タオル 自分の洗濯物を片づけるついでに、流川のシャツや下着類もしまってやろうと棚の引き出しを開けようとすればがたがたと引っかかる。ふぬっと強引に開けてやった。中の衣服は雑然としていて、これが開けにくかった原因かと、桜木は呆れる。
「あいつはよぉ…」
バスケ以外はずぼらなところがある男の引き出しの中身を、仕方がないなと整理してやることにした。ここのところ、遠征や取材で忙しかったのを知っている。甘やかしているな、と思いながら、それでも普段の生活で、不得手ながら家事に勤しむ姿に接しているので、まあいいか、と畳み直し、きれいに詰め始めた。
「ぬ…?」
引き出しの奥に古びたタオルが入れられている。見覚えのある薄れた色合いや洗濯を重ねて薄くなってしまった生地の具合に、目を瞬かせた。それは、桜木の親が桜木が生まれる前に赤ん坊の肌かけにと桜木のために買ったもので、赤ん坊の時分から、幼稚園、小学校、中学校と育つ中、ずっと桜木の手元にあったタオルである。おしゃぶりの代わりにタオルの角をよく吸っていたと言われたり、そのタオルがなければ、昼でも夜でも寝られないと泣き喚いたり…自身の記憶に残っているもの、いないもの、合わせても思い出がたくさん刻まれている桜木の大事なタオルだった。小学校を卒業する頃にはもう肌かけにはしておらず、代わりに枕カバーとして使っていたものの、高校入学を翌日に控えた夜、中学校での最後の失恋から立ち直れなくて、可愛い恋人なんてこの先現れないんじゃないか、もしいるなら顔が見てみたい、好きになった相手とつき合いたい…と、布団に入って枕を、大事なタオルを、べそべそと涙で濡らしていれば、視界の端で模様がひとつ、すっかり消えて元々のタオル地の色が露わになっていることに気づき、束の間失恋の辛さも忘れて、桜木は起き上がると慌ててタオルを確認する。白いタオルに淵をぼやかせた青空と、元気よく飛び跳ねているキツネたちが描かれているはずだった。これまでの洗濯で全体的に色が薄くなってきたとは言え、一匹のキツネが、まるまる消えてしまったなんてことはない。初めての事態に、これ以上使って残っているキツネたちも褪せて見えなくなってしまうのは嫌だと、桜木はその夜から、タオルを使わなくなった。畳んで大事に取っておく。しばらくは長年使っていたタオルが手元にないことが寂しかったが、高校生活が始まれば、バスケに出会い、熱中する内に、気が逸れた。存在を忘れたわけではない。今日みたいに何かの用事でタオルをしまった引き出しを開けることがあったり、ふと触感を確かめたくなった時は、その折々で手に取って広げていた。高校卒業後、バスケットにためにアメリカに渡ると、慣れない環境の厳しさで、どうしてもタオルに触れる回数が増える。桜木が二十代半ばだった頃か、消えたキツネは二匹になっていた。高一の冬に、それまでライバルだ、いけ好かない奴だ、と反発していた流川のバスケプレイを見ている内に好きになって告白してみれば、いいけどと受け入れられ、順調に交際を続けていたから、お気に入りのタオルについて打ち明けていて…何せキツネだ、実は生まれた時からキツネが好きで、というかお前が好みだったのかも…なんて睦言として囁いたというのに。元々よく使っていた上、経年劣化を免れるわけでもなく…桜木は落ち込みつつ、あまり触らないようにしようと、丁寧に元に戻したのだった。次にタオルを見たのは、三十代になり、アメリカから日本に戻り、流川と住むマンションで引っ越しの荷ほどきをしていた時。本当は広げるつもりはなかったが、取り出す際に段ボールから落ちてしまった。折りたたんでいた角がずれて、まだ色が残っていたと断言できる三匹目のキツネがいない。そして今日、四十歳をいくらか迎えた桜木が、そろそろと広げた先では、四匹分の空白があった。ただしそこにいるのはキツネではない。
「何やってんだ?」
眠そうな声に話しかけられた。振り返れば、やはり寝起きといった顔をした流川が立っている。大きな欠伸を覆う左手の薬指を式で嵌めたのは十年以上前のことだ。
「誰かさんがものぐさだからしまい直してやってんだろうが」
「後でやるつもりだった」
「嘘つくなっつの」
「いつもはもうちょっときれいにしてる」
「おめぇ、引き出しに入ってりゃいい、皺になってても着れりゃあいいって思ってるとこあっからな」
「それのどこが悪い?」
小言に流川は平然としている。桜木だって真剣に怒っているわけではなかった。二人にとっての軽口、それなりに生活を営めている者同士のやり取り。
「それよりよ、お前も似たような…つか、これ、ほとんど一緒だよな、俺のタオルと、俺のはサルじゃなくってキツネだけど…って前に話したことあったな」
桜木が両手で掲げたタオルには淵が薄れた青空にサルが十匹、思い思いに飛び跳ねている…あるいは、いた。今は四匹いない。残りは…流川がいいやと首を振った。
「どあほうは持ってねー、持ってんのは俺、俺のタオルだ」
まっすぐに見つめられながら言い切られる。からだがぼーっと後ろへ倒れるような、感覚だけ巻き戻されるテレビ番組に引っぱり込まれるような感覚があって、桜木はすべてを思い出した。そうだ、俺は元々、タオルで、赤ん坊の頃がどうの、小学校が中学校がどうの、なんて記憶は本物ではない。
「高校の入学式の前の夜、寝る時にずっとバスケやれる相手が欲しいってそれ敷いた枕で寝ながら思ったら、湘北でどあほうと会った」
そう、そう、自分は、子どもだった流川の、赤ん坊の時から一緒だった流川の、願いを叶えるためにやって来たのだ。桜木はタオルと流川に視線をやる。薄れた印刷とぺらぺらの生地に強い焦りを感じた。
「なあ俺まだおめぇといられるよな、最後までおめぇのそばにいるよなぁ?」
流川の視線がちらっとタオルに注がれる。サルはあと六匹残っていた。四十代で選手を引退し、プロリーグのチームの監督となって、同じく別のチームを監督している桜木と、高校から変わらず競っている流川が笑う。
「ああ、できる」
断言する流川に、桜木も笑い返した。それからタオルをそっとしまうと、引き出しを閉じる。次に見るのはいつだろう、その時にサルの数は…答えに至る前に流川が腹の虫を鳴かせたので、朝食にするぞと流川の肩を抱き寄せた。