信に懐く子、怖がる子 正義の診察を終えた海晴が診療所に戻ってきたので、氷船は彼に断りを入れてから長老のところへ向かった。時間もちょうど八つ時になる頃だ。信と、信が採ってきた果実とを携えて、氷船はしばらくぶりに長老がいる山小屋の戸を叩く。
「はいはい、……おや」
戸を開けて出迎えた長老の、皺だらけの顔がみるみる綻ぶ。氷船もまた、胸の奥の重石がほどけていくようなほっとした気持ちで目元を緩めた。
氷船は腕の中の包みを見せる。
「長老。信から、子どもたちに差し入れです」
「これはこれは……信殿もお元気で何よりだ。二人とも、時間があるなら、一緒に食べて行きなされ」
二人が中へ入れるように長老が一歩下がって、氷船は屋内の様子を窺いながら慎重に踏み込んだ。信は、その氷船の後ろへ隠れるようについてくる。逆に怪しいだろうと思うが、堂々と姿を見せるのとどちらが泣かれるだろうか。判断のつかなかった氷船は、黙って信の好きにさせた。
長老が常駐しているのは、村が焼けた日に氷船と子どもたちが駆け込んだ山小屋だ。持ち込んだ書籍を棚に並べ、持ち出せた分の墨や筆、紙を分け合って子どもたちに字を教えている。とはいえ、氷船などある程度大きな子どもは大人たちを手伝って村や山で作業を手伝っているので、長老と一緒にいるのはそれより小さな幼子がほとんどだ。その中に一人二人、氷船の少し下くらいの子どもが残っていて、かつての氷船のように長老を手伝って歳下たちを監督している。
子どもたちは、氷船たちのほうをちらちら見ては監督役に注意されて手元へ目を戻し、何文字か手習いを進めてはまた顔を上げて、と、そわそわした様子を隠しきれていない。それらの視線を振り切って氷船が長老へついていくと、長老は、奥の戸棚から丸盆を何個か出してきた。信が狩りへ行き始める前に作った木彫りのものだ。
長老はその丸盆に果実を分け、信と氷船の両手にも一つずつ盆を持たせて教室に戻る。茹でるなり何なりの下処理が必要なものは、明日用に一旦戸棚へ仕舞われた。氷船にとっては、久々とはいえ子どもたちにおやつを配るのも慣れた行事だが、信の尾は下のほうで不安げに揺れている。
自身も丸盆を持った長老が教室に声をかける。
「さあ、みんな、休憩にしよう。久々に氷船も一緒だよ」
わっと子どもたちが沸いて、信の耳がぴゃっと跳ねる。信は氷船の背中の後ろで精一杯気配を殺していて、氷船もまた、少しの緊張とともに子どもたちのほうを見た。教室には長卓が四つあって、だから氷船と信が盆を配るとちょうどだ。氷船は一番遠い卓に向かいながら、ついてくる信に手前の卓へ盆を置かせた。
それから氷船は信を連れて教室の中央近くに戻る。長老と子どもたちが二人の座布団も用意してくれたので、氷船は長老の隣に座った。おやつの時間は、長老と先生役の子どもたちが教室の真ん中に座って、他の子どもたちは、自分の卓や友達の卓、あるいは長老たちのそばへ寄ってきて話しながら食べる。長老と信の間に座った氷船のところにも、何人か子どもが集まってきて質問攻めにした。
「海晴せんせーのお手伝いってどんな感じ?」
「氷船にぃもお医者になるの?」
「ねぇ、どっちの実が甘いと思うー!?」
「……っ、はは……一人ずつ、順番にな。海晴先生の手伝いも楽しいぜ。毎日、いろんなことを教わる」
氷船が少しずつ元の調子を取り戻す一方で、信は相変わらず身を固くして耳だけをあちこち動かしている。しかし、好奇心旺盛な子どもたちは平気で信の尻尾をつついた。
「しっぽだ」
「とーちゃんが言ってた、じゅーじん族の人?」
「木登りとくいってほんとー?」
「あ、ああ。俺は獣人族の信、だ。木登りは、そう、獣人族はみんな得意だぞ」
ぱたぱたと尻尾を動かして遊んでやりながら、しかし信は氷船の背後で氷船の服の裾を掴んでいた。獣人族の爪は人間族より鋭く、硬い。万一が無いように気をつけているのか、よっぽど緊張しているのか。どちらだとしてもなんだか微笑ましい。氷船は表情を緩めて、自分の前にいる子どもたちへ向き直った。
「俺が医者か……考えたこともなかったが、それも良いかもな。それから、柔らかい実がよく熟れてるから、触ってみて柔らかいほうが甘いんじゃねぇか」
ヤマボウシの実を両手に持った子どもが、氷船の言葉にふむふむ頷きながら実の柔らかさを確かめる。しかしどちらもあまり変わらなかったらしく、うーん?と首を傾げてしまった。そこへ、信が控えめに声をかける。
「……、その二つなら、左手のほうが、きっと甘い。匂いが強いから」
「へえー!」
感嘆した子どもはすぐに二つの実の匂いを嗅ぎ、皮を剥いて一つずつ食べ比べた。それから、目を丸くして口の中のものを飲み込む。
「ほんとだー! すごいね、獣人のおにーちゃん。においで分かるの!?」
だからこんなにいっぱい木の実をとってこられるんだねー、と笑ったその子どもは、そのまま信の前に座って、今の山のことをあれこれ訊き始めた。そういえば、暴れ鹿の騒ぎがあってから、子どもたちは山で遊ぶのを控えるよう言いつけられている。山の遊び場や秘密の隠れ家、お気に入りの木のことなどを久々に話せて嬉しいのかもしれない。
氷船はそう思って、信と信に興味津々の子どもたちを見ながら目を細めた。信は賑やかしい子どもたちに囲まれており、恐れていたような反発や排斥は起こっていない。氷船の裾を掴む信の手も緩んできた。信と長老の間に座っていた氷船はそれを見計らって立ち上がると、他の子どもたちのところを回った。
長老や信と一緒に食べる子の他にも、卓の友人と一緒に食べる子、一人でのんびり食べる子、教室の中も様々だ。氷船はそれぞれの卓を巡り、少しずつ話をした。元気にしているか、勉強の調子はどうか。あちこちの卓で少しずつ木の実を貰いながら、氷船も穏やかなひとときを過ごす。
それから氷船が室内を見回すと、海月がぽつんと遠い卓に座っていた。卓ごとに配られた丸盆の木の実にも手をつけず、眉を寄せながら教本を睨んでいる。ただ、視線も手元も動く様子はない。同じ箇所を睨んでいるだけで、読み進めてはいないようだ。氷船が、長卓を挟んで海月の前に腰を下ろすと、海月は険しい顔のまま少し視線を上げた。しかし、それからすぐ教本へ目を戻す。海月は教本を睨んだまま言った。
「……氷船にぃ、食べていーよ。おれ、いらない」
海月の小さな手が、秋の恵みの詰まった丸盆を氷船に押しやる。氷船はどうにか無難な言葉を考えながら言った。
「…………たくさん食べたほうが、大きくなれるぞ」
「氷船にぃこそ、大きいんだからいっぱい食べるでしょ」
「これから大きくなるのは、海月のほうだろ……」
頑なな海月を氷船がやんわり促していると、横のほうから氷船の袖がおずおずと引かれた。氷船が振り向けば、心配そうな顔をした村の少女が一人、氷船の袖をつまんでいる。氷船は、どうした、と穏やかな声で問いかけ、反応を窺った。
彼女は元から静かな子どもで、氷船が知っている限りは、他の子と遊ぶよりも一人で読本をめくっていることが多い。誰かに声をかけるのも珍しいほうだ。氷船がゆっくり待っていると、少女は小さな声で言った。
「……氷船にぃは、ケガしてない?」
「? ……ああ、俺は、怪我はしてないぜ。診療所にいるのは、俺が怪我をしたからじゃなくて、先生の手伝いのためだからな」
「あの、そうじゃなくて……」
少女は一瞬だけ、教室の中心――信がいるほうを振り返った。何だろうか、と氷船がその視線を追うと、少女は慌てて再度氷船の袖を引く。
「平気ならいいの、ごめんなさい」
やや青ざめたその様子から察するに、少女は獣人族が怖いようだった。獣人族でなくとも、引っ込み思案な子や臆病な子であれば、知らない大人は怖いかもしれない。それは氷船も承知の上だが、信が氷船に怪我を負わせると思っているらしいのが気になった。
氷船は慎重に言葉を選ぶ。
「……あいつは……相手が誰だとしても、むやみに怪我をさせたりはしないぜ。この木の実も、お前たちに、と信が採ってきてくれたんだ。少なくとも、俺やおまえに意地悪をすることはない」
「……」
「でも、そうだな。信は、猟師のアニさん方の手伝いをしているから……そんなにしょっちゅうは、ここには来られないだろう」
「……!」
少女の肩から力が抜ける。氷船は、少女を安堵させられたことに胸を撫で下ろすと同時に、心臓を蹴り上げられるような狼狽を感じていた。いないわけがない、と分かっていたはずなのに、信――氷船が村へ運び込んだ者――を怖がる子どもの様子が、思った以上に胸の奥へ突き刺さる。
そして彼女も、海月と同じく、盆の中の木の実には手をつけなかった。アケビは好きだったんじゃないのか、と氷船が問うと、今はお腹が空いていないから、とぎこちなく笑う。
やがて、長老が休憩時間を終わりにして、手習いの授業が再開された。それを機に、氷船と信も山小屋を出る。診療所へ戻る氷船に信もついてきて、二人の影が、早くもやや夕色がかってきた景色の中に並んだ。
日の落ちる早さ、冬の近さとともに風の冷たさを感じながら、氷船は、黙って診療所までの道を歩いた。信もまた、黙って隣を歩いている。信を遠巻きにしていた子どもの存在に、気づかなかったわけもないだろう。氷船は何か言葉を探して、でも何も浮かばないうちに、診療所まで着いてしまった。じゃあな、と、いつもと変わらない顔で手と尾を振って寝床の物置小屋まで帰っていく信も、他は何も言わない。
あるいは、氷船よりも信のほうが、こうなることをちゃんと覚悟していたのかもしれなかった。もしくは、表情に出ないだけなのか。帰っていく信の背中を見送りながら、氷船は獣人族のことを考えた。鬼族の謀略で子どもたちや族長を失い、自分たちも大怪我を負った、信と正義。鬼族と争い合いながら氷船たちの村を焼いた、獣人族。
信を怖がったり遠巻きにしたりする子どもを責める資格は、誰にもない。ならばせめて、彼らが郷里へ帰っていく春まで、何事も起こらなければ良い。そう思いながら、氷船は診療所の仕事に戻った。