信、起床 獣人族の二人は、村人たちが診療所代わりと定めた山小屋とは別の、人目につかない物置小屋の隅に運び込んだ。焼け出されたばかりの村人たちは、まだ心の整理がつかないだろうから、と、海晴がそれを提案して、氷船も反対しなかった。
そうして村――の代わりの山小屋群――に戻った後には、もう獣人たちに構っている暇はなかった。消火や戦闘に当たった村人たちが次々と海晴の簡易診療所に運び込まれ、海晴についてきた氷船もついついそれを手伝って日が暮れる。一人で黙って出歩いていた氷船が長老の大目玉を喰らったのは、夜になってのことだった。
「救護の手伝いは素晴らしいことだ、しかしそれならそれと伝えてから動きなさい」
「はい……」
「……長老、こき使った僕にも責任がありますので、どうかそのあたりで……」
やんわり間に入った海晴は、さりげなく長老と氷船を連れ出して物置小屋に向かった。獣人族が寝ている物置小屋には、手隙の猟師と連れの猟犬、それから村長も来ている。海晴は彼らを小屋に招き入れ、獣人族たちの手当ての様子を見せた。
途端に村長が渋い顔をして、海晴を見て問いかける。
「治療をするのかね? そのような余裕は……」
「余裕は捻り出すものです。そして、蒼生様に報告するなら、情報は多いほうが良い。彼らの証言が蒼生様に有用かどうかは、僕らではなく蒼生様がご判断されること。ならば、我々は治してみせるのみ……また、治らない怪我でもない見込みです」
淡々とした海晴の、しかし隙のない言いように、村長がぐうと喉で唸って眉間のしわを深くする。隣にいた猟師が、まあまあと村長をなだめた。
「村の田畑は焼けてしまったし、怪我を負った猟師も多い。食糧確保が心もとない状況ですが、この獣人たちが狩りを手伝ってくれれば心強いですよ」
「……む、なるほど……」
食糧の話を出された村長が、今度は少しの期待混じりに獣人族を見やる。氷船は、怪我人相手に身勝手な期待だと感じる一方で、村人を守るにも精一杯の状況で他人まで保護するには、その程度の打算や利点が必要であることも理解していた。じっと黙っている氷船の隣で、長老が白ひげを撫でながら口を開く。
「……ふむ。ならば、蒼生様に文を書かねばな。火災、戦災被害への援助と――獣人の処遇について。あるいは蒼生様が連行してゆくかもしれぬが、その場合はそれで良いか?」
真っ先に村長が頷く。
「わざわざ引き止める理由もあるまい。むしろ蒼生様のほうが、設備や薬には事欠かぬだろう。明日をも知れぬ我々が手当てをするより確実なのではないかね」
「そうじゃの。では逆に、しばらくこの村で頼むと言われたら?」
「……」
村長はまたも渋面になる。しかし、今度はすぐに返答した。
「……蒼生様が仰るなら、仕方あるまい。その分、支援や援助の物資は、蒼生様と交渉させてもらうがね。タダ飯を食わせてやれる状況でないのは、誰の目にも明らかだろう」
「ほっほ、ではそのときは頼んだぞ。交渉事も、お前さんならうまくやるだろうて」
笑いながら、長老は村長と連れ立って物置を出ていく。村長の意向と覚悟のほどを確かめたところで、これから文を認めるのだろう。先に休むようにと言われた氷船は彼らの背を見送り、それから海晴と猟師に向き直った。
「……その、俺の我儘で、アニさん方に迷惑を。すまねえ」
氷船が頭を下げると、大人二人は口々に言った。
「何を言う。獣人だろうが誰だろうが、人を治すのが医者の役目だ。……とはいえ、僕一人では限度があるからな。氷船くんがいたおかげで二人も助けられた」
「迷惑だなんて。オレは、氷船くんのことを尊敬するよ。実際に現場で動けるのって、凄いことだから」
海晴の隣に立つ若い猟師は、名を七雲(なぐも)という。海晴の幼馴染で、連れの猟犬ともどものんびりした顔をしているが、山や獣のことをよく理解している腕の良い猟師だ。
氷船の頭を上げさせて軽く肩を叩いた海晴は、その七雲を振り向いて言った。
「七雲、氷船くんを送ってやってくれ。暗いし、慣れない山道だ」
「はーい。じゃあ、氷船くん、行こうか」
「はい」
そうして氷船も、七雲と彼の猟犬と一緒に物置を出た。海晴は獣人たちの包帯を替えてから休むという。氷船が山をふらふらしている間に山小屋と村人の割り振りがあったようで、氷船とともに避難した子どもたちはそれぞれの家族のもとへ、氷船のような家族のない子ども、今度のことで家族を失った子どもは、長老と一緒に診療所近くの山小屋を割り振られたそうだ。
歩きながら七雲に説明された氷船は、さっと血の気が下がるのを感じた。
「……」
いるのか。家族を失った子どもが。当然だ、村が焼けて誰も死んでいないほうが奇跡だ。死者の家族は、氷船が獣人族を助けたことを知ったらどう思うだろうか。――いや。
獣人族を助けたことになっているのは海晴だ。氷船は黙って出歩いたことで散々長老に怒られていたから、それ以上怒られないようにと海晴は氷船のことを伏せて獣人たちの経緯を話していた。
そこまで考えるうちに、氷船の足は暗い山道で知らず知らず止まっていた。足音も止まったからか、氷船本人より七雲のほうが早く気づいて、氷船のところまで一歩戻ると先行していた猟犬を呼び寄せる。わふ、と猟犬が氷船の足元でおすわりして、それでやっと氷船は我に返ったのだった。
「……七雲アニさん、俺は」
かえれない、と、氷船は声を絞り出した。
「顔向けできねえ。そこにいる誰かにとっては、……家族の仇、だろう。俺は、それを助けて、海晴先生になすりつけて」
氷船の傍らで、ぱちりと七雲は瞬きをした。一拍あってから、七雲は後頭部を少し掻く。
「……海晴さんがどう思うかは海晴さんしか分からないから、それはともかくとして……そうか、顔向けできない、か。確かに、今の状況じゃ、彼らが仇である可能性は捨てられないね……」
氷船くんが気まずいのは分かるよ、と七雲は頷いた上で続ける。
「だからといって、仇だとも言い切れないのが現状、だよね。本当の仇を知るために治すという一面もあるから……今、誰かを仇だと思っている人こそ、いつかきみの行いに支えられる日が来るんじゃないかな。氷船くんが恥じる必要はないよ」
「……」
はくはくと氷船の口が開閉する。七雲の言葉に、何か返さなければ、と思うのに言葉が浮かばない。恥じる必要はない、本当にそうだろうか。仮にそうだとして、氷船が恥じないことと、家族を失った子どもの気持ちに、何か関係があるだろうか。
また一拍、おそらくは氷船の様子を観察しているのだろう間を置いてから、七雲は再び口を開いた。
「……海晴さんの手伝いをするって名目で、診療所に泊まらせてもらう? 人手があって悪いことはないと思うけど。でも、気まずいのは同じかな……」
氷船はハッと目を見開いた。今回のことで、村の誰しもがどこかしら傷を負っている。診療所代わりの山小屋に運び込まれているのは特に身体の傷が大きな者たちだ。その原因の一端を獣人族が担っているのだとしたら、その獣人族を助けた氷船が、村で安堵できる場所などない。
それならせめて労働力で罪滅ぼしをしたい、とにかく体を動かして難しいことを考えずにいたい、氷船はそう思って七雲の提案に乗り、診療所に泊まらせてもらうことにした。
「……というわけで、すみません、勝手に連れて来ちゃって」
夜、獣人たちの世話を終えて海晴が山小屋に戻ると、七雲が起きて待っていた。診察室として使えるよう整えた小部屋の有り合せの椅子に、七雲が白湯を用意してくれる。氷船は、海晴がとりあえず診療所のものを詰め込んでいた隣の部屋を片付けて寝ているらしい。
海晴は椅子にかけ、白湯を少し飲んでから言った。
「いや……山小屋の振り分けがそういうふうになっているなら、仕方のないことだろう。蒼生様のご意向が分かるまでは、獣人たちの存在も秘密だし……我々の浅慮だった」
氷船くんが休めるならどこでも貸すさ、と付け足して、それから海晴は深い息をついた。族長候補として慕われている蒼生の意向なら、村の者も不満は言うまい。だが、今夜書いた文が都の蒼生へ届いて返事が来るまでは、その間にいくらかでも日にち薬で村人たちが落ち着くまでは、……あるいは、獣人たちが回復して目を覚ますまでは、彼らのことを知る者は最小限に、と海晴たちは考えていた。
しかし、氷船はそもそも第一発見者だ。今さら隠すも何もない。けれども、氷船がこれからどんな子どもたちと過ごすのか考えれば、なんと重い秘密を負わせてしまったのかと海晴の胸まで重くなる。
はあ、と海晴が思わず溜息をつくと、向かいに座っていた七雲が言った。
「……そんなに悪いことですかね、獣人族を助けるの」
海晴が顔を上げると、七雲はどこか壁の向こう――獣人たちが寝ている物置小屋のほうを眺めて続ける。
「もし本当に彼らが仇なのだとしたら、オレたちの存在や感情を知らずに死なせるのって惜しいじゃないですか」
「七雲」
「氷船くんには言ってないですよ、さすがに」
七雲はおどけて肩をすくめ、海晴の厳しい視線をいなした。寛容なのか酷薄なのか判断しづらい言葉を、七雲は重ねて続ける。
「自分がやったことの結果――愚かさとか、悲惨さとか、どれだけ恨まれてるかとか――そういうことが分からないまま死んでいくんじゃ、ただの獣と変わらないでしょう。彼ら、曲がりなりにも獣『人』なのに。だったら、少しでも人間らしく、反省なり後悔なりしてからのほうが、極楽でもどこでも往けるんじゃないかと思うわけです」
彼らの宗義や信仰については詳しくありませんが、と添えて、七雲もまた白湯の湯呑みに口をつけた。
「恨みに任せて殺してしまうのは簡単ですけど、それって『人間らしい』振舞いではないな、というのが今のオレの考えです」
「……お前ほど、割り切って考えられる者は少ない」
「そうみたいですね。だから氷船くんが心配です」
七雲は静かにそう言った。氷船は孤児だ。村の子として長老が面倒を見ているが、長老という立場では、たとえば肉親のような、なりふり構わぬ保護はできないことがある。他の子どもを含む村全体と天秤にかけるとき、氷船の立場はあまりに危うい。
「氷船くんが手引きをしたとかどうとか、変な噂が出なければ良いですが」
「そのために、長老や村長と相談している。……しばらくは……獣人たちの容態、もしくは村人たちの心情が安定するまでは、彼らのことは伏せておく。七雲も、不用意なことを漏らさないよう気をつけてくれ」
「もちろん。不届き者にも目を光らせておきますよ」
七雲は笑って、それから海晴と七雲も寝る支度を始めた。七雲の猟犬は、隣の部屋で氷船にくっついているらしい。二人は今いる部屋の中をとりあえず片付けて場所を空け、自分たちが横になれるようにする。布団もないので衣を一枚脱いで床に敷き、その上に寝そべることにした。
「小さい頃以来ですねえ」
暢気で、しかもどこか楽しげな七雲の様子に、海晴の肩の力も抜ける。それを自覚して、まだ力が入っていたのか、と海晴はようやく己の緊張に気がついた。
体の大きい七雲が狭くないようにと端へ寄りながら、海晴は言った。
「……明日も早い。猟師は仕事も多いだろう、早く寝ろ」
「はあい。海晴さんこそ、しっかり休んでくださいね」
声を掛け合い、横になる。明かりを落とした部屋に、夜の静けさと山の気配が感じ取れた。海晴は、あまり考え事をしないように気をつけながら、ゆっくり微睡んでいった。
ようやく一晩が明けて、村も山も明るくなる。目を覚ました村人たちはおそるおそる村へ戻り、氷船もまたその中に交じって、今度は転ばないようにゆっくり山道を下った。
その道の先は少しの人だかりになっていて、けれども氷船の背丈なら十分に先が見渡せてしまう。氷船は、村が黒焦げになっているのを見て言葉を喪った。
消火を全くしなかったわけではない。氷船は長老と一緒に子どもたちの避難誘導にあたっていたから、状況は伝聞に過ぎないけれど。それでも、村人たちの必死の消火活動があっても、村のほとんどは焼け落ちてしまっていた。未だに残る焦げた臭いが、氷船の嗅覚を突き刺す。
しばし立ち尽くしていた村人たちは、それでもやがて、焼け跡の中に入って片付けや探し物を始めた。そうやって生きていくしかないのだ。止まっている暇などない。
氷船も長老邸の焼け跡に入り、何か使えるものが残っていないか探す。とりあえずは着替えが必要だ。昨日、氷船は長衣を担架代わりに使って汚してしまったので、今日は七雲の予備を借りている。
幸い、場所の目星をつけて瓦礫をずらすといくらか焦げた箪笥が見つかり、その中から無事な衣を回収できた。氷船がそれらを携えて一旦山小屋へ戻ると、隣――診療所代わりの小屋から七雲が顔を出す。
「ああ、いたいた。氷船くん」
「七雲アニさん」
「これから、獣人族の人たちがいた場所を改めて調べに行くんだけど……。氷船くんも、一緒に来ない?」
七雲の言葉に、氷船はしばし目を瞬いた。
海晴は村人の手当てや獣人たちの様子見があるので、氷船と七雲とで昨日の場所を再度確認しに行く。黒い獣と黒髪の少年、二つの骸は昨日のままだった。山の獣にも荒らされていない。
七雲が彼らを検分して言った。
「……うーん、やっぱり知らない獣だなぁ。狐とも狼ともつかないし……山のものたちも警戒しているのかも。何にしろ、ご遺体が綺麗なのは良いことだね。……ちなみに、氷船くんから見て気になるもの、昨日と変わっているところとかはある?」
問われて、氷船は少し考えた後、ある一方を指差した。
「……生き残りの片方は、あっちから来た。何か手がかりがあるかもしれねえ」
「なるほどね。それなら行ってみようか」
七雲と猟犬が先に立ち、氷船がその後に続く。いくらか木立を抜けると、ひときわ大きな木の下が広く空いていた。枝葉をすり抜けた日差しが、ちらちらとそこで揺れている。
その木漏れ日の下にあったものを見て、氷船は思わず七雲と顔を見合わせた。
獣人族の片方が目を覚ましたのは、その日の夕暮れ前だった。先に目を覚ましたのは、髪の長い、氷船と歳の近そうなほうだ。
氷船と海晴とで包帯を換えているうちに、朱色の耳がぴぴっと震えて、かすかな呻き声が漏れる。
「……ぅ、あ……?」
薄く開いた瞼の下に、琥珀の瞳が見え隠れする。包帯を巻く都合で半分起こした若者の体を後ろから支えていた氷船は、海晴と顔を見合わせてから静かに彼を見守った。
何度か目をしばたいた若者は、周囲に視線を巡らせて海晴の姿を見つけると慌てた様子で跳ね起きる。氷船の手も払いのけた若者は、しかしすぐにまた呻いて筵の上に丸くなった。
その様子を見て、海晴が淡々と告げる。
「……手当はしたが、完治はまだ先だ。気をつけろ」
「て、あ……? 何で、」
「見捨てるほど外道ではない、我々は」
「…………」
海晴の声からも表情からも、目立った感情は見受けられない。海晴は静かに続けた。
「自分の名前は分かるか」
「……、信」
若者――信がそう答えると、海晴は小さく頷いた。
「そうか。受け答えはできるようで何よりだ。……僕は医者の海晴。患者がもう一人いるのだが、知り合いか? あちらの名前は分かるか」
そうして海晴が信の背後を指すと、信は素直に振り向いた。奥に寝ている顎髭の獣人を見た信の耳がぴゃっと立って、それから少し垂れる。信は答えた。
「オレが信、この人は、正義さん、だ。……、治るのか」
「治すつもりでいるが、本人の体力にもよるから断言はできんな」
冷淡な海晴の言葉に、信の耳と尾がしんなり垂れる。それでも、信は海晴に向き直って手をつき、頭を下げた。
「……頼める立場じゃねえのは分かってる。でも、もし治せるなら、どうか……」
「……偉そうに言っているが、別に君も治っていない。まずは自分の治療に専念しろ」
「……」
ぱさり、とぼさぼさの尾が揺れる。それから、はいと小さく返事が聞こえた。海晴は少し息をついて、自分の隣に控えていた氷船をてのひらで示す。
「それから、彼は第一発見者……君たちの命の恩人、その一人だ。手当ても手伝ってくれている。感謝するんだな」
海晴の言葉に信が顔を上げて、そこで氷船と視線が合う。氷船は一度生唾を飲み込んでから言った。
「……、氷船だ。助かって、よかった」
「……」
信の双眸が揺れた。彼は、氷船にも深々と頭を下げてから、人間族の二人に向かって改めて叩頭した。
「……この度は」
静かな、けれどもどこか震えた声が、信の喉から押し出される。格式張った様子にもすぐに切り替えられるのは、もしかしたら獣人族の中でそれなりの立場にいた証なのかもしれない。
信は続けた。
「族長がこの場に居らぬ故、私が先んじて御詫び申し上げる。この度の無礼と狼藉、生き残った我々が如何様にも処分を……」
「……、今はいい」
海晴がそれを遮り、立ち上がる。海晴は信を見下ろして言った。
「こちらも族長はこの場にいない。調書を取るのは医者の仕事ではない。――その言葉は族長が聞くし、その後の処断も族長に委ねる。僕は、次の患者があるので失礼する。この小屋の中は動いてもいいが、外には出ないように。……石を投げずにはいられない者も多いだろうからな」
「……」
海晴は声色こそ静かだが、矢継ぎ早の言葉はほとんどまくし立てるようだ。しかし信は顔を上げ、じっとそれを聞いていた。
そして、失礼するという言葉通りに物置を出ていく海晴を追い、氷船も立ち上がったとき、その裾が遠慮がちに引っ張られた。
氷船が振り向くと、立派な眉をやや八の字にした信が口を開く。
「その……引き止めてすまねえ。あんたが、オレたちを見つけたんだろ。オレたちと一緒にもう二人、……それか一人と一頭、いなかったか。そいつらは……」