狩りを終えて:七雲と海晴「――間に合って良かった! みんな、怪我はねえか?」
「はい、蒼生様のおかげで……ただ、」
もう一人猟師が、と、年長の猟師が続けようとしたとき、ちょうど斜面の下のほうから犬の吠え声と人の声が近づいてくる。鹿に跳ね飛ばされて山の斜面を転げた猟師は、蒼生たちに助けられていたようだ。
それが分かった猟師たちはようやく胸を撫で下ろし、そして、蒼生や護衛たちと一緒に鹿の検分を始めた。実際に何度も角を向けられた七雲は、革手袋で鹿の胴を撫で、毛皮や蚤の様子を確かめながら言った。
「これまで撃ってきた鹿と、特に変わりはないように見えます。蛇か何かの噛み跡や、胃の中に妙なものがあれば、それが原因かもしれませんが……」
そこで七雲は、人間たちからやや離れたところで耳や視線を忙しなくあちこちに向けている――おそらく、代わりに警戒を担ってくれている――信のほうを向いて尋ねた。
「念のため確認させてほしいんだけど……この鹿は、君たちの仲間かい?」
七雲のほうに視線を向けた信は、すぐに答える。
「いや。そいつは、獣人族とは関係ない普通の獣だ。……だが、変に凶暴になった獣は、獣人族の村の近くにも出たことがある。それも、最近になって急に、だ」
「そう……じゃあ、何か病が広がっているのかな」
七雲は鹿へ視線を戻した。しかし、病で説明がつくだろうか。凶暴化だけならともかく、銃弾の掠った傷や猟犬の噛み跡がみるみる回復するなど。
猟師の一人が、忌まわしげに鹿を見下ろして呟いた。
「この鹿は、犬に噛まれてもすぐに治っていた。回復力と言えば、鬼族だが……」
信の尻尾の毛が逆立ち、蒼生の護衛や猟師たちもそれぞれ視線を交わし合う。憶測ばかりが膨れ上がりかけたところで、蒼生が毅然と声を上げた。
「一度、凪左たち研究者に調べてもらおう。鬼族が関わっているのか、草木や獣に病があるのか、どちらだとしても一大事だ。この鹿は都へ運ぶ。馬と箱を用意してくれ」
「はっ」
蒼生の護衛が頭を垂れ、仲間たちに指示を飛ばして数人が山を駆け下りていく。残った護衛が蒼生と今後を相談する傍ら、七雲はあちこち調べて荒らした鹿の毛皮を元通りに整えながら呟いた。
「……ごめんね、食べもしないのに……。それでも、君の命は、きっと無駄にはしないから」
冷たい鹿は、もう動かない。七雲はしばらく黙って鹿を撫でていたが、やがて、斜面に転げた猟師へ肩を貸して下山した。
蒼生の護衛たちが鹿の骸を運ぶ算段をする一方、蒼生自身はと言うと、猟師たちの護衛がてら信や七雲たちと一緒に村へ戻っていた。蒼生の護衛は渋っていたが、信が猟師の危機一髪を救った目撃者として自分がいればこれ以上ない説得力になることや、凶暴化した獣があの鹿一頭とも限らないのだから、民たちを守るのも族長候補としての務め、剣の腕を磨いた自分の本懐であるなどの言葉を並べて説き伏せた。
元々向かう予定だった村には、しばらく遅れる旨の先触れを出してある。蒼生は村に戻ると、山に危険な獣がいたことや獣人族の信が猟師を助けたことなどを大々的に触れ回った。
「まあ、獣人族が……」
「とにかく、村の猟師が無事でよかった。しかし、これからどうしたものか……」
「できるだけ早く村を建て直して、そこで暮らせるようにしよう。都や他の村からどのくらい大工や工夫を呼べるか、伯父上やお祖父様たちに相談する」
蒼生が村長たちと一緒に村人たちへ説明や今後の見通しを話している一方、氷船が伝えた正義の言葉に従って手当ての準備をしていた海晴は、緊張の糸を緩めてふうと息をついた。
最悪の事態も想定していたが、結果としては、一部傷の開いた信の包帯を換え、斜面を転げた猟師の捻挫を診るだけで済んだ。それも正義や信たち獣人族のおかげだ。分かってはいるが、海晴の内心にはまだ、獣人族に対してもやもやとした感情が残る。
手当てを済ませても表情の晴れない海晴と、診療所の隅っこで所在なさげに尾を揺らす信とを見比べて、七雲がのほほんと口を開いた。
「今回は蒼生様たちのお助けもあって無事に帰れましたが、蒼生様は、ずっといるわけじゃないでしょう。獣人族に、猟師たちの護衛をしてもらうのはどうです?」
海晴の顔が途端に見慣れた渋面になる。一方、信はすぐに身を乗り出した。
「相手は怪我人だぞ」
「構わねえ! 動けるようになったんだ。役に立たせてくれ」
「僕の仕事を増やすなと言っている」
海晴にぴしゃりと撥ねつけられ、信の耳がへたりと下がる。しかし、七雲はこの程度ではへこたれない。七雲は自分にくっついてお座りしている猟犬の頭を撫でながら続けた。
「それなら、オレたち猟師が怪我をしても、海晴さんの仕事が増えるのは一緒でしょう。
オレたちが怪我をしないように、おかしな獣の息遣いや足音がしないかどうかだけ斥候に出てもらう、猟師たちが十分逃げられる距離を保てているかどうかだけ確かめてもらう――傷が開くような激しい動きはナシ。獣人族も猟師も怪我をしないなら、海晴さんの仕事は増えませんよ」
「…………」
海晴が顔を俯け、眼鏡をずらして眉間を揉む。それから眼鏡を直して信に目をやると、海晴は七雲に視線を戻した。
「本人が動けると言うなら、勝手にしろ。ただし、保護者の同意と、他の猟師にもきちんと了承を得ることだ」
「はあい。それじゃあオレは、正義さんのところに行ってきますね」
そう言って、七雲は猟犬と一緒に診療所を後にした。信と連れ立って、正義がいる物置小屋に向かう間際、診療所の戸口から海晴が顔を出す。
「七雲。お前は、死んでくれるなよ」
ぱちり、と七雲は目を瞬いた。それから、ふにゃふにゃ平和に笑って答える。
「はあい」
それを見届けた海晴が診療所に引っ込んで、七雲は先へと足を踏み出す。歩き出してしばらくしてから、信が七雲に尋ねた。
「ホゴシャとは何だ?」
「んー……たとえば親御さんとか、子どもの面倒を見たり責任を取ったりする大人のこと、かな? 今、村にいる獣人族は正義さんと信くんしかいないから、オレたちは正義さんを信くんの保護者扱いしているけれど……」
そういえばオレたちが勝手に言ってるだけかも、と七雲は苦笑して頭を掻いたが、信はその七雲をしばらく見上げてぽつりと言った。
「……俺は子どもじゃないが」
「えっ!? いや、でも、氷船くんとか蒼生様が十七だから……信くんも一緒くらいじゃない? 違うの?」
七雲が心底驚いた様子で信を凝視する。信もまた、氷船と蒼生の年齢を聞いて目を丸くした。信は、まあ人間族とは寿命が違うらしいからな、と早口に話をごまかしてから、正義の待つ小屋の戸を開けた。