出来損ないの恋“出来損ない”
“恥さらしめ”
“まるで妖だ”
“この家にお前は必要ない”
“せめて、この世を生きられるだけの知恵を、この子に…”
「!…………っ、」
見慣れた天井が目の前にある。
ああ、ここは忍術学園の自室か。
忙しなく上下する胸を落ち着けようと視線を天井から隣へ移せば、雷蔵はいまだ夢の中。
良い夢でも見ているのか、表情がとても幼く見える。
「この顔は、できないな」
ふっと一瞬苦しさが和らいだ気がするが、汗で肌に張り付く寝間着が気持ち悪い。
雷蔵を起こさないように布団から出た三郎は、音を立てずに障子を開けると井戸へと向かった。
東雲の空に、鳥たちが飛び立っていくのが見える。薫風が、耳に残っていた雑音を消し去っていくように優しく吹き抜ける。
「母上の声、まだ覚えていたんだな」
よかった、と思いながら東の空が明るくなっていくのを見上げていると、最近よく感じるようになった気配が近付いてくる。気配がする方の塀を見つめていると、音を立てることなく塀を飛び越えて目の前に降り立った人物。
「おはようございます、七松先輩」
「おはよう。早起きだな、鉢屋」
小平太は、にかっと大口を開けて笑った。
後ろでひとつに束ねたぼさぼさの毛束には所々葉っぱが絡まっていて、級友の竹谷八左ヱ門を思い出す。
最近、ひとりでいるとよく感じる気配はこの人だった。はじめの頃はなぜ?とも思ったが、細かいことを気にしないこの人のことだから、理由などないかもしれないと思うとどうでもよくなった。
「七松先輩は、いま鍛錬から帰ったのですか?」
「そうだ。これから湯を沸かして風呂へ入ろうと思うのだが、一緒にどうだ?」
千歳緑の制服についた土埃を払いながらそう提案されるが、三郎は考える素振りをすることなく首を横に振った。
「申し出ありがたいですが、寝汗を引かせたいので私は井戸で十分です」
「そうか、わかった!」
ではまたな、と言うと再び音もなく飛び去って行く。
気配が無くなったのを確認すると、井戸の傍に膝をつき、上半身のみ寝間着を脱ぐと桶の水を頭から被った。仮面の中を井戸の冷たい水が伝ったことで思わず「あ」と声を漏らす。
「しまった、仮面を濡らしてしまった」
木でできた仮面に水はよくない。気配は先ほどの七松先輩だけ、あとの人間はまだ夢の中だろうと結論付け仮面に手を掛けた。
その時、後ろから強い力で肩を掴まれ、仮面が外れかける。夢の中で聞いた父親や親戚たちの罵詈雑言が再び頭の中に響く。
「や…っ!」
鉢屋衆にお前のようなものはいらん、そう言って虫けらを見るような目で見下ろす父親の目を思い出し頭が割れるように痛む。掴まれた肩を渾身の力で振り解くと三郎は自身を守るように、体を丸める。
「鉢屋!私だ!」
「はっ…はっ……ぁ、な、な…ま…、い…っ」
沈みゆく意識の中、聞こえた声は、とてもあたたかかった。
◆
カラン、と意識を失った三郎の手から仮面が離れ地面に転がる音と同時に顔面から倒れ込む三郎の腹に手を回して抱き留める。間一髪地面に触れる前だったことに思わず安堵のため息を零す。
なんでものらりくらりとこなす天才、鉢屋三郎。それはそれは綺麗な体をしていることだろう、と他人の話を鵜吞みにしていた己を恥じる。
そっと気配を消して何の気なしに木の中に身を潜め鉢屋を見つめていたが、露わになった背中に走る無数の赤い線を見た瞬間、思わず飛び出していたのだ。
誰に付けられた傷だ、と詰めようとしたことでこうなったのだったら原因は、
「…私だな」
落ちた仮面を拾い上げてはたと気付く。まさか、と思いうつ伏せの三郎の顔にそっと手を這わせると、仮面ではない柔らかさに思わず手を引く。今の三郎は正しく本物なのだ。今なら、と三郎の身体を反転させかけて今はそれどころではない、と替えにと持ってきていた制服の上着で三郎の顔をぐるぐる巻きにした。
脱げていた上着も元に戻し、横抱きにして立ち上がったところで「おっと」とたたらを踏んだ。
「軽……すぎないか」
まるで綿を持ち上げたような軽さだ。
三郎の同級の尾浜のような大食いではないとは思っていたが、そんなに食が細いのか、とますます心配になる。
三郎が起きないようできるだけ身体を揺らさないようにしながら保健室へと走った。しかし、朝も早いこの時間、まだ保健室には誰もいなかった。仕方ない、と長屋の六はの部屋の障子前から伊作を呼ぶ。
「すまない伊作、私のせいで急患だ」
そう言えば、色々な音を響かせながら障子が開き、伊作が飛び出してくる。
「小平太、急患って…誰!?」
「―もしかして、鉢屋か?」
伊作が倒したらしい衝立を直しながら留三郎も首を傾げている。
「ああ、鉢屋だ。倒れた拍子に仮面が外れたようでな」
「とりあえず、保健室へ。留三郎、念のため湯を沸かしてきてくれ」
わかった、と頷いた留三郎は食堂へ走り、伊作と小平太は保健室へと急いだ。
保健室に着くと、空いている布団に三郎をそっと寝かせる。
「顔に傷は、」
「ない。大丈夫だ」
「よかった」
幸い、不破雷蔵と同じヘアピースは付いたままだったため、額の部分だけ上着を退けると、固く絞った手拭いを乗せる。
「なぁ、伊作」
「ん?」
「鉢屋の背中に、傷が見えたんだ」
「えっ」
伊作はそっと三郎を横向きにすると、寝間着の襟を引いて背中を露わにする。しかし、先ほどみた傷はなかった。
「さっき見た時はあったんだが」
「もしかしたら」
顎の下に指を置いて思案し始めた伊作の声に重なるように、保健室の障子が開き留三郎が木桶を持って入ってくる。
「湯を持ってきたぞ」
「ありがとう、留三郎」
湯の入った木桶の隣に空の木桶置いた伊作は、ぬるま湯を作るとそこに手拭いを浸す。それを少しだけ絞って三郎の背中に当てる。少し置いて手拭いを退けるとそこには先ほどみた傷が現れていた。
「これだ!」
思わず大声を出すと伊作が人差し指を口元に当て「静かに」と暗に告げる。
「鉢屋の家は複雑だ。これを本人が知っているかもわからない」
小平太は留三郎とともに伊作を見つめる。小平太は時折、三郎の背中に手を伸ばそうとしてそれを理性で留めるように拳を作っている。
「しかも最近できた傷じゃない。もしかしたらここに来る前かもしれない」
鉢屋三郎は悪戯好きだが、他人に疎まれる奴ではない。どちらかといえば、仲間に恵まれていると思う。
そういえば、と二年生の時に草葉の陰で見かけた水色の頭巾の泣いていたあの子はどうしたのだったか。ふと、思い出される記憶。長く艶やかな黒髪でくりくりの大きな目からとめどなく涙を流していたあの子。たしか、目の色が印象的だった。どうして今あの子を思い出したのだろうか。名前も知らないあの子は、今どうしているのだろうか。
痛々しい傷は時間が経つにつれてまた薄くなっていき、きれいな真っ白の背中だけが目の前にある。
「誰の仕業か知らないが、悪質だな」
留三郎は苦虫を嚙み潰したような表情で舌打ちをした。
「このことは他言無用だよ。くれぐれも気を付けて」
伊作のその言葉に頷くと、ちょうど朝の鐘が響いた。
「伊作、ありがとう。留三郎と伊作は行ってくれ。私は鉢屋に謝らねばならん」
二人は顔を見合わせ苦笑をすると「わかった」と「がんばれ」の言葉を残して保健室を後にした。
「わかった」はわかったが、「がんばれ」の意味がわからず首を捻るが、細かいことは気にするな、と頭の中で唱えると自分の上着で見えない顔をじっと見つめるのだった。
「…――ん…?」
目を開けると目の前は真っ暗だった。目が開いていないのかと思ったが、ぱちぱちと瞬きをすると何かに目を覆われているのだと気付く。
「なに…?」
微かに覚えのある香りがするそれを掴もうと手を動かすと、体の横で何かが動くのを感じる。
「鉢屋、気が付いたか」
「その声、七松先輩…ですか?」
なんで先輩が?と思いながら目元を覆う布を剥ごうとすると、その手が捕まれ何かを握らされる。
「待て、鉢屋。今のお前は仮面が外れているんだ」
「…っ」
びくり、と全身が委縮する。息がしづらい。
「大丈夫だ。誰も見ていない。私も見ていないから、呼吸を整えるんだ」
「はっ…、は、」
肩に熱い手が回り、ゆっくりと上半身を起き上がらせると、僅かに震えている手をそっと握り、這うようにしか進めない三郎を隣の部屋に押し込む。
「私は隣にいるから、落ち着いたら仮面をつけて出てこい」
ゆっくりでいい、と背中をぽんと叩くと襖が閉められる。
目元を覆っていた布を震える手で剥ぐと、その部屋は真っ暗だった。何も見えない。怖い。
すい、と目を動かすと背後の障子に僅かな隙間があったのか、一筋の線ができていた。そのわずかな光源を頼りに、顔を覆っていた布をみると千歳緑の上着であることがわかった。今朝見た時の汚れがないことから、綺麗な上着であることもあわせて分かり、無意識にその上着を顔に近付けると森林のような土のような太陽のような、自分にはない匂いが心を落ち着けてくれた。
握らされた仮面を手早く付けると背中の障子に手を掛ける。障子を開けたらいつも通りの鉢屋三郎に、戻るのだ。
「ん?落ち着いたか?」
本に目を落としていた小平太は顔を上げる。その顔が光そのもののように見えて、思わず手を伸ばしてしがみつく。
「は、鉢屋?どうしたんだ」
「……貴方は、本当に気が利かない人ですね」
「ん?」
「真っ暗な部屋でどうやって仮面を付けろと言うのですか」
「ああ。すまん、すまん」
今思い出したとでも言うように、しがみつく三郎の頭をまるで子どもをあやすかのように優しく二度叩く。
だんだんと自分のとった行動が恥ずかしくなってきたのか、三郎は顔を上げないまま小平太の胸から顔を離す。
「すみません…取り乱しました」
「細かいことは気にするな。もとはと言えば、わたしが突然声を掛けたのが悪かったんだ。驚かせてすまなかった」
「いえ…お気になさらず」
まだ何か言おうとして開いた口は何も言わずに閉じられた。
しん、と会話のない室内はとても静かでどこかそわそわしてしまう。
こういう時こそ、長次に借りた様々な種類の本の中から良い言葉を引き出せたらよかったのだが、生憎とすぐには出てこなかった。もう少し恋愛の駆け引きがある書物を借りようとひっそり決意した。
「…あの」
頭の中でああだ、こうだ、と考えていると顔を俯けたままの三郎が普段からは考えられないようなか細い声を出す。
「なんだ?」
努めて明るく、続きを促すように声を発する。
「わたしの荷物、できれば化粧道具が欲しいのですが」
「ああ、それならここに。不破が置いていったぞ」
「ありがとうございます」
三郎が寝ている間、代わる代わる五年の面々が訪れた。ある者はとうふを、ある者は書物を、ある者は荷物を、ある者は食べ物を置いて行った。皆一様に「目が覚めたら教えてください」と言い置いて、だ。お前はたくさんの人から愛されているな、と自分のことのように嬉しく思ったのは内緒だ。
三郎の傍に風呂敷を置くと、包みを開け店でも出すかのように様々な物を並べ始めた。きれいなべっ甲の手鏡を見つけると、それを手に持ち三郎を後ろから囲うように座り直す。
「七松先輩?」
「お前が化粧をしているところが見たい」
「はい?―えっと、直すだけなのですが」
「それでもいい。私が手鏡を持つから、思う存分やってくれ」
ほら、と三郎の顔が入るように手鏡の位置を調整する。
「はは、おかしな先輩ですね。では、ありがたくやらせていただきます」
てっきり断られて手鏡を取り上げられて、この腕の中からするりと居なくなるかと思ったが、三郎は笑いながら筆を手に取り化粧を始めた。
「嫌がらないのか?」
「…貴方は、家族以外で唯一、私の顔を見た人ですよ」
貴方は覚えていないでしょうけどね、と断言しながらも筆を持つ手は止まらない。直す必要はないのでは、と思うほど普段の顔だが、三郎はすっすと筆を滑らせる。
ん?ちょっと待て。
「私はお前の本当の顔をみたことがあるのか?」
「ええ」
「いつだ?」
「そうですね、私が一年の時。ちょうど、母が亡くなったと手紙が届いた頃だったかと」
さっき思い浮かべたあの子も、そういえば紙を握り締めて泣いていたのだ、と思い出す。
「だが、あの子は黒髪だった」
「ええ、そうでしょうね。変装していませんでしたから」
「…あの子は、鉢屋だった、と?」
「私はよく覚えていますよ。初めて私に手を差し伸べてくれた方だったので」
筆を置いた三郎は小平太のほうへ向き直り、あの時はありがとうございました、と初めて見る偽りのない笑顔に胸がきゅうと締め付けられる。
塹壕を掘る場所を探している時に見つけた黒髪のあの子は、草むらの中で泣いていた。どうしたのかと聞けば母が亡くなったと涙声で言った。自分の母も病気で寝込んでいたので色々と重なり泣きそうになった。それをぐっと堪えて小さな体をぎゅうと抱きしめた。大丈夫だ、お空からずっと見守ってくれる、そう言うとより一層泣き始めてしまい、泣き声を聞きつけた先生があの子をそっと抱き上げ長屋の方へと歩いて行った。それ以降あの子に会うことはなかった。
「こんな近くに居たのだな」
「ええ。二度目に会った時、貴方は不破雷蔵の格好をした私を鉢屋三郎として認識していたので、私はお礼を言うことができませんでした」
なのでやっと言えました、とせっかく化粧をし直したのにはらはらと涙を流し始めた三郎の頬にそっと唇を寄せれば、化粧道具独特の味にしょっぱい味が混じった。