クラカイ小話⑥夜の秋の里には、どこかしっとりと水気を帯びた匂いが漂っていた。地を這う風が吹き抜ける。乾きかけた紅葉がひとつ、はらりと落ちて、下の水たまりに淡く色を溶かしていった。
クラマとカイは、居酒屋ヤチヨを出たところだった。今夜は、クラマの結婚祝いという名目で酒を酌み交わした。
暖簾が背中で揺れるのを感じながら、ふたりは並んで歩き始める。とくにどちらが先でもなく、道の選び方に合意があったわけでもないのに、不思議と足並みは揃っていた。
今夜の月は低い。頼りなく、けれど真っ直ぐに、湿った石畳の上に光を落としていた。小さく虫が鳴いている。道には誰もいなかった。
分かれ道の角が目前だった。片方は龍神社へ、もう片方は、ひとりの家へ続いている。
「カイ」
その名を呼ぶ声には、風の縁に似た、きわめて微細な輪郭があった。カイは立ち止まり、軽く視線を持ち上げる。
「んだよ?」
「手を出せ」
酔ったカイの頭は思考を放棄していて、言われるままに手を差し出した。差し出したあとで何かの冗談かと思ったが、クラマの顔は冗談を言うときのそれではなかった。
あたりまえのようでいて、ひどく真剣でもなく、けれどどこか切実な表情をしていた。
クラマが袖の奥から、小さなものを取り出す。
カイの武骨なくすりの指に、クラマの長い指が触れた。そして、そこに小さな指輪が滑り込む。
装飾は控えめだったが、ただひとつ、光る石が埋め込まれていた。
「なんだよこれ?」
「……失くすなよ。二度と同じものは作れない」
問いかけに答えなかったその声には、何かを封じ込めるような、あるいは土に埋めるような静けさがあった。
不釣り合いなほど繊細な細工に、カイは眉をひそめる。
「つけてたら壊れちまわねぇか?」
「野蛮仮面め。そんなやわなものじゃない、俺の神威をこめてある」
クラマがカイの手から指を離す。しばらくのあいだ、そこに互いの温度が残っていた。
「……ふうん。ま、貰っておいてやるよ。ツケに困ったら売りさばくとするか!」
カイはからかうように言いながらも、指輪がはめられた左手を見た。石の色に意識が吸い込まれていく。
そこには、言葉のように軽くはない何かが、確かに宿っていた。淡く、鋭く、そして、どこか懐かしい。光を吸い込んでしまうような静けさ。長い間そこにいたことを、伝えてくるような——まるで、誰かのまなざしのような色。
クラマは少しの間、何かを測るように黙っていた。風が彼の髪を斜めに撫でていく。
「……『それ』に臆するような相手は、選ぶなよ」
カイは笑いもせず、怒りもせず、その言葉を風の音の中に置いたまま、ふっと吐息をついた。
石畳の上に、枯葉がひとつ落ちた。音はしなかった。ただ、その落ちた葉を、夜の風がさらっていった。
「じゃあな」
「……おう」
その別れの声は、耳ではなく、胸の奥に届く種類のものだった。
カイは再び視線を落とした。指輪がそこにあり、クラマの想いがそこに灯っていた。誰にも見えない印が、静かに、確かにカイを囲っていた。
──アズマの国の、長い時の先で、ひとりで生きた鬼神の話が語り継がれる。その者が、どれほど自由で、力強く、何にも縛られずにあったかを、人々は語るだろう。
けれど誰も知らない。その鬼の左手に、どのような色の石が光っていたのかを。どのような風の中で、それが贈られたのかを。
それはただ、ふたりだけの夜だった。