「おっ、良かったし」
    「頑張って配っとったもんな!」
    静が少しでも早く終われるならば、それに越したことはない。待っている間に三人でどう誤魔化すかの内容をある程度決めてあるので、それを早く静に伝えておけば後で種ヶ島から連絡があっても何とか対応出来るだろう。大曲は内心でほっとした。
    「なので、一度お店に戻って着替えてきます。お店はすぐなのでそんなにお待たせせずに済むかと……ええと、今の時間が……」
    スカートにはポケットがついていたようで、静が時間確認のためにスマートフォンを取り出す。以前種ヶ島が贈った手首に通せるストラップがしゃらりと揺れ、スマートフォンが軽く振動した。
    「……あれ、修二さん?」
    「あ!?」
    「んん!?」
    「む……」
    早く終わって一安心だと思っていたところに聞きたくない名前が飛び出してきて、三人は再び動揺した。長く振動しているので着信なのだろう。どうしてこのタイミングで電話がかかってくるのか、予定が詰まっていて忙しいのではなかったのか、など色々なことが頭に浮かぶが、待ったをかけるより先に静の指が画面をタップする。
    「すみません、ちょっと電話かかってきたので失礼しますね」
    「あっ、待っ、」
    静はあの癖の強い選手達を支える者として、サポーター訓練生を五年間やり遂げた強者である。常日頃から選手のサポートを行うだけでなく、海外遠征や世界大会で突発的に起こるハプニングにも即座に対応する慣れをものにしている静は、素晴らしい反応速度で電話に出る。
    「ひろ、」
    まさかこのタイミングで電話がかかってくるはずもない、そう思っていた隙を突く一瞬の動揺は三人から余裕を奪った。大曲が止める言葉は間に合わず、静がスマートフォンの向こう側にいる種ヶ島に声をかける方が早かった。
    「はい、修二さん。お待たせしました。今お電話大丈夫なんですか?」
    『静ちゃん! お疲れ〜! 何となく声聞ける気がしたんやけど、タイミング良かったみたいで良かった!』
    ────こっちは何も良くねぇんだが!?
    スピーカーをオンにしていなくとも聞こえる種ヶ島の声を前にして、まずいまずいと脳が高速で動き出した。どうにか誤魔化せると判断したのは前もって打ち合わせをする前提の話であり、その前に電話に出てしまった以上、静が一人で『メイド服を着ていることを種ヶ島に秘密にする』選択肢に辿り着くことは限りなく不可能に近い。
    何故ならば、静は自分の価値を見誤っているからだ。
    種ヶ島に大切にされている、愛してもらっている自覚は、静なりの受け取り方であってもきちんと持っている。そこは相手が種ヶ島修二という男であるので、鈍い静であってもその自覚が出来るように言動で明確に気持ちを伝えており、その心配は一切ない。
    だが静は、自分自身の価値をとことん低く考えている。それは私なんてという卑屈さではなく、単純に自分自身というものにあまり興味がない故の関心の低さで、成績や結果として数値になる部分には意識を向けることが出来ても、それ以外は考えが及ばない。前例があるならば尚更に。
    要するに、静は『種ヶ島がいない場所でメイド服というかわいい服を着ていても、ただの仕事であるから問題がない』と思っているのだ。事前に分かっていたならば報告もしただろうが、仕事前に急に決まったこと。種ヶ島が朝から挨拶回りで忙しいと知っている静はわざわざ伝えることもしなかったろう。自分は以前に同じような服装で接客をした経験があり、今回はただのビラ配りなので余計にそう思っているに違いない。
    静は分かっていない。いくら急に決まったことだとしても、仕事なのだとしても、種ヶ島が許すわけがないのだと。変な虫がつかないようにと報酬を出してまで大曲に見守りを依頼するような男がそんなことを良しとするわけがないのだと────
    『今は休憩中?』
    「いえ、早く終わったので今から着替えて大曲さん達とご一緒します」
    『そっか! なら良かった〜。俺はまだまだ挨拶回り行かなあかんし、また夜になったら通話しよな』
    どうかこのまま無難なやり取りをして一先ず切ってくれと祈るしかない三人は、内心でハラハラしながら静とスマートフォンを凝視していた。
    例えばここで誰かが静のスマートフォンを借りて種ヶ島に話しかけたとする。その間に残りの二人が事情を説明し、メイド服での仕事のことを話さないでくれとこっそり念押しすれば、一旦は危機を逃れることが出来るだろう。
    だがそれは本当に一時だけのことでしかない。種ヶ島は他人が思うよりも敏く、特に反応という一点においては凄まじいまでの洞察力を発揮するのだと、静よりも共に過ごしてきた時間が長い三人の方がよく理解している。
    余程の緊急事態でもない限り大曲、越知、毛利が二人の会話を遮ってまでも静のスマートフォンを借りて話をする、なんてあり得ないことだ。あり得ないならばそこには必ず意図がある。静を電話口から遠ざける理由があり、その理由が臨時アルバイトに関わる何かだということくらい、種ヶ島ならばすぐさま気付く。気付いたならばゆっくりと話術で静に探りを入れて、ビラ配りの際にメイド服を着用していたことに確実に辿り着いてしまう。
    そうなれば『どうしてその事実を隠そうとしたのか』になり、静が自主的にそうするわけがないので、今回の見守りメンバーから察して大曲が主導したと分かり、更に面倒が大きくなる未来しか見えないのだ。これはどうしても避けたいが、友人に頼まれた臨時アルバイトを頑張っていた静を見ているので、相棒の不興を買うのだとしてもなるべく穏便に事を済ませてやりたいと思う。
    「ど、どないしましょ……!?」
    「助けてはやりたいが……種ヶ島に少しでも勘付かれたら意味がないからな……」
    「修二の奴、タイミングが良すぎて悪いから困るし……」
    ひそひそ、こそこそ。図体の大きな男三人が小声で話し合っている奇妙な光景に静は気付かない。もうこうなればヤケクソで、静が店のスタッフに呼ばれていると嘘をつくべきかと衝動が喉を越えようとしたとき、
    『そう言えば今日は何のお店のビラ配りやったん? カフェ?』
    ────あ。
    「はい。メイド喫茶という、かわいいお店のカフェでした! こういうお店もあるんですねぇ」
    ────ああ……。
    自分というものへの関心が薄いばかりに事の重大さを全く理解していない静は、自分から最悪のタイミングで爆弾を落としてしまった。懐かしい経験をしました、と笑う穏やかな微笑みはどうしようもなく暢気で柔らかな、今日の麗らかな空を声帯に移し落としたかのよう。
    『………………、は?』
    一方、スピーカーから微かに漏れ聞こえるのは、種ヶ島の低い声。
    明るい性格らしさ溢れる元気な声とは真逆の声はひどく種ヶ島らしくないというのに、三人には種ヶ島がどんな表情をしてそう発したのか、ありありと想像出来てしまう。恐らく、いや確実に、今の種ヶ島は表情が無になっている。
    あちゃあ、と頭を抱えたのは毛利。黙して眉間を揉んでいるのは越知。そして種ヶ島の相棒としてこの現状を最も沈痛している大曲はというと、静のこの後を考えて、非常に胃が痛くなっていた。
    何も分かっていない静のスカートを揺らす風に、どこからか飛んできた花弁が一枚乗っている。二人が心待ちにしている春が漸く訪れようというこのときに、こんなことが起きなくても良いだろうに。


    予定を全て終えた種ヶ島は改めてどういうことなのかを尋ね、静と大曲達から事情を聞き終えた後でむすりと頬を膨らませていた。事情を把握し、静に非がないことを理解した。しかしどうにも納得出来ない心の靄はどうしてもあるというもので、それを抱えたままベッドに倒れ込む。
    自室のベッドで眠るのはあと数回。家業の関係でちょくちょく実家に戻らなければならないため一応は半同棲という形だが、これから種ヶ島が帰る主な場所は静と二人で暮らす部屋になる。二人で眠れるように大きなベッドを購入してあるので、早く静が京都に来る日になり、二人でおはようとおやすみを直接言い合える夢のような現実が欲しいと強く思う。
    「………………」
    種ヶ島は怒っているわけではない。悲しいわけでもない。ただ、強いて言うならば悔しくて、寂しかった。ネガティブな感情を引っ張らない性質であるので近い内に飲み込むことは出来るだろうが────ふと、良いことを思い付き、スマートフォンに指を走らせて調べものをしていく。
    十分もすれば種ヶ島の頭の中は楽しいことが膨らんでいき、わくわくする気持ちはネガティブな感情を別の形へ変えてくれる。形の良い唇を指でなぞる種ヶ島は、静の知らない笑みを浮かべている。


    △ ▽


    静が京都市に引っ越し、二人で暮らす生活を初めて約二ヶ月が経過した。
    五月も終わりに近付き、初夏を迎える京都市は盆地特有の蒸し暑さがある。どうにも身体が重く感じ、まだこの気候に慣れていないが来たばかりなので仕方がないことだと静は前向きに考え、体調が崩れることのないように睡眠時間や食生活などで気を付けている。尤も、交際したときからの切望である『種ヶ島に出来たてのものを食べてもらえる』が叶っていることもあり、本人の自覚以上に毎食気合を入れて栄養バランスに気を付けているので、その部分に関しては問題ないと思われた。
    アルバイトを終え、京都市内特有の碁盤上の道を種ヶ島に手を引かれて歩いていく。大きな通りの名前を覚えて慣れれば簡単だと入江奏多にも言われたが、散策がてら意識して脳内マップを埋めているマンション周辺以外を自分一人で迷わず歩くには、もう暫く時間が必要である。
    「今日のバイトはどうやった?」
    「ちょっとずつ新しいことを教えていただいてます。あ、英会話でまだお役に立てるのは嬉しいです。訓練生のときに英会話のレッスン頑張ってて助かりました」
    「せやなぁ。静ちゃんが五年間頑張ってきた成果やもん、胸張ってお客さんとのコミュニケーションに使い。店長も他のスタッフも、めっちゃ助かるって褒めとったから」
    俺の自慢の彼女やから、当然やけど。そんな風に笑う種ヶ島の言葉は恥ずかしいけれど堪らなく嬉しい賛辞で、静は絡めている手に力を込めた。異国語が飛び交う観光客の雑多な喧騒に二人の足音は紛れるが、互いの声だけは自然と聞き取ることが出来る。頑張れたのは修二さんのおかげです、と小さく呟いた声を受け取った証なのか、今度は種ヶ島が指に力を込めて悪戯っぽくにぎにぎと動かした。
    静が種ヶ島の紹介で始めたカフェでのアルバイトも二週間ほどが経過し、微々たる進歩ではあるが少しずつ慣れてきたように思う。まずはメニューを覚え、先輩スタッフの仕事を見ているところから始めててもらったが、種ヶ島が卒業まで働いていた場所だけあって明るい雰囲気漂う店であり、スタッフ皆が丁寧に教えてくれることもあり、程良い緊張感で仕事に集中出来る有り難い職場だ。種ヶ島の会社に近いこともあって、今日も夕方までのシフトを終え、仕事終わりの種ヶ島と待ち合わせて帰宅している途中である。
    まだ夜には早い、夕方と夜を組み合わせた紫がかる空を鈍色の雲が覆っている。星も幾つか見えるが、まだ夜の帳は降り切らない僅かな時間特有の幻想的な天蓋。足早に歩く人達がアスファルトを踏む音は、花金を祝うためか、早く夜になれと急かしているようだ。
    交差点での待ち時間に天気予報を確認した種ヶ島は、静の耳に唇を寄せる。心を許し合った二人だけの近い距離。静のまろい栗色の髪に、種ヶ島の銀がかる白い髪がぽふんと当たる。二人は三十センチ近い身長差があるので、これが定番の距離だ。
    「静ちゃん、明日は天気悪いみたいやし家でゆっくりしよか。帰りに週末用の買いもん行っとこ」
    「はい、そうしましょう。お野菜が欲しいのでスーパーに寄っても良いですか?」
    「何か重いもん買うんやったら言うてな」
    新社会人として働く種ヶ島は疲れているだろうにいつも通りの笑顔を浮かべていて、どんなことであっても、いつでも他人に気を配る余裕がある素晴らしさをつくづく感じてしまうのは、静が大学生活にもアルバイトにもまだまだ気を張っているからだ。
    スケジュールのハードさで言えばサポーター訓練生の期間の方が明確に忙しなかったが、それとは違う焦りのようなものをどうしても感じてしまう。家族の元を離れ、土地勘のない京都で暮らしているという現実にまだ慣れないからだろうが、こればかりは時間の経過と共に自分が今いる環境に馴染んでいくしかない。
    中学二年生からずっと近くにいてくれた日吉若達と離れたことも寂しいが、こちらでも同じくゼミで新しく友人が出来ており、一緒に講義を受け、家にも遊びに行かせてもらっている。漫画やアニメが好きで色々と教えてくれたりと、静があまり知らないことを好きだと笑う彼女は話していてとても楽しく、これからも仲良くしていきたいと思う。
    紹介してもらったとはいえアルバイト先も良い場所だ。何よりも種ヶ島と共に暮らしていける日々が京都という土地にあることが嬉しく、どれだけ大変であったとしても京都での新生活を頑張ろうと思うことの出来るエネルギーとなっている。
    種ヶ島と交際をしているだけでなく、こうして同じ道を歩いて同じ家に帰る時間があることを、昔の自分は信じられるだろうか。合宿所の小さな薄がりで膝を抱えていた弱かった迷い子は、今、迷う度に見付けてくれたたった一人の星と手を繋いで生きている。
    「……ふふ」
    「どしたん? 何か楽しいことでもあった?」
    「いえ、来週が楽しみだなぁって」
    苦しい時間もあったけれど、全てが瞬くひかりに包まれている良い思い出と経験になった。そう言い切れることが静がテニスに捧げた五年間の青い春への言祝ぎに結ばれる。
    そしてその言祝ぎに至った最初の分岐点は、静の隣にいる星が照らしてくれた道だった。跡部達と出会わなければテニスに関わることもなかったけれど、薄がりで種ヶ島に見付けてもらわなければもっと迷って、違うことに惑っていたはずだ。今と同じ、やりきったと晴れやかな心境で終わりを迎えられてはいないだろう。
    種ヶ島修二に出会えたことは、あまりにも大きくて。紛れもない幸福に満たされるだけではなく、自分に出来ることなどたかが知れているとしても、少しでもこの喜びを種ヶ島に返したい。五月末、来週に控える種ヶ島の誕生日に向けて考えていることもある静はいつになく楽しげで、にこにこと笑う笑窪は満開の花のように丸い。
    「今日の晩ご飯は豚の角煮ですよ。昨日から仕込んであるので、美味しいと思います!」
    「ほんま? 静ちゃんの角煮めっちゃ美味しいから、今日はいっぱい食べよ」
    そんな静の笑顔を何よりもかわいいと思いながら、種ヶ島は漸く自分だけの恋人になってくれた静の手をぎゅっと握る。周囲に知らしめるように他の誰にもあげない、と主張するように絡める褐色の指が躊躇いを覚えることはきっとない。
    数分歩いた先にあるスーパーで買い物を終えた二人はそのまま真っ直ぐにマンションへ帰る。いつもならば散歩がてら回り道でもするのだが、時間帯もあってスーパーが大変混んでいたため、早くゆっくりしようと静が提案したからだ。
    「修二さん、お先にお風呂どうぞ。私は食材の整理とか、夕飯の仕上げとかしてますので」
    「分かった、ありがとね。明日は静ちゃんが風呂先な」
    「分かりました」
    種ヶ島としては五日間仕事を頑張ったご褒美として一緒に入浴したかったが、料理を担当してくれている静がそう言うならば今日は大人しく従うことにする。仕事で酷く疲弊した日の夜は絶対に一緒に入ってもらうが、そうでない日は我儘を言いたくなるときと言わずに済む日があり、今日は後者の気分だったのだ。
    別に今日楽しみを欲張らずとも、土日には種ヶ島が心待ちにしていることがある。脱いだ服をそれぞれの篭に入れて分別し終わり、ふと顔を上げる。脱衣所にある洗面台の鏡に映る自分の顔がいつにもなく綺麗に笑っていて、もしもここに大曲達がいれば何を企んでいるんだと問い詰められたことだろうと思う。
    人聞きの悪いことを、何も企んでなどいない。ただ、少しばかりやってみたいことがあるだけだ。企むという言葉に内包されるような悪いことは考えていないため、キッチンにいる静の様子を窺うこともない。身体を伸ばすストレッチをしてから、種ヶ島は鏡に背を向けて浴室に向かった。
    もしもこの世に煩悩を溶かす湯があったとしても、種ヶ島が抱え続けたこの願いはどうにもなりやしない熱量を秘めている。それはきっと我儘でありエゴの煮凝りという我欲でしかないものだとしても、二人で話し合った末の結論ならば、静の保護者達から怒られることはない、と思いたい。

    食事を終え、静の入浴を終え、片付けを終え。何の予定も入れていない週末の前の金曜日は夜更かししても問題ないと思える開放感に溢れており、撮り溜めていたドラマの録画をのんびりと見る時間をグラスに入れた氷がかろんと鳴る音で祝う。
    獣医をテーマにした動物がたくさん出てくるドラマは二人のイチオシで、コメディとユーモアをふんだんに盛り込みつつ、真面目に命について問う場面もあり、一時間があっという間に過ぎてしまう面白さだ。今週の話を満足感と共に噛み締め、二人で来週はどうなるのかと予告を元に話し合う時間もこれまた楽しい。
    身近な存在に入江奏多がいるためだろう、脚本だけでなく演技という部分にも強く意識が向き、この俳優のどこのシーンが良かった、あの俳優のこのシーンは迫真の演技だった、と熱く感想を言い合って、落ち着いた頃にはもう二十三時近くになっていた。
    「もうこんな時間……。どうしましょう、他にも何か見ますか?」
    「うーん、せやなぁ」
    静は普段ならばもう睡魔に手を引かれている頃合いだが、感想を語り合うことが楽しかったのか、まだ目はぱちりとしている。まだ構築途中だが、二人で住むリビングのゆったりと寛げるソファに座って、腕を伸ばして肩を抱き寄せれば栗色の頭が自分に寄りかかる温もりを感じられる。静に恋をしたと気付いてからの間、想いを伝え合っても離れていた間、種ヶ島の隣は静の名前が掲げられていても空白のままだった。物理的な距離を埋めるには二人はまだまだ子どもで、それでも想い続ける覚悟が尊い現実になった幸甚に胸を満たしつつ、種ヶ島はわざとらしく思案げに首を傾げる。
    「……ちょっと相談があるんやけど、聞いてくれる?」
    「相談……? 私に出来ることでしたら善処します……!」
    予想は出来ていたけれど、静が全幅の信頼を向けてくれていることが嬉しいやら、少し怖いやら、複雑な気持ちで種ヶ島は静の頬をつつく。柔らかい頬にいつでも花が咲いていて欲しいが、大学生ともなると交流関係は大きく広がるので、何かあるかもしれないという危機感はしっかり持つよう話してはいるのだが、伝わっているか微妙なところかもしれなかった。
    「うーん、内容聞く前からその返事はやめとこな。悪い奴に引っ掛かったら大変やで」
    「……修二さんは悪い人じゃないでしょう?」
    「嬉しいけど、俺がふと魔が差して悪いことお願いせんとも限らんのやから、返事は話聞いてからにしとこ」
    「……はい」
    無防備に思われがちな静だが、それは基本的に親しい男子テニス部にのみ見せる部分であって、一線を引いた向こう側には優しさはありつつも常識的な範囲できちんと対応している。しかしその分、信頼している側へはかなり甘い部分があるということも事実であり、特に種ヶ島にはそれが顕著だ。
    恋人という関係になれたことも、返事を待ってもらったと負い目があることも影響しているとは思う。それ自体は仕方がないので種ヶ島は気にしていないが、願い事があれば叶えたいと強く思ってくれるほどに好きでいてくれるのは素直に嬉しいため、口元が緩みそうになる。
    俺の理性が試されとる、としっかり心の手綱を締めてから、種ヶ島はつやつやの栗色の前髪に唇を触れさせた。淡く揺らいで桃の香りがして、脳の意識の大きな部分が静の方へ傾く。今すぐにでも齧り付きたくなる甘い香りに皮膚がぴりと引っ張られるが、衝動は持ち前の我慢強さで噛み砕いてしまえた。
    「あんな、土日は出掛けんとゆっくりしよって話とったやん。外出んやん。部屋の中で着て欲しいもんあって」
    「お洋服ですか?」
    「そ。ちょっと持ってくるわ」
    オシャレが好きな種ヶ島は自分だけでなく、他人に似合う服を見付けるのも好きだ。仲間内で出掛けた際に種ヶ島のコーディネートで一式購入した等の話も聞いているし、以前からルームウェアやパジャマをプレゼントしてもらっていることもあり、静は突然の提案にもそこまで困惑は感じない。
    種ヶ島の自室内にある多種多様な洋服が吊り下がっているウォークインクローゼットの奥、鞄等を纏めている箇所に隠してあった紙袋を持ってリビングに戻り、渡す前に一応念を押す。
    「これは俺の我儘やから、静ちゃんが少しでも嫌やと思たら着んといて」
    「……それは、どういう」
    「中身見たら分かるとしか言えんなぁ」
    苦さを滲ませて笑う瞳に住む星からは真意を読み取れない。種ヶ島からプレゼントしてもらった洋服を嫌だと思う、という感覚が理解出来ない静は二人の間に置かれた厚手の紙袋とその中でしんと佇む箱へ視線を落とした。
    開封すれば分かるとのことだが、そう前置きするということはこれが用意されたことには何かしらの理由があるのだろう。種ヶ島は時たまテンション高くはしゃぐこともあるが、意味のないことはしない人間だ。
    紙袋に印字された英語だけではどんな系統の洋服なのかは判断が出来ないが、種ヶ島がわざわざ静の嫌がるものを購入してくる可能性があるとは思えなかった。静があまり好まないファッションで考えるならば露出の多いものだが、ファッションに明るい種ヶ島が着る者の意見や好みを無視して選んで購入した、なんてするはずもない。
    いつもならば静の好みを最優先して、その上でどれが良いか聞いてくれる種ヶ島だ。この線はないと考えて良いだろう。となると何が静の『嫌』に引っ掛かるのか分からずぐるぐると悩みそうになるが、着なくても良いという選択肢を用意しておいてくれる時点で不安がる必要はないのだと思い直す。ここで静が着ないことを選択したとして、種ヶ島が怒るはずがないのだ。
    「では……中を確認します」
    「うん」
    紙袋から取り出した箱はしっかりとした重厚な作りだが、そんなに重くはなかった。僅かなてかりのある黒い箱は端が金属の丸いボタンで留められて、上蓋には同色の薔薇がふくりと浮き上がる加工がなされ、縁には白いレースが飾られてこちらを覗いているという、洋服が入っているにしては何とも荘厳な仕様だった。恐らくブランド名である英字は銀の箔押し、正面から見て手前の側面には印刷ではなく切り込みから赤いサテンのリボンが通してあり、形良く蝶々結びがされている。
    箱だけでも雰囲気が出ているこの箱に一体何が入っているのか。和服ではないことくらいしか予測出来ず、静は恐る恐る上蓋を持ち上げて、開封されるときを待っていたと声を上げるようにかしゃりと音を鳴らす薄葉紙を止める封蝋を模したシールを剥がす。豪華な装丁ということはドレスだろうか、いや部屋でドレスはないだろう、と考えたところで、指が薄葉紙を捲って中のものが顔を出した。
    「…………?」
    胸元が一番上に来るように折り畳まれているそれは、深い紺色と、丸襟付きの白いシャツ。前立ては比翼仕立てで、両サイドを丁寧に作られたフリルが半分ほどまで走り、よく見ればフリルが二重になっていてとてもかわいく、目を瞠る。薄葉紙を開いただけでは他の情報が読み取れずに手に取って持ち上げると、折り畳まれていた部分がするりと伸びて、紺色の部分がロングワンピースだと分かった。薄い白でストライプが入っている。スカートは太めのプリーツが入っていてラインがとても綺麗で、さらりとしていながらしっかりとした生地の上質さも合わさるとドレスコードのあるレストランでも行けそうなものだった。
    「上品なワンピース……!」
    形を見るに胸元はシャツを出し、ワンピースは腰より少し上の位置で留めるようだ。シャツの二重フリルのかわいさが損なわれないデザインのワンピースは肩紐や長袖部分はシンプルだが、その分シルエットが美しい。白石蔵ノ介の言葉を借りるなら、無駄がない、にだろう。よく見ればスカートの裾には気付きにくいが花模様の刺繍が施してあり、何とも手のかかった一着だと感嘆するしかない。
    綺麗、かわいい、とワンピースを見ながら見惚れる静は表情から夢中であると分かり、自分が選んだ洋服を前に大きな瞳をきらきらと輝かせてくれる様がかわいくて、種ヶ島はぐぅと唸って胸を押さえた。本題はまだだと言うのに、そんなかわいい反応をされるとこの後どんなかわいさが襲ってくるか予測がつかないではないか。
    「んん……静ちゃん、ワンピースの下も見てみて」
    「し、下ですか? 他にも何か……あ、窪みがある……」
    「そうそう」
    促して初めてワンピースの下に別の収納があると気付いたようだ。ワンピースに皺がつかないように伸ばして置いてから窪みに指をかけ、中蓋を外す。かぽ、と軽い音を立てて開いたその中にあるものに覚えがあった静は、思わず種ヶ島へ視線を向けてしまった。
    「……あの」
    「うん?」
    「………………こ、これって…………」
    にこ、と笑う種ヶ島は静が向ける戸惑いを受け止め、その上で中身を確認するように手で示す。見間違いでなければ二ヶ月ほど前に自分が身に着けたものによく似ているそれを視線でいくらなぞっても、ちゃんと手にとって確認するまで何も言われないのだろうと判断し、静はゆっくり伸ばした手で四角く畳まれた白い布と、三日月の形に沿ってフリルとリボンが踊るものを取る。
    広げて見れば、思った通りで。白い布は丸い形のサロンエプロンで、縁にはレースが溢れんばかりに縫い止められていて、生地自体が薄いため実用性よりも装飾としての意味合いが強いものだった。長さは腰に巻いて膝上くらいだろうか。ワンピースの色と合わせるとどちらも引き立って、雪夜を纏っている幻想さを感じそうだ。
    フリルとリボンがかわいらしくも考え抜かれた計算で飾られるヘッドドレスは薄桃色のリボンで作った花がいくつか咲き、土台がワンピースと同色なので全体としてのバランスがとても良いことが見るだけで分かる。
    とてもかわいい。ワンピースも、シャツも、エプロンも、ヘッドドレスも。これを種ヶ島が自分のために選んで購入してくれたのだと思うと嬉しくて堪らないし、着て欲しいと願われるならば勿論応えたいと強く思う。好きな人が自分に何かしてくれることが嬉しい、そうやって心を向けてくれるとても嬉しい、だが───
    「………………あの、これって………………、………………メイドさんのお洋服、ですよね………………?」
    「せやで☆」
    この組み合わせに思い出す節しかない静が沈黙を交えて問うと、種ヶ島はあっさりと頷いた。笑ってはいるけれど、優しい種ヶ島の表情そのままだけれども、そこはかとない圧を感じる静は何も言えない。
    「最初はもっとメイド服って感じのにしよかな〜と思とったんやで? ほら、三月んときの臨時バイトで着とったようなやつ」
    ────やっぱり、修二さん、怒ってる……?
    京都に越してくる直前に友人からの頼みで、友人が働いているカフェが新装開店のビラ配りをするというので、短時間の手伝いをした。カフェがメイド喫茶という少し特殊な店であることも、制服の返却が間に合ったのでサイズの合うものがあればもし良ければ着てくれないかと頼まれたことも、静は当日、集合場所に到着したときに聞いた。
    学園祭で似た格好をした経験があったので、それが仕事ならばと了承した。ビラ配りには男性スタッフが帯同すること、SNSにアップする写真に静は入れないことなどを説明され、暫く会えなくなる友人の分まで頑張ると決めていた静がそうすることは至極当然のことであった。
    それでも微妙な気恥ずかしさはあったので一番シンプルなものを選び、姿見の前に立ったとき、種ヶ島にメッセージを入れておこうか悩んだ。けれど、就職祝いとは言え朝から晩まで移動や食事でバタバタするため夜まで返事は出来ないかも、と聞いていたため、また後日改めて落ち着いたときに話そうと答えを出したが、合間を縫って電話をくれた際に説明したとき、あんな低い声が返ってくるとは思いもしなかった。
    「……はい……」
    遠く離れていたから、どんなときでも声を聞けるだけで本当に嬉しかった。しかしあのときばかりはスピーカーで届く声にぴりぴりとした違和感が乗っていたことを思い出して俯く静に、僅かな緊張が張る。それを見て取った種ヶ島は眉を下げて、不安そうにワンピースに触れている静の両手を優しく握った。
    「ごめんな、怒っとるわけちゃうんよ。静ちゃんが悪いわけでも、店の人が悪いわけでもないんは分かっとるから、説明聞いた後はしゃあないな~てなったし。ただ、俺は直接見れんかったのに、ビラ配りんとこ歩いとった人等は見れとって……それがな、めっちゃ悔しくて寂しかった。今でもそう思とる」
    「……ごめんなさい」
    「ううん。静ちゃんは自分の仕事をやっただけ。これは俺のどうしようもない嫉妬で、かわいいメイド服着て仕事頑張る静ちゃんを見たかったって我儘なん。竜次に頼むんやなくて俺が行って応援して、終わったらお疲れって抱き締めて、そのままデートしたかった。俺、静ちゃんのことだけはどうしても欲張りになってまうの」
    落ち着かせるための語り口が、種ヶ島の心の声を訥々と二人の手の上に落としていく。許されていると思った。種ヶ島の優しさがくれる許しに安堵する反面、ネガティブな感情を抱かせてしまった確かな事実が丸まって落ちたそれは静の手の甲に触れて、罪悪感よりも薄く弾けて二人分の体温に溶ける。
    軽口のようでいて拗ねている雰囲気はなく、心に在るそのままを震えさせて教えてくれるから、静は申し訳なさに下がっていた顔を上げた。きっと口元がくしゃりと曲がって変な表情をしているのに、種ヶ島はいとおしいと瞳に書いて笑うのだ。
    「やから二人きりんときにメイド服着て欲しいな〜と思て……けど色々調べとる内に、がっつりメイド服よりも静ちゃんに似合う方がええやんってなって、これにしたん。メイド服っていうよりはメイド服テイストくらいのやつやけど………このワンピの色、静ちゃんに絶対似合うから」
    「しゅうじさん……」
    「泣きそうな顔せんといて……て、俺が言うても説得力ないか」
    「いいえ……! ありがとうございます……!」
    頭をぶんぶんと振ってから、静は手を離してもらって種ヶ島の胸に飛び込んだ。言葉でだって伝えるけれど、行動も一緒にした方が種ヶ島が喜んでくれると知っているから躊躇いはない。逞しい背中に腕を回すと笑った気配と共に自分も抱き締められるので、そのまま言いたいことをどうにか心臓から汲み上げて喉を越えさせるために大きく息を吸った。
    「とっても、とっても素敵なワンピースをありがとうございます! 土日の二日間はこれを着て過ごします……!」
    「え、どっちも着てくれるん? 無理してへん?」
    「無理なんてしてません。私が着たいから……修二さんに見てほしいから、着るんです。こんなに素敵なワンピースを似合うって選んでくれて、本当に嬉しいんです」
    怒ることをせずに、しかも静に似合うものを選んで贈ってくれる種ヶ島の懐の広さや温かさは、こんなにも惜しみなく静の全身を包み込む。何かを返したいと思っているのに貰ってばかりで、申し訳ないのに嬉しくて、静の心はいつも種ヶ島の言動で波間にゆらゆら漂うクラゲのよう。それでも怖くないのは、ひとえにその海が種ヶ島の心であるからなのだけれども、星海の瞳を瞬かせて笑う本人は知る由もない。
    「……あかん、俺の方が嬉しいかも。静ちゃんにこういうワンピ着て欲しいな〜思てたから、ほんまにやける……」
    にやけて変な顔になる、と言いつつも甘くて格好良い面差しはいつも通りなので、格好良い顔ばかり見ている静としては種ヶ島の言う変な顔をいつか見てみたいと思った。
    普段も、テニスをしているときも、二人でいるときも、種ヶ島はいつだって格好良くてキラキラしているので、変な顔のイメージが全く浮かばないのだ。そんなことを言うと困らせてしまうので心の奥に秘めておくが、京都に来てからの静は自分でも不思議なほどに知らない種ヶ島に触れたいと願ってしまう。
    ────修二さんの知らない顔、いつか見られるかな。
    メンタルもフィジカルも安定している種ヶ島が追い詰められたり、焦ったりすることなどテニスでしかないような気はするのだが、もしも願いが叶うならと、静はそんなことを思う。抱き締められ、時折キスが降ってくる幸福な時間を味わう片隅に微かな引っ掛かりを覚えた束の間、指で顎を上に向かされ、額と瞼に触れていた悪戯な唇は静の息を飲み込んでいくので、すぐに忘れてしまった。
    唇が重なり、角度を変えては遊びのように食まれる柔らかな感触はいつまでもこの時間が続けば良いのにと夢を見てしまうほどに気持ちが良く、うっとりとしながらキスを受ける。場合によっては深くなるときもあるが、今日はまだ違うらしい。唇が離れてから二人で顔を見合わせて、指を絡め合って、くすくす笑う。
    一度腕から抜けてワンピース等をハンガーにかけ、時計を見直せば二十三時十五分。ドラマやバラエティ番組をもう一つくらい見る余裕がある夜の静寂に、種ヶ島のスマートフォンが大きく音を鳴らした。
    「んー? 赤福やわ、どないしたんやろ」
    少し特別なあだ名をつけられている発信元は、静の友でもある切原赤也だった。その反応からするに何か約束があったわけではないようだが、赤也は昔から自分が暇だというときに電話をかけてくることがあるので、夜更かし出来る金曜日の晩ということもあって、静はおかしいと思わない。
    「切原くん、何かあったんでしょうか……?」
    もしかしてトラブルでも起きたのだろうか。不安がる静の頭を撫でて、種ヶ島はスマートフォンの画面にタッチする。
    「何かあったら、俺より先に立海の奴等に連絡しとるやろ。普通に暇しとんちゃう?……あ、赤福? どした?」
    『あ、種ヶ島さんこんばんは! 夜にすんません、ちょっと相談あって! 今いいすか!?』
    聞こえてきたのはいつも通りの、元気で明るい赤也の声。体調が悪いわけでも、問題が起きたわけでもないと分かる声色は夏の太陽みたく眩しいので、静は思わず胸に手を当ててしまった。
    「良かった……」
    『あ、広瀬もいる? よっす! 種ヶ島さんと一緒んときに電話かけて悪いな』
    「切原くんこんばんは。ううん、大丈夫だよ」
    京都に引っ越してはいるが、いつもの同学年メンバーとは変わらず連絡を取って遊んでいるので、赤也と話すことが久し振りということもない。内容は不明だが相談事ならば自分はいない方が良いだろうと判断して、静はソファから立ち上がる前に種ヶ島に耳打ちする。
    「レポートに必要な本があるので……お部屋で読んでますね」
    「おけ~電話終わったら声掛けるわ」
    それぞれの部屋はあるものの、体調不良や用事がない限りは種ヶ島の部屋にある大きなベッドで眠ることが日課となっている。来週提出のレポートを一足先に進めれば他の予定が動かしやすくなって、種ヶ島の誕生日を祝う計画に何か付け加えられるかもしれないと、静はやる気と共にリビングを後にした。
    今回のレポートはスポーツ栄養学基礎のもので、指定された本を読み講義の内容と照らし合わせ記述式でいくつか自分の考えを書いていくものだ。U−17日本代表を支えるサポーター育成プログラムでスポーツ栄養学を五年間学んだ静の得意分野、かつ指定された本も以前読んだことがある。復習がてら読み込んでも、それほど時間はかからないだろう。
    土日を楽しい時間にするためにデスクの前に座り、種ヶ島が呼びに来るまでにある程度まとめていければ────そう思い、講義用に使用しているファイルを纏めて立てているところから目当ての本を引き抜いたとき、隣にあったものも一緒に付いてきてしまい、厚さがないのでそのままぱたんと倒れた。
    「あっ」
    何の冊子だったか、覚えがないので間違えてそこに片付けてしまったのかとそれに目をやり、
    「………………………………ぁ」
    カラフルな表紙が室内灯の灯りでより鮮明な色彩で瞳に捉えてしまったかわいい男女のイラストとタイトルで、記憶の奥底に鍵をかけて厳重にしまったはずのものが浮かび上がり、静は一人の部屋で完全に硬直した。
    薄い冊子の表紙には格好良い男性とかわいい女性で、女性はメイド服を身に纏っており後ろから抱き締められている。にこにこ笑う男性と恥ずかしそうに頬を赤らめる女性。表紙の真ん中辺りにポップな字体で『今夜は俺だけのメイドさん♡』と書かれいた。


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