正義と海晴 その頃、海晴は、氷船に診療所の留守番を頼んでいる間に物置小屋で正義の診察をしていた。割れたり剝がれたりしていた爪がちゃんと生えているか、胸や背中の深い傷痕が膿んでいないか確かめる。いずれも順調に癒えてきているのを確認した海晴は、正義の傷に薬を塗って包帯を巻き直しながらやや不服げに息をついた。
「まあ……蒼生様のお墨付きや七雲の提案もあることだ。少し外に出るくらいは良いだろう」
巻き終わりの処理をして道具を片付ける海晴に、ありがとうな、と正義の声がかかる。千紫万紅の乱で海晴たちの村が焼けてから、もうすぐ一ヶ月が経とうとしていた。
蒼生の視察と審問の折、信と正義の二人を春まで保護することについては海晴も賛同したものの、では何処で保護するか、という話は、そのときは宙ぶらりんになっていた。だが、その直後に起こった山での暴れ鹿騒ぎや、獣人族に斥候をしてもらえればという七雲の提案から、信と正義は結局春までこの村に滞在することになっていたのだ。
正義と比べて傷が浅く、若さからか回復も早かった信のほうは、既に何度か猟師たちについていって彼らと打ち解けた様子すらある。しかし海晴は、正義とも信とも打ち解けようとせず、淡々と治療だけを行っていた。その海晴の気持ちを察してか、あるいは体力が回復していないだけなのか、正義も口数は多くない。だが、この日は違った。
「海晴先生」
珍しく正義が海晴を呼び止め、包帯や薬を片付けて小屋を出ようとしていた海晴は戸口から正義を振り向く。
「何だ」
「あんたは、いつまでここにいてくれるんだ?」
「……」
海晴は少し考え込んだ。おそらく正義は、海晴がいつ村のほうへ拠点を戻すのかを訊いている。
焼けた村は、蒼生が領地のほうぼうから呼んでくれた大工や人夫たちと村の大人たちとで再建が進められていた。必然、その作業場のほうでもしばしば怪我人が出る。素人を含む村人たちも作業をしているのだから仕方のないことだ。従って海晴も、山小屋の簡易診療所を氷船や長老に預けて村へ出向くことが増えてきた。そのため、海晴自身も、そろそろ村に戻る算段をつけねばと頭の隅に留め置いている。留め置いている程度で、いつまで、とはっきり言えるほどではないのだが。
それでも海晴は、答えられる範囲で正義に答えた。
「……君たちも含め、患者が移動できるようになったら、僕も移動するだろう。こちらの診療所には、火傷の患者も刃傷の患者もいる。傷の大きさや場所によっては、村へ戻るのも容易ではない。雪が積もる前までに村の建物がどこまで復旧するか、復旧したとして患者がどのくらい動けるか……どちらにしろ、患者のいるところが僕の居場所だ」
そうか、と正義が神妙に頷く。海晴はその顔を睨めつけて続けた。
「君だけ山に残るなどと言われると、僕が雪の中を村から往診に来なければならなくなる。時間の無駄だ、承諾しない」
「ハハ……」
睨まれた正義は、眉尻を下げて乾いた笑いを零す。それから海晴と視線を合わせて尋ねた。
「……良いのかい、俺たちが村に厄介になっても」
「嫌なら蒼生様の都へ行くといい」
海晴はぴしゃりと言って、それから少し目を泳がせた。そういう話ではないと分かっていても、冷たい物言いが口を突いてしまう。海晴は咳払いをしてから言い直した。
「僕は……少なくとも僕は、そこに村人の私情を差し挟むべきではないと思っている。今は私情よりも村の利益、つまり猟師たちの安全を優先すべきであって、君たちの活躍によって猟師たちが助かっているのなら、僕は文句を言う立場ではない。……今の僕の態度で、それを納得するのは難しいだろうが……」
戸口に立ったままだった海晴は、まだ開けていなかったその扉に背中を預けて正義のほうへ向き直った。
「不作や、獣人の子どもたちのことは同情する。だが、同情だけで赦すことはできない」
「そりゃそうだろう。赦されたくて話したわけでもないよ。――鬼族に騙くらかされる人が、少しでも減ればいいって思ったんだ」
間髪入れない正義の返事に、海晴のほうが面食らって瞬きをした。正義は、診察を終えた寝床からまっすぐ海晴を見て続ける。
「赦されるとは思っていない。だから村に移るのは気が引けるし、……海晴先生、あんたがどんな思いで俺たちの手当てをしているとしても、それを受け止めるつもりでいる。先生だって、自分の態度や気持ちを、持て余しているんだろ。俺は、まだ狩りでは役に立てないが……そういう、受け皿の役目くらいはさせてくれ」
「…………」
しばらく正義を見返していた海晴は、やがて淡々と口を開いた。
「恨みはある。だが、誰に、どこに向いたものなのか、僕自身も判断がつかないでいる。恨むべきは鬼族なんだろうと分かっているが、獣人族も、僕の目の前で村を荒らした。そのときの……村を荒らした獣人族は、君たちとは別人だ。別人だが、君たちは同じ獣人族だ。しかし、村の食糧確保に手を貸してくれている存在でもある」
海晴の体の横で、ぐっと拳が握られる。しかし海晴は声の調子を変えずに続けた。
「きっと、僕だけの話でもない。これから猟師や他の村人たちと関わりを増やすなら、相手の振る舞いにも気をつけることだ。相手が友好的なのか、そうでないのか、その目で一人ずつ見定めて考えろ。僕は村の代表ではないし、代表だったとしても、村人すべての感情を把握することなどできない」
「うん……うん、そうだな。一人ずつに、向き合うよ。そうするしかない」
正義が静かに頷いて、毛並みの整ってきた尾がふさりと揺れる。海晴は、初めて見たときのぼろぼろだった尾を思い出しながら医療鞄を持ち直した。
「それでも……僕は医者だ。怪我人を投げ出すことだけはしない。そこだけは安心するといい」
海晴は今度こそ小屋を出て行く。正義はもう引き留めなかった。戸が開けられ、冬に差しかかって随分と冷たくなった風が吹き込むのと一緒に、ぽつりとした海晴の声が正義の耳に届く。
「早く治して、自分の郷里(くに)へ帰ってくれ」
疎ましさだけでも優しさだけでもない、ただの憎まれ口でもない。寒さのせいかほんの僅か震えた言葉を、正義の三角の耳が受け止める。正義は閉まっていく戸の向こうの海晴の背中を見つめ、それが見えなくなってからへにょへにょと両耳を下げた。
正義だって郷里へ帰りたいと思っている。だから海晴の言葉も、突き刺さるとは思わない。快癒への祈りだと受け取ることさえ可能だ。一方で、寂しい言葉だと感じるのは何故だろうか。傷つけてしまった人間族のためにも、残してきた同族たちのためにも、人間族の村に長居するわけにはいかないと分かっているのに。
一人残された小屋でしばらく考えていた正義は、ふと思い当たって呟いた。
「寂しいのは、俺じゃなくて先生のほうか……」
海晴の言葉を寂しいと感じたのは、正義が今さら人間族と距離を感じたからではない。海晴の声がそのような色をしていたからだ。
海晴もまた、千紫万紅の乱で誰かを亡くしているのだろうか。正義の頭には真っ先にそれが浮かんだ。正義が海晴の声音に感じた寂しさや葛藤、やりきれなさと、その海晴自身が述べた、恨みがどこへ向いているのか分からないという話を思い出す。
分からないなんて言っていないで、ぶつけてくれて良かったのに、と、正義は少し苦笑した。そのためには自分が傷病人を脱する必要があるのか、あるいはあの聡明で思慮深い医師は、それでも獣人族の生き残りを恨まない選択をするのか。
いずれにせよ、と、ほろ苦い気持ちで正義はくしゃくしゃの笑顔を作った。
「……先生が、早いとこ穏やかに笑えるといいよな……」
その頃には自分は郷里に帰っていて、海晴のその顔を見ることは無いのだろう。分かりきったことなのに、そこへ思い当たると急に自分まで寂しくなってしまう。はっとした正義は慌てて頭と尻尾を振り、余計なことは考えず回復に努めるべく寝床に潜り込んだ。