夫婦──────結婚して、一年が経った。
ウォロがショウと初めて出会ったのは、三年前の春だった。それから一年かけて彼女は英雄になり、ウォロと全てを賭けて戦った。そしてそれから半年、決別したはずのウォロを執念で見つけ出したショウは猛アタックを繰り返し、胃袋を掴み外堀を埋め……とにかくあの手この手でウォロがどこにも行かないよう策を練った。そうまでして自分を手に入れたがる、歳下の少女。どこまでも真っ直ぐでウォロを包み込む穏やかな愛に、氷のように冷えきったウォロの心はどんどん溶けていった。────そして、半年ぶりの再会から三ヶ月もしないうちに、ショウの初恋は見事実ったのである。
そこからはもう急展開である。未来から来たショウは三年経った今でもあまり慣れないのだが、ヒスイの時代では結婚適齢期がかなり早い。女性は十五〜十八で結婚するのが当たり前で、また本来この時代はお見合いでの結婚……つまり親の政治的経済的な思惑のあるものが多い。ウォロとショウのような恋愛結婚───に分類されるだろうか、されて欲しい───は珍しい。
未来の価値観を持っているショウはこれから少なくとも一、二年は交際期間を経て婚姻へと至るのだと思っていた。……が、元より監視のためにウォロはショウの家に住んでいるため、世間からすれば、最初からショウの時代で言うところの「同棲中の婚約者」扱いだったようで。
そもそも恋人とはいえ婚姻関係ではない男と同じ屋根の下で暮らしているというのも体裁が悪いらしい。婚前交渉が宜しくないと考えられているココじゃ、一歩間違えたらショウはアバズレ扱いをされてしまう。
──────そのため、一、二年は恋人を楽しもうと思っていたショウを置いてけぼりにして、ポンポンと話は進み……結局恋人だったのは数ヶ月で、「彼氏」のウォロは直ぐに「主人」に進化した。
価値観の違いとは、いつの時代もどこの国でも争いの火種となることが多い。ここの人たちはショウを大切に扱ってくれて、護ろうとしてくれている。故に、こんなにも早い婚姻に踏切ったのだ。それはショウもよく理解している。有難いし、元よりウォロを手放すつもりは毛頭ないのだから、いずれは辿り着いた終着点だ。早まっただけで、ウォロが旦那様になるのなら大歓迎である。それにこの時代ではショウのような未来の価値観を持つ人間はいない。バトルにおいてはウォロは近しい価値観であるから、最初から彼はショウにとっては身近な人だった。
同じように未来から来たノボリはもしかしたら近しい考えの持ち主かもしれないが、如何せん彼には記憶が無い。─────つまりショウの価値観はかなり少数派であり、このヒスイで生きていくと決めた以上、ショウはヒスイの価値観に合わせて生きるべきだ。それは良く分かっている。
……が、だからって、花嫁を置いてけぼりにして結婚の話を進めるのはどうなんだ。ウォロはショウの気持ちなんて他の誰より理解しているだろうに、止めるどころかなんなら一番嬉々として結婚の話を進めていた。後から聞いた話では、最初に結婚を打診したのも彼だとか。あれだけつれなかったくせに、つれたらつれたでとんでもなく強引だ。本当ならもっと自分の気持ちも考えて欲しいと言ってやりたいのに、彼の強引さ、執着の強さが自分に向けられていることが嬉しくてしょうがない。ショウもいよいよダメである。
なんだか自分だけ翻弄されているのが悔しくて、意趣返しをしてやろう、と指を振って大層嬉しそうにデンボク団長に一日でも早い結婚をせがむウォロの背に、ショウは目で語り掛けた。─────あたしの時代じゃ、超歳の差婚って言うんですよ、コレ。
あたしとウォロさんの年齢差は有り得なくはないけど…あたしくらいの年齢の子にいい大人が手を出すのってダメなんですよ。…まあ、分かってるのに猛アタックしたのはあたしだけど。
そんな訳で予想外に早かった結婚だが、なんだかんだ上手くいっている。妻として何をするのが正解なのか、奥さんとはどんな風に振る舞えばいいのかと悩んでいたショウに、ウォロはこの時代の夫婦のあり方を丁寧に教えてくれた。その上で、外ではそう振舞った方がいいが家の中では今まで通りでいい、と。「アナタに嫁らしく居ろなんて言いませんよ」だとか、「女は大人しくいろだとか、くだらないと思いません?歯向かわれるのも苛立ちますけど、何でもかんでも言いなりの『お人形さん』にはもっと腹が立つんですよね。それに、アナタは後ろでじっとしてるとか、無理でしょうし」だとか色々言われたが──────要は、「自分が間違っているから、と多数派の意見に流されて、自分を抑え込むような無理はするな」と言っているのだ。言い方は冷たいが、ウォロという男は存外優しいのである。彼としてもようやく手に収めた幼妻には可愛らしさを感じているのか、ショウに触れる手つきはいつだって優しくて、どんなに冷たい態度を取られても、その手がいつも雄弁に愛を語ってくれたから、結婚生活において嫌だと感じることは何も無かった。
また、ショウを蚊帳の外にして結婚の話をどんどん勝手に進めたことに負い目を感じているのか、それともショウの「もう少し『恋人』で居たかった」という願いを聞いてくれているのか、ウォロはあまりショウに「妻」を求めなかった。対外的にはそう説明はする。書類上も妻である。もちろん夫婦であることに不満があるとかそういったことでもない。ただ、妻としての言動ではなく、年相応の振る舞いで話しかけるだとか。少し幼い表情を見せたり、年頃の娘らしくヒスイに流れてきたばかりの可愛いワンピースに大はしゃぎしたりとか。そういった「普通の少女」の面を見せると、ウォロの表情はいつもよりもずっと緩むのだ。妻らしく淑やかにしゃなりしゃなりとしているより、元気にはしゃいでいる方がいいらしい。
ショウに「英雄」を求めなかった彼らしい。
いつだって、ウォロはショウを「普通の女の子」として扱ってくれていた。ショウはそれがずっと、ずっと、心地よくて有難くて。多くのムラの人にすごい英雄だと褒められるより、ウォロ一人にクソガキだなんだと悪態をつかれるほうが、余っ程嬉しいのだ。
祝言を挙げてからの月日は、互いに一人で暮らしていた時よりもずっと早く過ぎていった。
睡眠にも食事にも興味が無く、そんな時間があれば全て研究に充ててしまうウォロは、もう、すごかった。一日に一食何かマトモなものを口にすれば良い方。外にいる時は水と、機械的に木の実をたまに齧るだけ。室内で集中している時は、水すら飲まないことも多い。睡眠に至っては耐えきれなくなった時に失神に近しい形で気を失う。────と、人間を辞めているどころの話じゃない生活を送っていたので、ショウと同居してからは、ずっと甲斐甲斐しく彼女が世話を焼いていた。
ウォロは最初こそ反発していたものの、未来の料理が気に入ったのか、ショウの料理が気に入ったのか、いつの間にか文句も言わずに食べるようになった。
睡眠に関しても、同居したての頃はやはり同じ部屋で眠ったり、眠っているところを見せたりはしなかった。それが段々同じ部屋で寝てくれるようになり、結婚してからは隣の布団で寝てくれるようになったけれど…背を向けられてしまっていた。
恐らくはあれは寝ていなかった、とショウは考えている。その証拠に、ある日勇気を出して抱きついてみたら─────今思い出してもぽぽぽっと顔が熱くなる。あの日は信じられないくらい優しく優しく溶かされて、ウォロが自分に向ける執着と愛情の強さを思い知ったのだ。
あの日以降、ウォロは背を向けて寝ることもなくなり、ショウを抱きしめたまま寝るようにもなった。……付随して寝かせてもらえない日も増えた。
どんどん日増しに人間らしく、そしてショウにも心を開くようになったウォロとの生活は、楽しくて仕方がない。
結婚して一年が経過した今でも、新発見がたくさんあるのだ。
春風が吹く暖かな昼、ショウは洗濯物を持って外に出てきていた。晴れ渡る空は青く澄み、コトブキムラの人々の商いの声が聞こえる。穏やかでいい天気だ。これなら雨が降る心配も無いから、心置きなく洗濯物が干せる。籠の中にたくさん溜まった洗濯物にチラッと視線を向けて、ふぅと息を吐く。そして決心したように頬をペチペチと軽く叩き、一つ一つ洗濯物を取りだして物干し竿に掛けていく。─────背の低いショウには、洗濯物を干すという行為は苦手な部類の家事である。故に普段はこういった高いところに手を伸ばすものは全てウォロにお願いしているのだが…………。
家の中にいる夫は、そよそよと春風を受けて気持ちよさそうに夢の中を探索している。最近はショウもウォロも仕事が忙しかったから、疲れていたのだと思う。今日洗濯物がこんなに溜まっているのもその仕事の忙しさが故だ。仕事で疲れているのは、ショウも同じである。それでもショウは、眠っているウォロを起こして家事を手伝って貰おうとは思えなかった。名誉のために言っておくが、彼は妻に家事を全て押し付けて自分は寝てばかりだとか、決してそういう男では無い。むしろその逆で、料理が苦手な分負い目を感じているのか、ショウが家の事で困っているとすぐに来てくれる。ポケモンの調査だって危険なところに行く時は着いてきてくれるし、ウォロに影響されて興味を持った神話やら遺跡やらの研究で行き詰まった時なんかは、もうお腹いっぱいですと言いたくなるくらい色々教えてくれる。ウォロさんは口は悪いけど、根は優しくてカッコよくて、すごく素敵な旦那さんで─────とにかく、とにかく、ショウは色々助けて貰っているから、彼に無理はさせたくないのである。家事はショウが好きでやっているのだから、気持ちよさそうに寝ている夫を起こす必要は無い。だから起こさない。
決して、決してそこに、床にでーんと手足を投げ出してスヤスヤ眠る夫が子供みたいで可愛らしいから、このまま寝顔を目に焼きつけるために思い出として寝かせておこうとか、そんな思惑はないのである。疲れた旦那様への労いの気持ちしかない。別にそんな。さっさと洗濯物を干して、アルセウスフォンで寝顔盗撮してもいいかなだとか、ちょっとなら…指で軽くならほっぺた触ってもバレないかなとか。そんな下心は無いのだ。
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声が聞こえる。
穏やかな春の風のように暖かく、それでいて、心地のいい─────。
ウォロがその長い睫毛の幕をゆっくりと上げると、ふわりと春風が彼の髪を撫でた。
風に乗って、先程夢にまで届いた声が響く。
……歌声だ。澄んだ水のようによく通る、それでいて鈴を転がしたような高い声。心の奥底まで浸透していくような、この声の主を、ウォロはよく知っている。
のそりと上体を起こして、声に誘われるように音の発生源に足を運ぶ。畳に大の字で寝ていたせいで、体のあちこちが少しだけ痛かった。
「──────あ。」
声の主、ショウは洗濯物を干していた手を止めて振り返る。風にはためく白いシーツが、カーテンのように、彼女の小さな体を隠した。強風が収まり遮蔽物が無くなると、ショウは困ったような顔をして笑っていた。
「すみません、起こしちゃいましたか?」
「いえ」
うるさかったかと反省するような彼女に、一言否定だけ告げる。歌声で起きたのは確かだが、別にうるさいとは思っていない。…バツが悪そうに謝るショウの腕には、ウォロの寝間着がかかっている。ウォロはショウに近付くと、それをひょいと取って物干し竿に掛ける。
「…アナタの背では、届きにくいでしょう。呼べと、言ったのに」
思いの外拗ねたような声が出た。布とはいえウォロの物となると、それ相応に重さも長さもある。ショウの小さな身体では、少し持ち上げるのですら大変だろう。ウォロはショウを心配するの半分、頼られなかったことが不満なのが半分でショウをじとりと睨んだ。
「だって、ウォロさんの寝顔が可愛かったから」
ショウは口に手を当てて、嬉しそうに微笑む。時折ショウは、自分より遥かに長身のウォロを指して「かわいい」というのだ。それを言われる度に、ウォロは毎回不思議な気持ちになる。
六尺三寸程上背のある己に、歳上の男に、夫に向かって、可愛いとはなんだと胡乱に思う気持ちと、ほんの少し。言われ慣れない、恐らくショウ以外には己をそう形容する物は居ないであろう褒め言葉、ショウにしか言われない言葉に、ほんの少し嬉しいと思う気持ち。
今回もまたそんな不思議な気持ちが湧いてきて、じわりと体温を上げていく。腑抜けた寝顔を見られた恥ずかしさも相まって、ウォロはショウから顔を背けた。────そんな所もまた、ショウからすれば「可愛い」のだが、これにウォロが気がつくのは、きっとまだまだ先だろう。
「一般的に、“可愛い”と評されるのはアナタの方…………で──────」
気を取り直して、ショウにも何かからかい返してやろうと彼女を見る。───瞬間、射抜かれたように思えた。暖かな春の日差しが彼女を優しく包んで、そよそよと揺れる長い髪が、視界を埋め尽くす。近くに咲いた桜の花が舞い上がり、桃色の花弁が、彼女の周囲を染める。
声も出せぬ、言葉も紡げぬまま、ウォロはその様子を見つめていた。呼吸をする間すら投げ打ってしまってもいいと思えるほど、美しい情景だった。
─────微かに、ウォロの脳をちりっと焼くような刺激が走る。あぁ、思い出した。
何故、歌声に心地良さを覚えたのか。
何故、眠っていた自分の耳に届いたのか。
何故、こんなにも懐かしさを覚えるのか。
「…………ウォロさん?」
突然言葉の途中で黙り込んだウォロを怪訝に思い、ショウは手を止めてウォロの顔を覗き込む。少しだが不思議そうな、驚いたような顔をしたウォロは、ショウが覗き込んでも尚何も喋らない。いよいよどうしたのかと心配になったショウは、考え込んでいる様子のウォロの手を軽く掴んで、こちらへと引き戻した。
「具合、わるいですか、」
「…………いいえ。大丈夫ですよ」
ショウはずっと問いかけていたのだが、ウォロにとっては急に懐に入られたようなものだ。驚いたようで、ぱちぱちと数回瞬きをしていた。
微笑みながら自身の手を掴む、ショウの小さな手を握り返す力は、緩めてあるがしっかりとしたものだ。どうやら体調不良を隠しているわけではないらしい。
「……ジブンでも、よく分かりませんが、」
握られ握っていた手を離したウォロは、ショウを優しく見つめながら静かに語り出す。
「昔のことを、思い出しました。まだ、ワタクシが幼子だった頃。…両親が、母が、生きていた頃のことを。」
その言葉に、ショウは目を見開いた。ウォロは昔のことをあまり語らない。コギト以外の血族はみな亡くなってしまったのだとは聞いていた。だから、恐らくは彼の両親もそうだったのだと、分かっていたけれど。
彼の口から直接、家族のことを聞くのは初めてだ。ショウは固く拳を握りしめて、真摯に耳を傾けた。
「もう、何年も何年も記憶の片隅に追いやって、声も、顔も朧気だったはずだった。」
「それなのに、いきなり、鮮明に思い出したんだ。……アナタの歌声は、母の子守唄によく似ていた。」
なんと、表したらいいのだろう。ウォロの表情は、何とも微妙だった。もう二度と会えないことを悲しむような、思い出せたことを喜んでいるような、なんとも、なんとも痛ましい表情だった。それでも、ウォロは笑っていた。ひどく悲しそうな笑顔なのに、どこか晴れやかさを感じるような、そんな顔で。
「別に、何処が似てるって訳じゃないんですよ。アナタの方が、高くて澄んだ声をしている。
それに顔だけなら、鏡でも見ていた方が似ているでしょうから。」
そう言って、縁側に座ったウォロは下を向く。自身の複雑な心境をショウに悟らせないためか、彼の元来の秘密主義のためか。落ち着かない様子で、悪戯に指を掴んだり離したり、俯いたまま弄んでいる。────「ワタクシは結局ひとりでしたがアナタは違う……」決戦の日にウォロに言われた言葉を思い出す。
……今も、彼はそう感じているのだろうか。──────それは、寂しいなぁ。
「……なら、」
座り込む彼の前に、前掛けが汚れる事も気にせず膝をつく。僅かに顔を上げた彼の頬に、ショウは小さな掌を添わせた。
「なら、あたしも『お母さん』になれるかな」
そこだけ、周りの音が切り取られたようだった。ウォロには、ショウの口の動きがゆっくりになったように感じた。ショウの声だけが、抽出されてハッキリと耳に入ってきた。
「……ハ……」
切れ長の目を真ん丸にして、ウォロは小さく声を漏らす。バッと顔を上げた彼の腕を、ショウは、まだ全然膨らんでいないお腹に引き寄せた。その拍子にウォロの足は地面に思い切りつくことになったが、最早それを気にしている場合では無い。
「お腹に、赤ちゃんがいるんですよ。」
告げられたそれは、すんなりとウォロの耳に入ってきた。こんな薄い腹に、子がいるのかと到底信じられない思いでいるウォロに、ショウは言葉を続ける。
聞けば、二週間ほど前に己が商会の仕事で不在だった時に、月の障りが来ていないと気が付き医療隊のキネの元を訪れたのだとか。どうやらウォロには「サプライズ」とやらでまだ黙っているつもりだったようだ。…とはいえ隠しているのにも限界があるし、ウォロの様子も考慮して黙っているのは宜しくないと判断したわけだが。
「……………あかご」
「そうですよ。ウォロさんの子。ウォロさんと、あたしの、赤ちゃんですよ。」
ぽそりと呟いたウォロに、ショウは一語一句区切るように答える。血の繋がりは、己にとってただ一つの指針であった。アルセウスに会うという夢も、新世界の創造という野望も、元を辿れば、己に流れる古代シンオウ人の血への拘りから生じた願いであった。父母もとうに亡くなり、血縁と呼べるのは、もう何年もコギトだけだ。純血な古代シンオウ人は、もう二人しか残っていない。…けれど、彼女との間に、子が産まれるのなら。
それは、
ウォロの血筋が途絶えないということ。
シンオウの血は、
脈々と流れ続けるということ。
彼女とジブンを繋ぐ、結晶がいるのだということ。
「……ショウ、さん」
なんて声を掛けたかったのか分からない。
分からないのに、続けて何度も何度も名前を呼んだ。呼びながら、ゆっくりとショウの腹を撫でた。どれほど触ろうと、胎動は感じない。
それでも、確かにここに在る。
自分と世界を、自分と彼女を繋ぐ、
世界を紡ぐ結晶が、ここに。
芽吹いたばかりの小さな命が、彼女の体の中で今、生きている。
奥歯を噛み締めて、体の底から溢れそうになる激情を必死に抑えるウォロに気がついたのか、ショウは静かにウォロの頭を撫でた。堪えていたものが音を立てて崩れていく。どうしても意地で涙は見せたくなくて、ショウの腹に縋りついた。ボロボロ溢れ落ちることもなく。じんわりと、浸透する分の涙しか流せない、泣くのが下手くそなウォロを、ショウは少しも笑うことなく、ただ慈しむようにずっと彼の頭を撫でていた。意地っ張りのウォロにはそれが嬉しくて、けれども気恥ずかしくて、薄ら潤む目で彼女を睨みつけた。
「あやさないでください、こどもじゃ、ないんですよ」
悪態を吐いて見上げた先で、彼女と目が合う。頭を撫でる手を止めぬまま─────────柔らかく微笑む彼女の笑顔は、もう既に立派な母親のそれであった。
……ウォロはようやく納得がいった。
彼女はもう既に、母親なのだ。母親の覚悟が、出来ているのだ。
だからこそ己も、記憶の奥底に在った母親のことを思い出した。だからこそ、彼女に自分の母の面影を見たのだ。
ウォロには、父親が何であるか、何をすれば父親らしいのかなど分からない。彼の父親は彼の母親よりも先に居なくなってしまった。だからウォロにとっての親は、母だけだった。目指すような手本など、ウォロには何も覚えがなかった。─────それでも、愛する妻と、産まれてくる乳飲み子の為に、何かをしようと思えた。
あの頃目指した高尚な存在には、なれなかったのかもしれない。けれど、ウォロは今、確かな幸せを感じている。…独りだ、と。全てを遮断していたあの頃には、到底感じられなかった。頭の先から足の先まで、ぬるま湯に浸かったような、深くて暖かい多幸感に包まれているような……そんな、不思議な感覚だった。
胎動は、まだ感じない。
それでも、確かにここに。
早く、早く、アナタに会いたい。
親らしいことなんて、何もしてやれないかもしれない。愛情などここ数年でようやく生まれた感情だ。きっとアナタの母親よりも拙くて、ぎこちないものになる。
それでも、精一杯愛してやりたい。
ワタクシの持てる全てをかけてでも、彼女とアナタを、生涯幸せにしてやりたい。
ウォロはグッとショウを引き寄せて、思い切りかき抱いた。
「──────ありがとう」
血を絶やさないでくれること、父親にしてくれること、母親になってくれること。
自分を諦めないでいてくれたこと。
ヒスイに残ってくれたこと。
時を超えて、自分と出逢ってくれたこと。
その全てに、目一杯の感謝を。
────ショウが見た少し早い夏を思わせるような、そんな、ウォロの笑顔は。
もう既に、立派に父親のそれを感じさせる、愛情深いものだった。