👹寿郎と❄柱のお話 その2「杏寿郎、これは何かわかるか?」
懐から壊れないように布に巻いてもってきた風鈴を取り出して、猗窩座は杏寿郎の前に差し出した。
首を傾げた後、吊り下げられて揺れる風鈴を杏寿郎は指先で突っついた。
チリンと透明な音が鳴る。
杏寿郎は面白そうに何度も風鈴をつついて子どものように笑った
「綺麗だろう。お前にやる」
手渡された風鈴を目の前に掲げて杏寿郎は飽きる事なくそれを眺めては突いてを繰り返している。
数日前に調査に出かけた街で開催された縁日を歩いていると、綺麗な桔梗の文様が描かれた風鈴を見かけた。夏の暑さに清涼感を運んでくるその音色を聞いた時、何故か猗窩座は杏寿郎の顔を思い出して、気が付けば風鈴を買い求めていた。
猗窩座は多忙な任務の間を縫って杏寿郎の元に訪れている。任務に発つ前の夕暮れ時か任務明けの早朝が殆どで、当然その時間、外に出る事が出来ない杏寿郎は社の中にいる。
一度早くに片付いた任務を終えて夜のうちに社に顔を出すと杏寿郎の姿が無く、猗窩座は随分と慌てた。いったいどこへ行ったのか、まさか人を喰っているのかと気を揉んでいると、夜明け前に社にふらりと戻ってきた杏寿郎は猗窩座の姿をみとめると、目を丸くした。
同じように目を丸くした猗窩座だったが、すぐに 人を喰いに行ったのかと問いただした。 杏寿郎は首を横に振ったが、手や口元の匂いを嗅いだり、触ったりして確認してみた、人間の血の臭いや、鬼特融の腐臭はしない。
杞憂だったかと安堵のため息をつく猗窩座、どこに行っていたんだという質問には応えず、もたれかかるように倒れこんだ杏寿郎はいつものように眠ってしまった。
陽が出ている時間に訪れると、殆ど杏寿郎は眠っているのだが、たまに起きている時に猗窩座が話しかけると、どれほど理解しているのか、じっと猗窩座の顔を見ている。
嫌いな相手にはとことん冷たい態度で接する猗窩座だが、本来は話し好きの性格だ。自分でも認めざるを得ない程に元剣士の鬼に好意を抱いてしまった猗窩座は色々な話をして聞かせた。
杏寿郎が特に反応を示すのは鬼殺の話題と、そしてもう一つは兄弟の話。任務後だと特に鬼には辟易としている猗窩座はよく兄の話をして聞かせた。
自分には兄がいて、でもそれは双子だから本当は同じ歳なのに、弟の自分を子供扱いするという話をした時、杏寿郎はにこにこと笑って「弟」という単語を繰り返しては、猗窩座の頭をなでるような仕草をした。
くすぐったい思いをしながら、猗窩座は資料の中では杏寿郎に兄弟がいたような記述はなかったが…と思った。それに類するような存在がいて杏寿郎はその人をとても大切にしていたのだろうか。
猗窩座が杏寿郎について知る事は多くはない、だが、その行動の端々からきっとこの男が人間だったころは、愛情深く、責任感が強く、自分なんかよりもずっと人間としても、鬼殺隊士としても多くの人に尊敬され、愛されていたに違いないと思った。
――お前はさぞ陽の光が似合う存在だったろうに……。
――チリン
杏寿郎が遊ぶ風鈴の音に、猗窩座は顔を上げた。
人を食わない鬼の存在は鬼殺隊にとって、有益な情報になるはずだ、最初自分にそう言い訳をして、杏寿郎を殺さずにいたのに、猗窩座は杏寿郎の事を鬼殺隊の仲間に知らせる事を長い事躊躇っていた。
親方様ならばわかってくれるかもしれない。
親方様が納得すれば黒死牟や童磨、壺好きの変人、もとい芸術家あたりは、その意見に従うだろうが、妓夫太郎と梅、顔はそっくり同じなのに性格が全く違う四つ子とその弟あたりは鬼の斬首を主張するにちがいない。
そして己が最も理解を得たいと思う兄の狛治が誰よりも苛烈な意見を言うだろう事も想像に難くない。
鬼の斬首、猗窩座の切腹、そして兄弟への監督不行き届きで自身も切腹するなんて言い出す姿が容易に想像できる。
杏寿郎を殺さずにいる事は、鬼殺隊の為にも正しい行為だと思っている、自分は間違った事はしていない。だけど、柱や、それに近い実力者、戦う技術はないが頭脳で鬼殺隊を支える発言力のある面々の顔を思い浮かべる度、猗窩座は暗澹たる気持ちになった。
今日もまた今後自分がこの稀有な鬼をどうするのかを決断できないままに任務に赴く時間が近づいていた。
その時、
「南方、黒霧山、ソノ周辺デ任務ニ当タッテイタ隊士二十人以上ガ殺サレタ!負傷者モ多数、急遽応援ニ向カエ」
「二十人だと?!」
「死者ノウチ五人ハ甲ノ隊士ダ、気ヲツケロ」
鬼殺隊で最上位の甲の隊士が五人も一度に殺害された事実に猗窩座は驚愕した。十二鬼月だろうか。
立ち上がった猗窩座の裁着袴を杏寿郎がひいた。
「杏寿郎?また、来る。今日はすぐに出なければ」
そう言った猗窩座に杏寿郎は横に首を振った後、自分が持っていた刀を猗窩座に見せるように持ち上げた。
「ま、まさかお前一緒に行きたいのか」
杏寿郎は今度は縦に首を振った。
鬼を狩る場に鬼を連れて行く…?
杏寿郎が人に危害を加えないという事は確信をもっているつもりだったが、このいつも抱えてている日輪刀で杏寿郎が本当に同胞を斬るのだろうか?
鬼達には仲間意識というものが人間のようにないという事は承知しているのだが。
先程までの子どものような表情は消え失せ、鬼を狩る仲間達の目と同じ目をしている。
以前にもこんな顔を見せた杏寿郎の事を猗窩座は思い出した。そして鬼殺隊士として鬼を狩っていた杏寿郎の姿を脳内で描いては、その姿を見てみたいなどと考えた事もあった。
――だが、しかし、負傷した隊士や、隠、他の柱も招集されているだろう場に鬼を……
戸惑っている猗窩座よりも先に杏寿郎が社から走り出た。
太陽が山の稜線に隠れてから間もなく、辺りはまだ明るいというのに、気にする様子もなく杏寿郎は猗窩座の鴉の皓にどちらに行くのだと視線で訴えている。
多数の犠牲が出ている、迷っている場合ではないと猗窩座も皓の飛び行く方角へ走った。
しばらくは猗窩座と並走していた杏寿郎だったが遅いと言わんばかりに、猗窩座の身体を軽々ともち上げると、皓に手を振ってもっと速くと言うように合図を送っている
「お、おいっ!杏寿郎」
驚いて声をあげたが、杏寿郎は意に介さず急勾配の山道の倒木を飛び越え、巨岩を蹴り、猿のように成人男性一人を抱えて身軽にかけて行く。やはりこいつは鬼なのだな、たとえ柱と言えどこれほどの芸当は無理だろうと、担ぎあげられた肩の上で猗窩座は思った。
しばらく走った後に杏寿郎は急停止した。
あたりの様子を伺っている。猗窩座も鬼が近くにいるのかと神経を研ぎ澄ませた。
闇に呑まれはじめた樹林の奥から不気味な音が響く。
猗窩座を肩から下ろした杏寿郎は一歩前に出た。
次の瞬間、目にも止まらぬ速さで抜刀すると、闇の中へと飛び込んでいった。
猗窩座も急いでその後を追った。
――闇の中に炎が……
天上から舞い降りた神聖な存在が、人を導く聖火を掲げ舞っている。
猗窩座にはそのように見えた。
だが、次の瞬間炎は真っ黒な塊に掴み上げられて、近くの巨木へと叩きつけられた。その時はじめて、闇全てが巨大な鬼である事に猗窩座は気付いた。
「鬱陶しいやつめ」
巨大な闇は苛立たしげに、声をあげた。
「なんだ貴様、鬼のくせに鬼狩りを連れてきたのか?」
不審げな声を出した後、闇はまあいいかと面倒くさそうに呟いた後、踵を返して猗窩座に向かって突進してきた。
大きいくせに動きが俊敏だ。鬼の放った攻撃が頬をかすめる、猗窩座は鬼の全貌を把握しようと樹木の間を飛び下がった。
「惜しかったな。だが、所詮は人間、半刻もせずに体力に限界がきて俺に喰われる。今日はな俺は機嫌がいい。稀血の人間をっ食ったからなあ、甚振らずに殺してやってもいいぞ」
甲の隊士が五人も殺された理由に合点がいった。稀血を少量啜っただけでも鬼がどれだけ強化されるのか、猗窩座は嫌という程知っている。
「ん?この匂い……お前まさか……」
呟いた後に鬼は哄笑した。
「俺はなんて運がいいんだ、一日に稀血の人間二人に会うなんて」
猗窩座は大きく舌打ちをした。
今ここで自身がこの鬼に喰われるような事があれば、この鬼は一気に上弦級の力を手に入れてしまう。何としてもすぐに仕留めなければ。
その時背後から炎が燃え上がり闇の塊をつつみこんだ。
それまでとらえる事ができなかった鬼の全貌がはっきりと目に見え、どこにあるのかわからなかった首の位置が確認できた。
「くそっさっきの鬼か!」
杏寿郎のいる方向に気を取られた鬼の頭部に猗窩座は一気に拳の乱れ打ちを見舞った。日輪刀と同じ素材で作られた手甲に鬼の硬い皮膚や眼球、鼻、脳漿が飛び散っていく、だが稀血の人間を喰ったばかりだという鬼は回復も速くすぐに肉が盛り上がってくる。させるかと猗窩座は小刀をを引き抜くと首めがけて一気に振り下ろした。
鬼の首は硬く、一閃のうちに切り裂く事ができなかった。両手に渾身の力を入れてぐさりと刃が進んだ時、鬼が拳を振り上げるのが見えた。
しまったと思ったが、鮮やかな炎が美しい軌跡を描いて鬼の腕を微塵に切り刻んだ。炎は鬼の身体のあちこちに斬撃を加えていく。
猗窩座は咆哮をあげて腕に全力を込めた。
ドサリと大きな音と共に首が地面へと落ちて黒く燃えて塵になった。
落ちた首と一緒に尻餅をついた猗窩座とは対照的に、ひらりと崩れゆく巨体から飛び退いた杏寿郎は刀を一振りして鞘に収めた。一連の姿があまりに美しく猗窩座は息を乱しながらもその姿に見惚れていた。
猗窩座に歩みよった杏寿郎は、戦闘でできた裂傷をまじまと見た後、ごくりと喉を鳴らして顔を背けた。
「……、悪い」
初対面の時にも試すような事をしたが、やはり杏寿郎は稀血にすら抗えるのだ。
だが、消耗した今の杏寿郎にはこれは目の毒だろう。
「杏寿郎、この近くに負傷した隊士がいるかもしれないから俺は少し見回ってくる。ここで待っていてくれないか」
杏寿郎はこくりと頷くと身を小さくして茂みの中にちょこんとお行儀よく座った。
「皓!隠とこちらに向かっている応援に、任務の完了を知らせてくれ」
「了解シタ」
巨体が動きまわった跡をたどるのは容易かった。数か所、血だまりを発見したが人の姿はない。おそらく遺体は喰われてしまったのだろう。
舌打ちをしながら、どんどんと走っていくと微かに山の草木とは異なる気配を感じ取った。
耳を澄ませると、茂みの方から消え入りそうな微かな人の呼吸音が聞こえる。歩みよってみると深手を負った隊士が倒れていた。
「おい、しっかりしろ」
「は、柱…?……真っ暗で、大き…く…て……何も…見え……」
傷ついた隊士は鬼の特徴を必死に知らせようとしているようだ。
「もういい、鬼は斬った」
傷の検分をした後、生き残る望みがありそうだと思った猗窩座は応急処置を施した。意識を失わないように声をかけていると、足の速い隠が皓に導かれてやってきた。
「猗窩座様!その者は……」
「助かると思う。後は任せてもいいか?」
「はい、もちろんです。山の反対側からもこちらの部隊の者が入っておりますので」
隠に頷いてみせ、もう大丈夫だろうと、猗窩座は杏寿郎と別れた場所へ走った。待っていてくれと言ったが、今は夜だ。杏寿郎も自由に歩き回る事ができる。
もし隠や他の鬼殺隊士と山中で鉢合わせするようなことがあったら、などと考えていると猗窩座の足は自然と速くなった。
しかし、戻ってみると猗窩座がその場を離れた時と同じようにちょこんと茂みの下に座った杏寿郎はそのまま眠っていた。
起きるかと思いながら杏寿郎の肩に触れたが、そのままの姿勢でパタンと倒れ、まだすやすやと眠っている。
鬼は本来、長期間人を喰わずにいると人間が飢えて死ぬのと同じように餓死してしまう。個体差はあるものの、不食で生きられるのは長くても数ヶ月といったところ、捕獲した鬼で童魔が色々な個体の資料を収集した結果はそういうものだった。
猗窩座の信じた通り杏寿郎が百五十年もの間、人間を喰っていないのだとしたら、他の鬼がしない事、この眠りこそが杏寿郎を不食のまま生き永らえさせている鍵なのだろう。
あのような大立ち回りをした後だ、深い眠りが必要なのだろうと、猗窩座は大事そうに抱えた刀をそっと杏寿郎の手から抜き取ると、その身体を背に負った。
子どものように縮んだ身体は空気のように軽い。先程の戦いの時は精悍な顔つきの青年だったのに。鬼は変幻自在だなと、今までは疎ましい気持ちでしか呟いた事の無かった鬼の特性を猗窩座は忍び笑いと共にこぼした。
隠や隊士に合わないよう、道の無い斜面を歩いて社まで戻った。
抱えた杏寿郎を背中から下ろし、その寝顔を見ていると瞼が重くなってきた。もうこのまま眠ってしまおう、何かあれば皓が知らせてくれるはずだと、ごろりと杏寿郎の隣で寝転んだ。
次に目覚めた時、社の中は薄ぼんやりと明るかった。
眠りに落ちた時と同じように目の前には眠る杏寿郎の顔。
昨夜の杏寿郎の戦いぶりを反芻して、想像通り、いや想像以上に美しかったなと思った。
超至近距離で拳で潰す事が主な攻撃法の猗窩座は巨体とはあまり相性がよくない。昨夜は杏寿郎のお陰であっさりと鬼を倒したが、もしも杏寿郎がいなかったら、自分は苦戦を強いられていただろうし、最悪の場合は殺されていたかもしれない。
そんな事を思いながら髪を撫でていると、杏寿郎が薄目を開けた。
「おはよう……。昨日はありがとう」
杏寿郎は嬉しそうに笑った後、刀をトンと指で叩いた。
「また連れて行けと言っているのか?……うん、……そうだな……」
猗窩座は起き上がると、杏寿郎の頭をもう一度撫でた。
「俺は行かないと。もう朝だから、お前はもう一度眠れ。昨日ので大分消耗しているんだろう。ほら、子どもみたいになったままだ」
杏寿郎は頷くような仕草をした後、猫のように丸くなってまた眠ってしまった。
猗窩座は社の木戸を開けると、大きく伸びをして、冷風が吹き抜ける有明の空気をいっぱいに吸い込んだ。
そして、朝霧の揺蕩う森の景色の中に歩き出そうとした時、氷よりも冷たい視線でこちらを睨みつける男の姿を見つけ、動く事が出来なくなった。
続く