つみびとたちの春 誰かに、やさしく手を引かれた。
ゆるやかに意識が浅瀬へとのぼる。雨の匂いが濃い。寝台の上、長年の癖で目を瞬いて、しかし視界にうつるものは何もない。あの日、アクシズを地球に落とそうとした日――たったひとつの得難いものと共に永らえた時から、シャアは視力のすべてを失っていた。
こんな雨の夜には、多くの声がきこえる。深淵から呼びかける死者の声が。それらは怨嗟というよりも「どうして」と、ただそればかりを繰り返す。
五感のひとつを欠いて感覚が鋭敏になったのか、或いはサイコフレームの共振を間近で浴びてなんらかの箍が外れたのか。皮肉にも今、シャアのニュータイプとしての能力はかつてないほどに研ぎ澄まされていた。もう宇宙を翔けることも、与えられた役割を演じることもないというのに。
闇の奥底へといざなう、無念を湛える死者たちの思いは常に近くで渦を巻いている。「たいさ」まぶたの裏、過日のまま時を止めた少女のまなざしが憂いを帯びる。守らなくていいとシャアは頭を振った。
だって、ほんとうにすこしも気にしていないのだ。
恐ろしいことをしてしまったなんて思うはずもない。
何よりも欲しかったものを手に入れたから許したふりをしているだけで、いまも世界を、恨んでいる。
「……こんな私を、やはり君は」
嫌うだろうか、アムロ――……。
半分は思惟へと溶けた問いに、応える声はない。長雨の夜にはシャアが魘されているのだと信じて律儀に手を引き、助けてくれたというのに。彼の気配はいつもより遠かった。
「アムロ……?」
「ぅ……ぐッ……」
うめくような息遣いがかすかに聞こえる。シーツを手繰り行方を探せば、ベッドの片端で胎児のように身を丸めた、その背中へとたどりついた。
幻肢痛か、と思いいたる。
余計なものを守ったりするからとは、言わない。それだけは口にしてはならないと、シャアにも分かっていた。しかし事実として大気圏への突入――もとい避けようのない自由落下のさなか、サザビーの脱出ポッドを守るために無理な体勢を維持などしなければ、νガンダムのコックピットの中でアムロの左腕が無惨に押し潰されることなどなかった。少なくとも、救命のために切断を余儀なくされるまでにはならなかったはずだ。
「なんて顔、してるの、あなた」
「……きみが、きみ自身のことを疎かにするから」
「そうかな……全部、エゴだよ。あの日あなたの手を離さなかった、その先のなにもかも……」
宇宙がまぶたの内側をいろどる。見えないはずなのに視える。慈しむという感情の体現。視界が利いていた最後、虹色の光の中で網膜に焼き付けたのと同じ笑みが。
堪らずシャアは、痛みを堪え小刻みに震えるアムロの背中へと抱きついていた。結んだシャツの袖に触れて、こわばるまぼろしの指先を握り込む。
「はじめてだ。誰かのために、なりたいなんて思ったのは……」
欲してくれるのならすべてをあげたい。こんな咎人の体でも、命でも。失った腕の代わりとなるには少しばかり頼りないだろうけれど、盾になるくらいはまだ、できるだろう。
「……何てこと言うんだ。セイラさんには聞かせられないな」
呆れたように笑ってアムロが身じろぐ。やわらかなくせ毛が喉元をくすぐる。
その声音が仄暗い優越を帯びているような、そんな気がして――……やはり気のせいだと思い直した。
-fin-