花冷えに落つる暦では春になってはいるが、桜の蕾はまだ固く、風が吹けば冬の冷たさが見え隠れしていた。
「三年い組の立花仙蔵先輩ですか?」
声をかけられ振り返ると、声の主は随分と低いところにいた。
地面に掘られた穴から顔を覗かせる土まみれな頭の上には兎が乗っかっている。生物委員会が探していると言っていた、飼育小屋から脱走したという兎だろう。
「ぼくは一年い組の綾部喜八郎です」
こんにちは、と間延びした声で挨拶をする後輩に同じ言葉を返すが、気付けば日が傾き始めている。こんばんは、でも正しいかもしれない。
「穴を掘っていたら兎が落ちてきて困っていたので、先輩が通りかかってくれて助かりました」
そう言いながら、頭の上から穴のふち辺りに兎を座らせて仙蔵に差し出す。兎を捕まえている小さな手も見事に土や泥で汚れていた。
まだ自分は何も返事をしていないのだが、今日は学級委員の仕事も、学園長先生の突然の思いつきもないようなので、引き受けてやることにする。困っていたのは本当なのだろう。
「大人しい子ですが、暴れるかもなのでご注意ください」
「あぁ、ありがとう」
兎の尻を掬いあげて左腕の中にしっかり抱え込むと、右手で喜八郎の頭についている土を払ってやる。額のあたりから束ねた髪の根元まで手を往復させてみるが、気休めにもならなかった。汚れた袖で拭ったのか、顔にも土がついている。
喜八郎はひとつ、ふたつと瞬くと、彼の頭に触れる仙蔵の手をじっと見つめる。しばし、ぼんやりとしたまま小さく口を開けて、一度閉じてからまた開けた。
「土を払ってくださりありがとうございました。それではさようなら」
別れを告げながらぺこりと頭をさげると、仙蔵には興味を失くしたみたいにそのまま穴の中に頭を引っ込める。
もうすぐ学年が上がるといっても、まだ一年生だ。この場所から長屋までは離れているので、日が落ちてから戻るのは困難かもしれないと、穴の中を覗き込む。
「じきに暗くなるからお前も今日は帰りなさい」
「はあ〜い」
返事はするものの、地面に踏鋤を突き立てて続きに勤しむ小さな背中が、仙蔵の話など聞いていないのは明白だ。癖のある髪が波立つように揺れる。
ふと、友人で用具委員である食満留三郎のことを思い出す。
掘った穴の数が多すぎると注意する場面に度々鉢合わせたことがある。落とし穴まで作るようになったと嘆いていたのも記憶に新しい。井桁模様に対して怒りすぎではないかと思っていたが、暖簾に腕押しといったこの態度では、友人がああなってしまうのも仕方がないのかもしれない。
もう二言、三言と話しかけるが、ただ穴に落ちるだけでなんの手応えもなかった。
綾部喜八郎とは、もちろん学年も違えば、所属する委員会も違う。直接的な関わりはないが、全く無いかといえば、それも少し違う。
会計委員の潮江文次郎の後輩の友達。体育委員の七松小平太の後輩の友達。
仙蔵にとって喜八郎は友人の後輩の友達だ。向こうもきっと同じだろう。
一年生がひとりで先輩の教室や長屋に行くのは緊張するのだろう、三木ヱ門や滝夜叉丸が三年生のところに訪ねる際に引っ張って来るのは、決まって喜八郎だった。お互いを誘えば話が早いだろうに、なんなら三人で来るときもある。
当の喜八郎は渋々といった様子で退屈そうにしているか、ぼんやりと在らぬところに視線をやっている。先輩の前でのふてぶてしい態度もだが、どこか一点を見ている様子が猫とそっくりで見ていて飽きなかった。
喜八郎とは挨拶をするだけの仲だが、彼の少しぎこちないお辞儀に愛着がある。
自分の背丈ほどの踏鋤を持ち歩く姿は鮮やかになりこそ、記憶から薄れはしなかった。
とっくに群青を含んだ空には星が瞬き始め、月も浮かんでいた。前髪を揺らし、頰に当たる冷たい風は少し尖っている。
「やはり何も聞いていなかったな」
規則的に響いていた音がピタリと止まる。
兎を飼育小屋に戻した後とんぼ返りしてみれば、案の定まだそこには穴を掘る喜八郎がいた。学園中を探し回る生物委員となかなか出会えなかったため、一度離れると告げてから半刻近く経っている。
喜八郎は驚いたまま固まっていたが、すぐに顔を逸らして踏鋤を背中へと隠す。
ちょうど帰るところでした、と再びこちらを見上げると、もの言いたげな視線を送る。話を無視したのは流石にまずいと思ったのだろうか、さながらイタズラが見つかった猫だ。
「先輩、怒っていらっしゃいますか?」
「私がどうして怒るんだ?」
「本当に戻ってこられると思いませんでした」
「お前は帰っていないと思っていたよ」
帰るぞと、膝をついて、もごもごと口の中で言い淀む喜八郎に手を差し出す。
気まずそうな、困ったような顔で視線をさ迷わせるので、改めて促せば、結局ふらふらと仙蔵の手に自分のそれを重ねた。見た目通り小さな手だ。
「お前が掘った穴を初めて間近で見たが、とても見事だ。日々の努力の賜物だな」
できる限りのやわらかい声で伝える。
顔を覗き込めば、手を握ったまま喜八郎が静かに空気を震わせる。
泥のせいでざらりとした肌ざわりも、触れた部分の吸い付くような冷たさも、なんだか愛しく感じた。この手が積み重ねた結果だからだ。
「……ぼく、ゆくゆくは仕掛け罠をつくりたくて、つくるなら美しいものにしたいんです」
ぱちぱちと瞬く大きい丸い目を見返す仙蔵に、喜八郎は考え込む仕草を見せると小さく口を開く。ひとり言のような、決して大きくはない声ではあるが仙蔵の耳が拾いあげるには事足りた。
「火薬委員会顧問の土井先生から聞きました。立花仙蔵先輩は一年生のときから焙烙火矢の知識だけでなく、火薬についてもせーつーされていると。それでも先輩はたくさんお勉強されています」
それで考えてみましたと、思い出しながら話しているのだろう、ぽつりぽつりと溢す声は空気に掠れながら断続的に続く。
「ぼくは土に触れるのが好きなので、まずは落とし穴をつくることにしました。落とし穴だけでも色々あって面白いです」
「そうか。それはお前の成長が楽しみだ」
「はい。とてもぼくの性に合っていて、ずっと一番好きだと思います。なぜ知らずにいたのか、ふしぎなぐらい…」
うんうんと、喜八郎が小さく唸る。
三年生は頼られることが少ないし、自分はなぜか後輩から怖がられてしまうほうが多い。面と向かってこんなことを話すのはほとんど初めてだ。心の奥底をくすぐるような感覚が通り抜ける。
「先輩はいつ見ても真っ直ぐしています。常に真っ直ぐでいようとされています」
仙蔵には脈絡のない言葉の連なりを、頭の中で不恰好に組み立てる。
喜八郎が仙蔵に見ているものがいったい何なのか、なにも知らないままでいる。喜八郎はそれを教えてくれるつもりはないようだ。
「それが美しいと思いました。お手本です」
そこで喜八郎は初めてなにかに気付いたように、微笑でもって口元をゆるめた。
「立花仙蔵先輩はぼくの落とし穴です」
初めて見た。この子は笑うのか。
ごく当たり前の気付きに、胸のあたりで得体の知れない感情が燻る。
なんの変哲もない、ただの笑顔だ。目を細めて、口の端を少し上げて、たったそれだけ。
いささか過敏に反応しすぎだと思う反面、じわじわと頬が熱くなる感覚に抗うのに躍起になる。
この子は他人への興味が薄いのだと思っていた。でも、むしろ、自分は彼の中でなにか特別なのだと知った今の今、本人を目の前にして動揺するなというのは、周囲から冷静と評されていても流石に無理な話だ。
きっと受け止め切れてはいないのに、言われた言葉の意味を考えては頭が真っ白になる。
喜八郎のこれはまるで……
…いや、これではまるで、仙蔵がなにかを期待しているみたいではないか。
「…? 立花仙蔵先輩?」
やっぱり怒っていますか?と、首を傾げてみせる仕草にすら、もどかしくなる。
ゆるやかに速まる鼓動を自覚しながら、視線を逸らして咳ばらいをひとつする。何か言おうとしたが、口からはなんの音も出てこなかった。言葉の輪郭さえ見つからない。
「分からないなら、いい」
本当に、いいのだ。分からなくても。
ひどく曖昧なくせに自分でも捉えきれない欲求が、微かに胸を焦げ付かせる。
揺らめくそれを勘違いだと思いたいが、それは違うと自分が一番分かっていた。
—— バキッ ボスンッ
「………………」
「…おやまあ」
理解をするのに時間を要した。
喜八郎を穴から引き上げたと思ったら身体の感覚がひっくり返って、辛うじて受身を取ったが背中に鈍い衝撃があった。派手な音がした割に痛みが然程ないのは、底に葉が敷き詰められているからだ。
呆然と暗がりから見上げた夜空はぽっかりと小さくなっている。
…落ちた、落とし穴に。
落とし穴の目印には気が付いていなかったし、喜八郎が二つ目の穴を掘っているのを予想できていなかったのは仙蔵の落ち度かもしれない……が、全く腑に落ちない。きっと自分は今、それは間抜けな顔をしているのだろうと、ぶつけようのない感情がわく。
しかし、下級生を下敷きにしなかっただけ褒められて然るべきだろう。
胸の中に大人しくおさまる小さい背中や丸い頭に手を回して怪我がないか確かめながら、一緒に投げ出された踏鋤の在処を把握する。
後頭部にのせられた仙蔵の手を押しのけるように、喜八郎がパッと顔を上げた。
安定しない体勢のままいきなり起こしたものだから、ぐらりと傾く身体を支え直してやる。
「はじめて自分の落とし穴に落ちましたぁ」
じっと仙蔵を覗き込む目は、僅かな月明かりの下でも爛々と輝くように見えた。
最初はくすくすと小さく笑っていたのが、次第に堪えきれず声をあげて笑う。
弾けたように笑う顔は年相応だが、初めてこの子の落とし穴に落ちたのは仙蔵もまた同じなので、えも言われぬ気持ちになる。
呆気なく拝めた二度目の笑顔は、可愛いより小憎たらしいという感想のほうが僅差で勝った。
ため息をつきながら、浮いたままになっていた両手で喜八郎の前髪をぐしゃりとかき混ぜる。
面食らったと表情を止めるが、すぐにそれすらも面白くて堪らないと、寄りかかるように肩のあたりに額をのせられる。喉の奥で笑うのに合わせて仙蔵の頬をかすめる髪は見た目よりもずっとやわらかくて、こそばゆい。
小さな笑い声が掠れて空気に溶けていく。
閉じた空間と自分のものではない体温が、ひどく心地いい。
まだ手放したくなくて、あともう少しだけこの時間の続きが欲しくなった。