大慶くんに誘拐される話 朝起きたときから、頭を針でちくちくつつかれているような痛みがあった。
起き上がれないほどの刺激ではなかった。けれどいざ一日をはじめてみると何をするにも体が重たくて面倒な気がした。
朝ご飯を食べる習慣はない。朝はてんでだめで、おにぎり一個だってお腹に入らない。
いつもなら朝ご飯の代わりにお茶やコーヒーを飲むのだが、今日に限ってはそのどちらも胃にずんと重く響きそうで口にできなかった。
脱水になっては仕方がないと思い、コップ半分の水をなんとか飲み干して身支度を始めた。
胸の奥がそわそわする。心は心臓にあるという人がいるが、本当にその通りだと思った。
着替えを済ませて昨日空にしたペットボトルを鞄から引っ張り出すと、それをシンクに投げ捨てて玄関に向かう。
一人暮らしの狭いアパートの玄関には、所狭しと靴が並んでいた。
休みの日に履こうと思って買った靴だったが、そのほとんどが一度も使われたことはなかった。
一足だけくたびれている出勤用の靴に足をねじ込むと、半ば倒れるように玄関のドアを開けた。
「すみません、お先に失礼します。」
雑談に花を咲かせている上司にそう声をかけると、「ああ。お疲れ様ね。」なんて不愛想な返事が返ってきてもやもやする。
窓の外はどっぷりと暗闇に染まっていて、とっくに夜が来ていた。
六月も後半に差し掛かり、世の中は日が長くなっているらしいのだが、それを実感できる時間に退勤できたことはまだない。
朝から感じていた頭痛は昼頃からどんどん強くなり、今ではガンガンと打ち付けるような痛みがあった。
一人でいると悪い方向に考えが向かうもので、ああこのまま死んでしまうのかもなんて考える。
それでもいいか、後悔はないなんて思っていた時のことだった。
「そっかー!じゃあ、連れ去ってもいいわけだ。」
なんて声が聞こえた。
え、と思って前を見ると、軍服のようなものを着込んだ少年がこちらを見ていた。
少年の肩には狐のような動物が乗っかっていて、少年の言葉に応じるようにうなずいていた。
「こんにちは、お姉さん。ちょっと痛いかも!ごめんね。」
少年の手になにか細長い黒い物体が握りしめられていると思ったときにはもう遅かった。
がつん、と頭に衝撃が走って、私の意識は暗闇の底に落ちていったのだった。
目を覚ますとそこは、見たことのない天井だった。
こうゆう時の天井は大抵真っ白なのが相場だと思うが、予想とは裏腹に、そこに広がったのは板張りの天井だった。
落ち着こうとして大きく息を吸い込むと、畳のようなにおいがした。
どうやら私は和室に寝かされているらしい。
状況を把握するために体を起こそうとすると、後頭部にズキリと大きな痛みが走った。
どこかにぶつけでもしたのだろうか。一回意識すると、そこを中心に細かな痛みの波が頭全体に送り出されているような気がした。
「いた……。」
思わず声を出して痛みの震源地に触れる。
どうやら冷やしてもらっていたようで、その部分には保冷材のようなものが宛がわれていた。
まだ硬さが残っているということは、冷やし始めてそう時間は経っていないだろう。
とにかく、ここがどこなのかわからないことには始まらない。
ずきずきと痛む頭に振動がいかないように気を付けながら体を起こす。
部屋を見渡すと、部屋の隅で壁にもたれかかって寝ている少年が見えた。
「あっ!」
その少年を見た瞬間、頭の中で火花が散った。
そうだ、私、仕事の帰りにこの少年に会ったんだ。
少年はあの時のように黒くて細長いなにか……そう、刀のようなものを片手に握っていた。
きっとそれで殴られたんだなんて気が付いた時には、少年はその大きな目をぱちりと開けてしまっていた。
「あ、起きたー?」
少年は刀のようなものを手にしたままこちらへと近づいてくる。
気の抜けたような声が逆に怖くて警戒心を誘った。
少年は私の目の前までくると、「頭痛いよねー。ごめん!」と頭を下げた。
どうやら敵意はないらしい。
「あ、あの、ここは一体……。」
私が問うと、唐突に少年の肩のところに煙が上がり、狐のような動物が現れた。
びく、と驚きのあまり体が揺れる。その振動で頭が痛んで「くう。」と声が漏れた。
「驚かせてしまってすみません。わたしはこんのすけといいます。」
狐のような動物(狐にしては顔にお面のような柄がある)が日本語を話し始めて、私の頭はもう限界だった。
怖い。なんだこれは。新手の悪夢なのか。
気が付いた時には涙があふれていた。
「え、えー!なんで、どした!?」
目の前の少年は急に焦ったようにわたわたしはじめて、なんだか急に部屋を飛び出して行ってしまった。
肩に載っていた狐のような動物はひらりと彼の肩から降りると布団の端に降り立つ。
私はそれが怖くて、さらにぼろぼろ泣いた。
「どこか痛みますか。」
質問されて私は部屋を見渡す。やっぱり話しているのはこの狐のような動物で間違いないようで、私は恐怖のあまり声すら出せずに固まった。
さっきの刀持った少年でもなんでもいいから助けてほしい。それだけが頭の中を埋め尽くしていた。
どのくらいそうしていたのだろう、バタバタと大きな足音が聞こえて、さっきの少年と、あとふたり部屋に入ってきた。
「わー!さっきより泣いてる!!」
さっきの少年が私の顔を覗き込んでさらに慌てたように声を出した。
後ろから紫色の髪の毛の少年と、黒髪の少年が、心配そうにこちらを見ている。
「すみません、どうやらこんのすけが怖いみたいで。」
狐のような動物が気まずそうに自己申告すると、少年たちは皆あっけにとられたような顔をした。
「そうか。こんのすけ、すまないが一旦席を外してもらえるか。」
黒髪の少年が狐のような動物に向かってそういうと、それのいた場所から煙が上がって、私はまた恐怖することになった。
煙が掻き消えると、先ほどまでの狐のような動物はいなくなっていた。
私の目の前には、三人の少年が並んでいた。
真正面には一番はじめに出会った軍服の少年、そして彼を挟むように左側には黒髪の少年、右側には紫色の髪の少年が座っている。
左から、水心子正秀、大慶直胤、源清麿と名乗った。
「そして僕たちは刀剣男士。それぞれ刀の付喪神なんだ。」
源くん(見た目的に年下なのでくんをつけることにした)がそう言った。
刀剣男士、というものを知らないわけではなかった。
たしか、社会の授業で習った。歴史修正主義者と戦っている、そんな存在だろう。
「そしてさっきのがこんのすけ。式神……っていっても、馴染みはないよね。
でも、君の害になる存在ではないから、ますこっと的なものとして考えてくれると助かるよ。」
源くんの説明はなんとなくでしかわからなかった。こんなことなら社会の授業をちゃんと受けておくべきだった。
「今回は、直胤があなたのことを攫ってきてしまったようで、申し訳ない。」
水心子くんが頭を下げると、源くんも連動して頭を下げた。
私を攫ってきた張本人だという大慶くんだけなんだかのほほんとしていて、それを見た源くんが頭を掴んで無理やり下げさせた。
「あの、頭を上げてください。」
本当なら警察に通報でもすべき状況なんだろうけど、悲しいかな私の頭はそんなに回転がよくなかった。
大慶くんはどうして私を攫ってきたんだろうと、ただそれだけが疑問だった。
「どうして、私を?」
そう聞くと、水心子くんと源くんが大慶くんをじっと見た。
自分の口で説明しろ、と暗に言っているのがはたから見てもわかるようだった。
「じ、実は。」
大慶くんが話した「事情」はこうだった。
先日、ここの審神者が死んでしまったらしい。審神者がいない本丸は原則として解散するしかなく、解散が嫌なら新しい審神者を一か月以内に探してこないといけないと。
そうして審神者探しが始まったのだけど、審神者という職は常に人手不足だし、審神者になろうという人たちは皆自分だけの新規の本丸を立ち上げたがるということで、この本丸についてくれる審神者がいなかったと。
そんな中で、本丸の中で会議が行われて、審神者の素質を持つ人間を誘拐してきてはどうかという案が上がったらしい。
もちろん、言った本人は冗談のつもりで、本丸の皆もそれをわかっていたようだった。
しかし、大慶くんはそれを本気にしてしまったというのだ。
そしてこんのすけに相談を持ち掛け、あの帰り道の出来事に繋がるのだという。
「ちょーっと殴って昏倒させるつもりだったんだけど、力加減を間違っちゃって。
きみってば、一日たっても目を覚まさないからどうしようかと思ったよ。」
ごめんねー。なんて、今度は自分から頭を下げた。
水心子くんと源くんも再度頭を下げる。
「でね、もしよければ俺たちの主になってほしいわけ。」
大慶くんはがばっと頭を上げると満面の笑みでそう言った。
「ちょっと大慶、それは今言うことじゃ……。」
「そうだぞ。攫ってきておいて、それは通らない。」
あわてて源くんと水心子くんが彼の口をふさぐけど大慶くんは止まらない。
膝立ちになってこちらに近寄ってくると、私の右手をとった。
「ねえ、お願い。」
子犬のような目が、私を見上げていた。
あれから一週間が経った。
審神者の仕事とは一体と思うほどにすることがなく、私はただ毎日たんこぶを治すことに専念させられた。
しかしこればっかりは私が何をしたって早く治るものではない。
何でこんなことになったのかと遠くを見る。
「ねえ、お願い。」
あの日大慶くんが私の手をとって、子犬のような目で見つめてきた後。
「と、ゆうことで。こんのすけが集めたデータを基に、転職のメリットを紹介するね。」
なんて言ってきたのである。
その後はもうすごかった。どこからそんな情報を仕入れてきたのか、勤務時間の比較から始まり、給与面、仕事内容、通勤時間に関してまで徹底比較され、審神者に転職することのメリットをしっかりプレゼンされた。
「デメリットとしては、本丸襲撃されたら死んじゃうってことくらいかな。」
でも通り魔に襲われるのと同じくらいの確率でしかそんなことは起きないから、あんまり気にしなくっていいよなんて付け加えられて。
なんだか安月給で残業代も出ないのに働いていたのが馬鹿らしくなるほどの好待遇に、私の気持ちはあっさりと揺らいでしまったのだ。
とりあえず元の仕事の方には親族の体調不良ということで二週間の有休をもらうように伝えた。
「考える時間をください。」
そう言った私に、大慶くんは「もちのろんっ!」と元気に答えてみせた。
当然水心子くんも清麿くん(本人からそう呼んでほしいと言われた)も「本当にいいのか」と何回も聞いてきたし、他の刀剣男士たちからも「現世に未練とかないの」と言われた。
私自身、こんなに簡単に説得されてしまうなんてと思ったけれど、別に前の仕事に特にやりがいを感じていたわけでもないので「このまま審神者になってもいいかなあ。」なんて思ってしまっていた。
私を連れてきた責任をとるとのことで私の世話は主に大慶くん、そのサポートで水心子くんと清麿くんがやってくれていた。
どうやらこの大慶くんの立場を「近侍」というらしいのだが、近侍には本丸を回すための役割もあるらしく大変忙しそうにしていた。
とはいえ、審神者の専門学校を出たわけでもなんでもない自分には手伝えることなんて何もないわけで、かなり歯がゆい思いをした。
「今日の出陣もおっわりー!怪我した刀剣男士もいないし、順調って感じ。」
慣れないことがあると言えば、血にまみれた大慶くんが一日の報告をしに来ることだろうか。
それらはすべて返り血であるらしいのだけど、赤黒く手鉄臭いそれを嗅ぐと、心臓のあたりがそわそわと落ち着かなくなるのだ。
大慶くんのことをじっとみていると、大慶くんはふっと微笑んだ。
「ね、そんな顔しないでよ。俺ちゃんと怪我しないで帰ってきたんだからさー。」
大慶くんはぽんぽんと私の頭に触れる。
「刀だから、折れない限りは主の力で治せるよ。だからだいじょーぶ。」
その手についた血はもう固まっていて、私の頭につくことはなかった。
刀だから折れない限り治せるって言ったって、怪我したら痛いのには変わりないのに。
「そうだね。お疲れ様。」
なんとかそれだけ伝えると、大慶くんは満足そうに部屋を出ていった。
翌日。ご飯を届けに来たのは、大慶くんではなく清麿くんだった。
「あれ、大慶くんは……。」
「ああ、蔵の玉鋼にいたずらしてね。今蔵番長の水心子にお説教されているよ。」
清麿くんの言うことには常習犯なのだそうだ。
玉鋼を見てその質を鑑定するのがこの本丸の大慶くんの趣味のようなものらしく、定期的に蔵に侵入しては玉鋼を盗み出すらしい。
まだ大慶くんに出会って一週間程度だったけれど、なんだかそれがすごく大慶くんらしいと感じて笑ってしまった。
清麿くんはなぜか一瞬キョトンとして、それからふふっと笑う。
「主が笑うの初めて見たよ。」
うれしそうなその顔に、なんだか気まずくなる。
思えば、攫われてきてから一週間、緊張のせいかずっと笑っていなかった気がする。
清麿くんの手が伸びてきて、私の頬に触れる。
「うん、いい顔。」
清麿くんの長い前髪がふわりと揺れるのを見て、すごく照れくさくて。思わず顔をそらしてしまった。
「ごはん、ありがとう。自分で食べられるから。」
私がそう言うと、清麿くんは「そうだね。ごゆっくり。」なんて、どこか残念そうな顔をして言うのだった。
ご飯を食べ終わって、そろそろ自分でお盆を返しに行こうと立ち上がった。
この一週間、私はずっと最初に寝かされていた部屋の中で過ごしていて、部屋の外に出ることはなかった。
そろり、障子をあけて一歩踏み出すと、そこには立派な庭園が広がっていた。
大きな池には鯉も泳いでいて、どこかの料亭なのではと思ってしまうような場所だった。
自分が思っていたよりも数倍、ここは大きな屋敷なのかもしれない。
「食べ終わったのか。」
声がした方を向くと、そこにいたのは水心子くんだった。
水心子くんは当たり前のように私の手からお盆を受け取る。
ありがとう、と伝えると「礼には及ばない。」と返ってくる。
少し、無言の時間が流れる。
水心子くんは立ち去らないし、私がここで部屋に戻るのもなんか変だし、どうしたものか。
「あ、の。その。」
なんとか話題を探さなきゃと思って頭を回転させる。
水心子くんはそわそわしている私を疑問に思ったのか、次の言葉を待っていてくれるようだった。
「私に、できることはないかな。」
たんこぶを治すのに専念するのも、そろそろ限界だった。
水心子くんはふん、と思案する。
「あなたは人間で、私たちとは違うからな。
手入れしても治らないからと慎重になっていたのだが。」
大きなジャージに口元が隠されているせいで、どんな表情をしているのかいまいち読めない。
お前にできることは何もない。そう言われてしまうかもと思うと、本当に怖かった。
きゅ、と服の裾を掴んでいると、頭に手が触れた。
「それじゃあ、本丸の案内をさせてもらえないだろうか。
あなたと一緒に本丸を歩きたいと思っていたんだ。」
ぽんぽんと頭を数回撫でられる。
水心子くんのジャージの隙間から見えた口元は、微笑んでいた。
なんだか見てはいけないものを見たような気分になって、顔が熱くなった。
「それでは、またあとで迎えに来る。」
私の顔の赤さに気付いているのかいないのか、水心子くんは踵を返した。
部屋で水心子くんを待っていると、急に障子が開いた。
「あの、こんのすけです。入ってもよろしいでしょうか。」
そこにいたのは狐のような動物……改め、こんのすけだった。
初日におびえて大泣きして以来、こんのすけは極力私の前に姿を現さないようにしてくれていた。
「ど、どうぞ。」
どうやって障子を開けたんだろうと思いつつ、のそのそ入ってくるこんのすけに目をやる。
ちゃんと見てみると、そう怖いものでもないような気がした。
「水心子正秀から、何かできることはないかと質問されたと聞きました。
そこで、審神者の基本的な仕事を覚えてもらおうと思いまして。」
審神者の基本的な仕事については、なんとなく大慶くん(の転職メリット説明)から聞いていた。
刀剣男士を出陣させること、怪我したら治すこと、刀を作ること。それに加えて事務作業が少々。
この一週間、刀剣男士を出陣させることは大慶くんがやってくれていたし、怪我はだれもしていないとのことだった。刀を作るのは毎日やらなくてもいいとのことだったのでやっていない。
「今のところは敵があまり強くない戦場を選んで出陣しているので大丈夫そうですが、いずれは敵が強い戦場にも出陣してもらうことになります。そうなると、手入れの仕方だけでも覚えてもらった方が良いかと。」
こんのすけの言うことはごもっともだった。
だから私は一も二もなく頷いた。
手入れの方法を学ぶ、なんて意気込んだけれど、その実それは簡単なものだった。
手入れ部屋というところに刀剣男士を入れて、私が「治れー!」と念じればいいらしく、それ以上の説明の説明はなかった。
どうやら手伝い札というものを使えば早く手入れが終わるという謎オプションがあるとのことだった。正直拍子抜けしてしまった。
「本当にこれだけ?」
信じられなくて聞き返す私に、こんのすけは大きくうなずいた。
「霊力を使う……治れと念じる部分が本当に難しいんです。
しかしこればかりは、実際に手入れしてみないとわからないですから。」
実際にやってみるまで分からないというのはものすごく怖いことだと思った。
それで治らなかったら?その刀剣男士はどうなってしまうのだろう。
「審神者様、安心してください。審神者様に霊力があるのは調査済みです。
最初は手こずるかもしれませんが、絶対に手入れできます。」
こんのすけは自信満々と言った風に鼻を鳴らした。
霊力、というものが何なのかはよくわからないけれど、こんのすけが言うのならそうなんだろう。
「手入れ、実際にする機会がこないことを祈るばかりだね……。」
私にはそれしか言えなかった。
部屋に戻ると、ちょうど水心子くんが迎えに来てくれているところだった。
「こんのすけと一緒だったのか。」
「はい、手入れの仕方を教えていました。」
「そうか。それは大切なことだな。」
水心子くんは頑張ったなとこちらを向いて笑ってくれた……ように思う。
ジャージの襟に隠れてしまってよくわからない。
「それでは、本丸を案内しよう。」
水心子くんはそれから、本丸の中を案内してくれた。
キッチンに馬小屋、大広間に各刀剣男士の暮らす部屋。本丸はとにかく広くて、一度に覚えきることは難しそうだった。
「焦ることはない。あなたのことは、私がいつでも案内しよう。」
キャパオーバーで目を回す私に、水心子くんは言った。
そんな時だった。
「水心子!主!」
清麿くんが走ってこちらに来た。緊急事態だろうか、その顔はとても焦っていた。
水心子くんの顔色がさっと変わる。
「どうした清麿。」
「それが、大慶が。」
清麿くんと水心子くんに促されるまま走ってついたのは、あの手入れ部屋だった。
「直胤、大丈夫か?」
水心子くんは迷わず部屋の中に入る。
私も続いて部屋に入ろうとすると、清麿くんに止められた。
「主、大慶は重傷……大けがをしている。驚いてしまうかもしれない。」
手入れ部屋に続く床にはぽたぽたと血が落ちていたし、きっとものすごい怪我なんだろう。
それならなおのこと、私が「手入れ」しなければ大慶くんは危ないのではないか。
「目をつむっていてもいいんだよ。僕が部屋の中に運ぶから。」
清麿くんの言葉は優しさだった。
確かにその方がありがたいけれど、でも、それはなんだか違う気がした。
「清麿くん、この本丸の主になったらこうゆうこと何回もあるんだよね。」
私がきくと、清麿くんは目を逸らして頷いた。
それならいつまでも目を逸らしているわけにもいかないだろう。
私は覚悟を決めると、水心子くんが明けた障子の向こうへと入った。
真っ赤になった布団の中にはぼろぼろになった大慶くんがいて、傍らに置かれた刀は刃がぼろぼろに欠けていた。
「主、見るな。」
水心子くんが慌てて私の目をふさいだけれど、私はその手をひっぺがした。
「私は大丈夫、だから。」
正直なことを言うと、全く大丈夫ではなかった。
自分でもわかるくらい声も手も震えていたし、意識していなければ今にも目を背けてしまいそうだった。
それでも、怪我をして帰ってきた大慶くんのことが心配で仕方なかった。
「治って。」
大慶くんの前で正座をして手をあわせる。
治って治って治って治って。
そう念じてみるも、大慶くんは相変わらず苦しそうだし、全く治る気配なんてなかった。
背中を冷汗が撫で落ちる。
もしかして、やり方が間違っているのだろうか。
「どうしよう、全然治らない。」
治って治って治って。
何度も念じてみても、周りに変化もない。
もしかして、私は手入れができないんじゃないか。
焦りと混乱で視界がぼやけ始めたとき、両手を誰かがつかんだ。
「主、しんこきゅーしんこきゅー。」
その手は、大慶くんの手だった。
ひやりと温度のない手が触れたことにぞっとする。大慶くんは本当に、このまま折れてしまうんじゃないか。
「そうだよ主。落ち着いて。」
後ろから肩を掴まれる。
肩を掴んでいるのは清麿くんだった。
清麿くんはそのまま私の背中をさする。
「直胤はそう簡単には折れない。だからよく息を吸って。」
水心子くんの手が膝に触れた。その手は一定のリズムでとん、とんと膝を叩く。
そのリズムに合わせて呼吸をする。吸って、吐いて。
それを繰り返していると、なんだか部屋の中の空気と自分が一体化するような感覚があって、ありえないほど脈を打っていた心臓が次第に落ち着いてきた。
「大慶と主はつながってる。それを意識して、もう一度霊力を込めてみて。」
清麿くんの言っていることはよくわからなかった。
それでも、大慶くんにつかまれた手を基点に私の力を注ぎこむようなイメージをして、再度「治って。」と念じる。
「できんじゃーん。じょーず上手。」
大慶くんと私の手の温度が分け合われてだんだん同じ温度になる。
そうなってくると、清麿くんの「大慶くんと私はつながってる。」という言葉の意味がなんとなく分かった気がして、うまく念を込められるようになってきた。
いつのまにかぎゅっとつむっていた目を開ける。すると、先ほどよりも楽そうな顔になった大慶くんがそこにはいた。
「主、大慶はもう大丈夫だ。」
膝を叩いていた手が止まって、水心子くんの方を見た。
水心子くんは優しく笑っていて、ほんとうに大丈夫なんだということが分かった。
「大慶、あとでヒヤリハットだね。」
清麿くんの呆れたような声を聞くと、なんだか急に疲れが襲ってきて、私の目の前は真っ暗になった。
目を覚ますと、そこは見知った天井だった。
こうゆう場合は見知らぬ天井というのが相場だろうが、残念なことに一週間毎日見続けた板張りの天井はここがどこだか理解するには十分すぎた。
体を起こすと、そこにはこんのすけがいた。
「審神者様、目を覚ましましたか。」
こんのすけは横まで寄ってくると、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「大慶直胤の手入れをした後、倒れてしまったと聞きました。
大慶直胤の手入れが既定の時間より早く終わったことを考えると、霊力を使いすぎたのでしょう。」
ぽむぽむ、と短い前足で布団を叩く。
そっか、大慶くんの手入れは完了したのか。私はほっと胸をなでおろした。
「大慶直胤を呼んできますね。」
こんのすけが障子の向こうへ消える。すると、入れ違いに大慶くんが入ってきた。
「よかったー!目を覚まして。」
大慶くんは心底安心したように笑った。
その手の平に爪の跡がついていることに気が付いて、手入れの時はついてなかったよな……?と疑問に思う。
それでも、それについて質問するのは憚られた。傷にはなっていないし、大丈夫だろう、たぶん。
「ごめんね。怖かったよね。」
大慶くんは私の横に座ると、いつもとは少し違う様子でそう言った。
「大慶くんはどうして私を攫ったの。」
もちろん、私を攫うに至った経緯のことを聞いたんじゃない。
なぜ、私だったのか。それを聞いたつもりだった。
大慶くんも質問の意図を理解したようで、気まずそうに頭をかいた。
「お姉さんがさ、仕事辛そうだったから。」
はじめはさ、そんな仕事やめちゃえばいーのに、って思ってた。
それでも、お姉さんは一生懸命に仕事して、明らかに体調悪くて死にそうな顔で仕事して、助けてあげたいなーって思ったんだよね。
一生懸命に仕事をしていたつもりはないけれど、大慶くんにはそう映ったんだろう。
言われるとなんだか照れ臭くて、布団中で足を縮めて体操座りになる。
「でもごめんね、もう現世に戻りたいって言われても、戻してあげられないや。」
大慶くんがにぱ、と笑う。
「え?」
だってだって、と大慶くんが私の手を掴んだ。
「もう縁はつながっちゃったから。」
子犬のような目が、私を見上げていた。
江戸三作に割り当てられた部屋で、水心子正秀と源清麿は茶を飲んでいた。
「主は大丈夫だろうか。」
水心子正秀が心配そうにつぶやくと、源清麿も困ったような顔でうなずいた。
「大慶が連れてきちゃったときは驚いたけど、『作戦』うまくいってよかったね。」
「ああ、そうだな。」
「ふふ、あの時の主、本当にかわいかったなあ。」
『作戦』。それは主と自分たちの間に縁を結ぶための作戦。
審神者が大慶直胤の手入れをするまでは、まだ縁は結ばれていなかった。
「にしても直胤はすごいことを考えたな。」
この作戦を考えたのは大慶直胤だった。
かわいそうに、付喪神に魅入られた人間は、縁を結んでしまったことで逃げられなくなってしまったのだ。
「ほんとうに。かわいそうだからたくさん愛してあげようね、水心子。」