新開隼人ABCDA
「ただいま」
誰もいないけれど、玄関に入った時にはつい口にしてしまう。恋人が家にいてくれたら、なんて妄想はもう何十回とした。高校2年から付き合っている靖友は、遠い静岡で俺と同じように大学と自転車とバイトで大忙しだ。今日だって週末だけど、向こうは大会の応援に駆り出されそのまま飲み会。家で待ってるから俺は別にいいよ、練習終わったら会いに行くよと言ったけど、「どうせバタバタしてゆっくりできねー。金もったいねェしまた今度」なんて言われて断られた。だから今日は練習、自主練そしてバイトと盛りだくさんの一日にして、忙しさで寂しさを紛らわせようとした。体力には自信があるが、無理やり詰め込んだせいで流石に体が悲鳴をあげてる。
軽く伸びをしながら廊下を進んで部屋の電気をつける。夕飯は賄いを食べてきたのに、どうにも腹が空いた。こんな時間から食べたらまた太るぞと脳内の靖友から叱られつつ、カップ麺の湯を沸かすために電気ポットをセットした。しょうがない腹が空いたんだから。「便利だからこれ買っておこうぜ」と荒北に勧められるままに買ったこの電気ポットは、カップ麺やらコーヒーやらと大活躍だ。なんでも静岡に引っ越した際、親御さんが持たせてくれたものの一つだそうで、靖友お気に入りの家電らしい。全く同じものを俺にも買わせて、うちに来た時には我が物顔で使っている。
「あー、会いてぇな…靖友」
思わず口からこぼれ落ちる。カップ麺を待つ間に浴槽を掃除しながら思い出していた。1年と少し前のこと。俺は東京、靖友は静岡。どうしても距離ができてしまうことに耐えられなかった。俺は、靖友がお揃いのものを買わせてきたことをきっかけに、色々と靖友と同じものを買ったり、逆に同じものを買わせたりして、なんとなく寂しい気持ちを押し殺していた。お揃いのものが増えたって何か変わることはなかったけれど、それを見るたびにこうやって思い出しては会いたい気持ちを膨らませている。靖友もそうでありますようにと思いながら。
風呂をサッと洗って部屋に戻ると、丁度カップ麺が出来上がる頃だった。これは湯をためる間に食べ切ってしまいそうだ。今持っている箸も靖友とお揃いのものだった。色違いの箸が二膳、それが俺と靖友の家両方に置いてある。「なんで全部オソロイにしなきゃなんねェの!?」と言われたが、そのまま無視してレジに持っていったのが懐かしい。高校2年からの付き合いのため、キスだってそれ以上だってしてきている。が、どうしてもこの距離が憎い。靖友の隣で過ごすことができる洋南の2人には、心の奥の方で嫉妬している。勘のいい彼には分からないように、何重にも蓋をして。
さぁ食べようとカップ麺に手をかけたところで、外の階段から人が上がってくる音がした。借りているこの部屋は階段に近いので、誰かが来た時にはよくわかるのだ。その足音はうちの扉の前で止まった。
(誰か来たのか?こんな時間に…?)
寿一だって今日は来る予定ではない。
一体誰がこんな夜に?
本当にうちに誰か来たならばインターホンが鳴るはずだと思い、そのままカップ麺を食べ進める。が、一向にその音はやってこない。その時、鍵穴に鍵が差し込まれる音がした。突然ざわつきだした胸を押さえながら、扉の方に近づく。この家の鍵を持っているのは、親そして靖友だけだ。もしかして、もしかするのか?会いたい気持ちが、伝わっていた?ドキドキと鼓動が速くなる。ガチャガチャと音をたてる鍵穴が、かちりと音を立てて解錠された。
そこにいたのは———
「え?お、おめさん…誰だ?」
いや、誰だと聞くのは少しおかしい。だってどう見てもそこにいるのは、俺だったからだ。
新開隼人ABCD
B
「お前こそ誰…いや、俺?」
新開隼人と全く同じ顔をした男が箸を持って玄関に立っている。どこからどう見ても俺、新開隼人がもう1人いる。幽霊?ドッペルゲンガー?疲れた頭に混乱する情報をぶち込まれて眩暈がしてくる。目の前の男は恐る恐る、「名前は?」なんて言って距離を空ける。俺の方だってそんな近づきたくはないので、ドアを開けたまま顔だけ家の中に入れて答える。
「新開隼人。明早大2年だよ。全く同じ顔をしてるけど、名前も一緒だったりする?
「俺も新開隼人…明早2年、スプリンターだ」
目をまんまるにして驚いている顔。「まじかよ…」なんて呟きが聞こえる。こっちだってまじかよ、だ。家に帰ったらまさか、俺がいるなんて。今日は大会があったため一日中外だった。その上先輩達が優勝祝いだと言って飲み会をすると言い、すでに飲める年齢になっていた俺は問答無用で連行された。そうだ、だから俺はとても疲れているしほろ酔いなんだ。これは何かの夢で間違いで、目の前に俺がもう1人いるなんてことはないんだ。
「なぁ、お前幽霊なのか?」
眉を顰めてこちらを見ている俺が、質問してくる。お互いにお互いを上から下までジロジロ見る。足はしっかりあるし、手だって透けてなんかない。向こうは俺がいつも使っている箸を手に持っている。幽霊じゃあないようだ。
「違うよ…なぁ、なんでいるんだ?ここ、俺の家なんだけど…」
「いや俺の家だよ。鍵だって開いた。」
「いやいや俺だって今開けたし」
玄関先で何やってんだか。自分と同じ顔のやつに、ここは俺の家だなんて主張してる。さっきまで居酒屋で呑気に飲んでたのが信じられない。明日は靖友とデートだから、二次会には行かずにさっさと帰ってきた。月の初め、「あのさァ、第三週の月曜日、講義が休講になってェ…。部活の練習もまぁなんとかなるンだけど…土曜はバイトあっから、日曜から…一泊できる。」と電話で言われた。スマホを持っていたのに思わず両手を挙げて喜んでしまって、返事をしない俺に靖友は、電話口から大きな声で怒鳴っていた。その日から今日を楽しみに過ごしてきたのに、なんて日だ。
靖友とのお付き合いは一年と少し前からだ。高校の卒業式の後に靖友に呼び出され、好きだと言われた。突然の告白に驚きながらも、「俺もだ」なんて答えた。いい返事なんて返ってくると思ってませんでしたって間抜けな顔をしている靖友に、「じゃあ俺たち付き合おう」と言って握手をした。抱きしめるだなんてとんでもない、手に触れるだけで精一杯だった。思い出すだけで胸が高鳴る。そんな可愛い恋人を迎えるために、今日は風呂に入ってすぐ寝る予定だったんだ。朝は早く起きなきゃいけないし、軽く掃除でもしようと思っていたのに。どうして一体こんなことに。
「おい、お前さん大丈夫か…?」
少々靖友との思い出に浸って現実逃避をしていた俺に、俺から声がかかる。
「俺の鍵、これなんだけどさ」
向こうは箸を咥えながらゴソゴソをパンツのポケットを探り家の鍵を見せてくる。こちらもポケットから取り出し、お互いの掌を並べて鍵を見比べる。どちらの手にも、うさぎのマスコットがついた鍵。
「「これ…全く同じ…だよなぁ?」」
B
玄関に居たってしょうがないということで、テーブルを挟んで座った。向こうは丁度カップ麺を食べるところだったらしく、食べながら話をした。目の前にいる俺と全く同じ顔をした人間は、名前も一緒、大学も年も一緒。飲み過ぎて起きながら夢でも見ているのかと思ったが、どうやら違うらしい。俺たちは自分のことを一つ一つお互いにより詳しく話していった。
「顔も名前も大学、高校まで同じ。中学のクラスだって…。小さい頃のエピソードも全部一緒だった。本当になんなんだ…ドッペルゲンガーってやつなのか?」
「俺だってお前がドッペルゲンガーなんじゃないかって思ってるよ」
はぁ〜っとため息をつくタイミングまで合ってしまった。ぐるりと部屋を見回して目の前の俺が、こちらを見る。
「なぁ、おめさんは今日何してたんだ?」
「部活にバイトだな。そんで帰ってきて、軽く夜食とって、風呂掃除してたよ」
「そうか…俺は大会と飲み会だったんだけどさ、一次会で抜けてきた」
そこまで話して、はたと「ここは違うのか」と顔を見合わせた。どうやら全部が全部同じではないらしい。でもそうだからと言ってどうこうなるわけでもなく、新開隼人がただ2人いるだけだった。もう1人の俺は、「もう埒が明かないし、風呂入らねぇか。俺疲れてて」と言いながら、スタスタと風呂場に向かっていった。やはり足取りに全く迷いがない。飲み会でたくさん食べたはずだが、なんだか口寂しくなり、俺も冷蔵庫を覗きに行った。
「あーやっぱウチと同じだなぁ…ん?でも、あれ、なんかおかしいかも」
「ん?」
「どうしたんだい」
慌てて風呂場に行く。腕を組んで頭を捻る俺を押し退けて風呂場を覗く。特に変わったところはないようだ。
「え!?いや、ちょっと…あの、ここに置いてあったものがなくなっていて…いやいつも置いてるわけじゃないんだけど」
「ん?何を置いてたんだ?」
「いやぁ…」
口ごもる様子にピンときた。もしかして風呂場にゴムとか置いてたんじゃないか俺。いやらしいなと訝しむ眼差しを感じたのか、いやベットのところにも置いてあるぜ!?と墓穴を掘っていた。まぁ、なんと言うか確かに俺も風呂に入っている靖友に欲情してそのまま…ということは何度かあるので、強くは言えなかった。
「…お前、恋人いるんだな」
「あ、ああ、まぁね。そっちは?」
「俺もいるよ。」
「なぁ、やっぱり俺たち恋人も一緒なのかな」
「…ちなみに俺は大学違うけど」
「俺も…」
「高校は一緒」
「え、俺も俺も」
突然始まったちょっとした恋バナに、少しテンションが上がりかけた俺たちの耳に、玄関からガチャリと音が届いた。
「や、靖友ー?!来てるのか?!」
そこに飛び込んできたのは、またしても俺だった。
A
「本当にどういうことなんだよ」
3人目の俺が登場したところで、一度全員でカップ麺を食べた。もう考えるのに疲れた俺たちは、腹が空いていた。俺は二つ目だけど、余裕で入る。目の前の俺2人も、すごい勢いで麺を啜っている。俺の右手には先に帰ってきた新開隼人B、左手にはさっき帰ってきた新開隼人Cがいる。
「おめさんらは先に帰ってきた俺なんだよな」
口を拭きながら、新開Cが喋り出す。なんか俺が2人いるの変な感じだ、とあまり驚いてないような様子だ。
黙々と麺を啜っていた新開Bは、最後の一口だったのか、スープも全部飲み干して、ようやく喋り出した。
「ああ、玄関開けたらこいつがいたんだ」
「突然俺が入ってくるからビビったぜ」
「そっか…あーあ、電気ついてるから、もしかして靖友がいるのかと思ったのに。慌てて階段上がってきて損したなぁ」
C
バイトが終わって、少し本屋に行きたいなと思い、寄り道をしてから帰ってきた。すると俺の部屋に灯りがついているではないか。もしかして恋人の靖友がうちにいる?合鍵を渡したものの、一向に使われることがなく少し寂しく思っていた。連絡もないからもしかしてサプライズなのか。そんなことをするタイプの男には見えないのに来てくれたのかと胸が熱くなる。高校卒業の日、靖友を屋上に呼び出して告白した。俺が走れなくなったときから一緒に練習する時間がグンと増え、気がつけば靖友に惹かれる自分がいた。初めは気のせいじゃないかと思ったが、靖友が俺の名前を呼ぶたびに心がギュッとなるのでこれは恋なんだと納得した。見当たらないとどこにいるのかと探してしまう。練習以外でも一緒にいたいと、わざわざクラスまで話に行ったり、寮の部屋に遊びに行ったりした。すると、なんとなく靖友と目が合うことが増え、靖友から見つめられることが増え、俺が会いに行くのを待ってくれることが多くなった。きっと、あの時から俺たちは両思いだった。なんだか、口に出したらいなくなってしまうんじゃないかと怖くて言い出せずにいたけど、やっと卒業式の後に伝えることができた。靖友が顔を隠しながら「……俺も好きィ」と言ってくれ、あの日は俺の人生最高の日になった。そのあと思い切り抱きしめたら、恥ずかしくてたまらなくなった靖友に腹パンされたけど。
そんな靖友がいると思い喜び勇んで階段を駆け上がり、思い切り玄関を開けた。そうしたら俺が2人、脱衣所の扉から顔を出した。
「なぁ、今なんて言った?」
「え、損したって言ったけど」
「ちがうその前」
「靖友って言わなかったか」
「い、言った」
愛しい恋人を思って帰ってきたことがそんなにいけないのかとドギマギした俺を他所に、目の前の2人は話し出した。
「俺たち、確認していくといろんなことが同じだったんだけど、もしかしたらこれも同じなんじゃないかと思って」
「なぁ、お前恋人いるか?というか、おめさんの恋人って靖友なんじゃないか?」
目の前の2人がグイッと顔を近づけながら尋ねてくる。
「そ、そうだけど、まさかおめさんたちも…」
「「ああ、おれの恋人は靖友だぜ」」