赤を結んで朝、目覚めると左手の小指に赤い糸のようなものが巻き付いていた。
「………は?」
障子から差し込むやわらかい日差しに掌をかざしてみれば、それはきらきらと陽の光を反射して夢でないことを教えてくれる。
一気に目は覚めたが、昨日の記憶を引っ張ってきても糸を使った記憶は無かった。
いったいどこから、と糸のようなものの先を視線で辿ると部屋の外へと続いているようだった。
「……さぶろ?」
こんなものを付けたまま授業はできないだろうと必死に解こうとするも、不思議なことに糸の始まりが見つけられない。
無意識にうんうんと唸ってしまっていたようで、隣の布団ですやすやと寝ていたはずの雷蔵が目を擦りながら体を起こしていた。
「おはよう。雷蔵、朝からすまないがこれを切ってくれないか?どうにも解けなくてな」
「え? 三郎、これって…どれのこと?」
「私の左手の小指に巻き付いている、赤い、糸…なんだが」
もしや、と不安を覚えてだんだんと語尾が小さくなってしまう。
「糸? 三郎、まだ寝ぼけてるのかい?」
くすくすと笑う雷蔵の反応を見るに、やはりこれは自分にしか見えていないようだった。
「はは、すまない。寝ぼけていたようだ」
見えていないはずなのに、なぜだか左手を雷蔵から隠したくて布団の中へと入れる。その際に外へと続く糸も揺れたのを見てやはりそこに存在しているのだと確信して絶望する。できれば本当に夢であってほしかった。
教室へ向かう途中、どこまでも続くその終着点が気になった。
「そういえば。今朝、三郎が寝ぼけて言っていた赤い糸っていうのが気になって調べてみたんだ。そうしたら、運命に対する希望の象徴とかの意味があったりするらしいよ」
「……運命」
「気になって中在家先輩に聞いてみたり――三郎?」
しかし、雷蔵のその言葉を聞いた途端、そんな気持ちは霧散した。その先に運命が待っているなんて、まっぴらごめんだ。運命なんて、知りたくもない。
「すまない、いつものだ。医務室で休んでくるよ」
「頭痛かい? 先生には言っておくから、ゆっくり休んできて」
「ああ、ありがとう」
本当は頭痛なんて起きていない。雷蔵には悪いと思ったが、一刻も早くこれをどうにかしたくて、踵を返すと来た道を戻る。
医務室に近づいたあたりで裏々山へ方向を変え勢いよく走りだす。なぜか、赤い糸が六年生の居る方へ伸びている気がしたから。気のせい、気のせいだ。
「なんで、私なんだ…」
誰の気配もない森の中。口から零れた言葉は鳥たちのさえずりにかき消された。
ぐい、と唇で咥えて引っ張ると小指との間の糸がぴんと張り詰める。そこへ鏢刀を差し込み糸に刃を軽く押し当てると、プツンとあっけなく切れた。
音もなく地面へ落ちた糸は動かない。小指にまとわりついた糸も取ろうとしたが、何か目に見えないものがしがみついているかのように取れない。薄気味悪いと思い、それにも鏢刀を入れようとしたが、なぜか糸に引っ掛からない。
どうして、と思っていると遠くの方から鐘の音が聴こえたので、慌てて教室へと戻った。
「三郎! 具合大丈夫なのか?」
少し上がった息を整えながら教室へと戻れば、すぐに八左ヱ門がこちらに気付き手を振る。
「ああ、治まったから戻ってきた」
「はい。いなかった授業の分」
「雷蔵、ありがとう。助かる」
雷蔵の隣に座ると、さっそく書き写そうと筆を出したところで「ああ、そういえば」と雷蔵が手を鳴らすのでそちらに顔を向ける。
「どうかしたかい?」
「さっき、七松小平太先輩が」
その名前を聞いた途端、指が戦慄し畳の上に筆が落ちる。
「三郎、大丈夫か?」
「ああ、悪い…、大丈夫だ」
八左ヱ門から筆を受け取ると、心配そうにこちらを覗き込む二人と目が合う。なんでもない、と口許を僅かに綻ばせて視線を送れば、僅かに眉を寄せるだけに留めた二人が同時にため息を零した。それの意味することがわからず小首を傾げていると、八左ヱ門と雷蔵が改めて口を開いた。
「七松先輩が三郎を探してたんだ」
「医務室で休んでいることを伝えたから、会えたかどうか確認したかったんだけど、その様子だと会えなかったみたいだね」
「ぐっすり寝ていたから気付かなかったのかもしれないな」
ははは、と笑ってごまかすが、二人にはきっとお見通しなんだろう。二人はもうそれでいい、と言うと次の授業の準備をし始めたので、自分も書き写すために手元へと視線を戻す。
「あれ? 三郎、左手の小指ケガしてるじゃないか」
「えっ?」
「ほら、ここ。今、紙で切ったのかな?」
「ああ、そうかもしれない」
何してるんだ、と雷蔵は懐から塗り薬を出すとさっと傷があるらしいところへ塗り込んでくれる。自分の目には真っ赤な糸が絡みついて見えるため、傷の有無を確認できないが、さっき鏢刀が触れてできた傷かもしれない。
あの糸がどうなったか気にならないわけではない。が、もうその先を気にする必要はなくなった。それだけでなぜか胸中穏やかになった気がした。
「さて、と」
雷蔵と八左ヱ門が委員会へ向かうのを見送ると、自分も書き写し途中だったのを小脇に抱え教室をあとにする。学級委員長委員会は学園長先生が不在のため休みになった。急ぎの仕事も無いため、誰もいない学級委員長委員会の部屋を借りて作業しよう。そう思っていた。
「鉢屋三郎!」
「……げ」
背後からバカでかい声で名前を呼ばれる。振り向かなくともわかる声は、今いちばん会いたくなかった人物の声だ。しかし、先輩を無視していい道理はない。仕方なく、厭々振り向けば、走って向かってくる七松の左手の傍を赤い何かが揺れているのが目に付いた。
「っ」
咄嗟に自分の左手を見えないように隠すと、ほとんど反射で庭へ飛び出し、脱兎のごとく逃げる。
「三郎! 待てっ!」
「~~~~~待て、ませんっ!」
たかが一年、されど一年。天才と謳われようとやはり一年の差は大きいようで、悔しいことこの上ない。とうとう追い付かれ、左手がみしりと音を上げた錯覚を覚える強さで握られる。
「ぁぐっ」
「………」
七松は何も言わない。ただただ、じっと、鉢屋の左手の小指を雁字搦めにしている赤い糸を見つめている、のかもしれない。ただ、傷を見ているだけかもしれない。
「な、なまつせん…ぱ、い」
言外に手首が痛いことを訴えると少しだけ力が緩まり、ほっとしたのも束の間。
ぐっと七松の方へ引っ張られてたたらを踏んだ。なんとか転ばないようにはできたものの、七松の纏う雰囲気には色々なものが混じり合っているようで下手に声が出せない。
「切ったのか」
「え」
唐突に呟かれた言葉の意味を理解するのに僅かばかり時間を有した。七松がじっと鉢屋の小指を見つめているのを見てようやく理解した。
自分の赤い糸の先に居たのはきっと、だが。
「ええ。煩わしかったので」
「…理由はそれだけか」
「はい。それだけです」
これで、いい。変な期待は、いらない。運命、なんて。
「赤い糸とは、運命に対する希望の象徴なのだそうだ」
「そう、らしいですね」
雷蔵が朝そんなことを言っていた気がする。現に七松も「長次から聞いた」と飛び切りの笑顔で言っている。
「だが、運命だの希望だのはよくわからん」
「ええ」
そら、みたことか。期待なんかしていない。
何も悟られないよう心を無にして、ただじっと七松の目を見つめて話を聞けばいい。
「ただ、この赤い糸を辿って行った先にお前が居ればいい、とは思った」
「ええ―……、は?」
ぽかん、と口を半開きにして七松を見やれば、にかっという擬音が似合いそうな大口を弧の字にゆがめて笑っている。まるで真夏の太陽に向かって咲く向日葵のようだと思った。
「私はお前のことを好いているからな」
「な、にを…いって…? ――わっ」
頭の中で言われた言葉を反芻していると、突然浮遊感に襲われ素っ頓狂な声を上げる。突然のことに呆然としていると、いつの間にか土と草の匂いが入り混じった香りに包まれていて、そこが七松の腕の中であると気付くのに反応が遅れた。
「ちょっ 七松先輩! は、放し――」
「放さん。放すものか」
「こ、んなところ、誰かに、見られたら…」
逃げるのに必死で周囲の確認を怠ったことに今更気付いたが、腕の中からでは確認もできない。誰も通らないことを祈ることしかできない。
「安心しろ。ここは体育委員会の連中しか使わん場所だ」
見てみろと言われ、緩んだ腕の中からそっと顔を出せば、そこは穏やかに流れる川と小さな小屋があるだけの自然豊かな場所だった。空気が澄んでいてとても落ち着く。
「学園内にこんな場所があったなんて知りませんでした」
「体育委員会の活動の一環として自給自足の生活の練習場所だ」
「そうでしたか…」
無意識に詰めていた息をほっと吐き出し、肩の力を抜く。
とくとくと規則正しく動き続ける七松の心臓の音に耳を澄ませていると安心してしまうのは、なぜだろうか。
「おい、鉢屋」
「は、はいっ」
舟をこぎ始めていたのか、突然呼ばれたことに驚いて首がカクンと前後に揺れた。
「す、すみません、先輩に寄りかかったまま」
「いい。細かいことは気にするな。そんなことより」
少し赤くなった左の手首を今度はそっと握った七松は、小指に巻き付いた赤い糸に唇を寄せた。思わず漏れそうになった声を気合で飲み込むと、その様子をじっと見つめた。
「この糸、もう一度結んでもいいか?」
「え…っ、と……」
「嫌なら無理強いはしないぞ。―そうだな。せめて、お前の気持ちを教えてくれ」
「わ、わたしは…」
こちらの内側を見透かすような七松の真っ黒な瞳から視線をはずして、音もなく緩やかに流れる川を見つめながら意を決して口を開く。
「七松先輩、一年の差は大きいですね」
「そうか?」
「ええ。貴方がここを卒業するのももう間近ですよ」
「そうだな」
「此処に居るから、安心して貴方から逃げることができるんです」
「…どういう意味だ?」
七松が首を横に傾けたことにより、後ろでふわふわと揺れていた毛量の多い毛束が七松の肩越しに現れる。
「わたしは此処を出た後の貴方を見つけられる自信がありません」
「これはそのためではないのか?」
七松は鉢屋が鏢刀で切った先を摘まんで左右に振っている。
「そうかもしれません。でも、わたしは貴方を探しに行くことができないかもしれない。逆に貴方が探しに来ても、一緒にはなれないんです」
「なぜだ?」
「そういう家だから、とだけ言っておきます」
家の事情は話せない。だから、なんとなく汲み取ってくれと願うばかり。
「なるほど。鉢屋の家は複雑なのだな」
「ええ、ですから」
「ならば、わたしがお前に仕えれば問題ないな」
細かいことを気にしない七松はあっけらかんとして笑っていた。
「ですが、先輩ほどの腕ならもっといい城から推薦状が届いているはずでしょう」
「城の良し悪しは関係ない。わたしが仕えたいところに行くだけだ」
「でしたら、なおのこと先輩が仕えたいと思うところへ行くべきです」
「だから、そうすると言っているだろう。ほら」
ほら、と言って懐から一枚の書状を取り出すと広げて見せた。
何気なく目で追って、鉢屋と推薦の文字が見えたところで勢いよく目を逸らした。学園内でどこに仕えるかを見聞きするのはご法度だからだ。
「先輩、そういうのは人に見せてはいけないと習ったでしょう」
「身内に見せる分には問題ないだろう」
「そういう問題では…」
細かいことは気にするな、といつもの調子で笑って目の前に再び現れた紙を仕方なく最後まで目を通す。性格に似合わないバランスの良い字で書かれた名前と指印、それに見覚えのある花押を見つけてため息を吐く。
「もう決まったことなのですね、おめでとうございます」
「なはは、お前が安心できる場所を作って待っているぞ」
ぎゅうと苦しくも緩くもない絶妙な力加減の腕の中にまた安心する。
ずるい。やはり一年の差は大きい。
「それで?」
「?」
腕の力が弱まり、七松がこちらを覗き込む。
「まだ問題はあるか?なければお前の気持ちを聞かせてくれ」
「………......わたしも、好いています」
「そうか!よかった!」
わたしの負けだ。この人の前ではどんな卑屈も太陽の光でもって焼き尽くされることだろう。
「ならば、これ結び直してもいいか?」
「七松先輩に任せたらどうなるかわからないので、わたしがやります」
わたしの独断で切ってしまった糸。先輩の気持ちも聞かずに勝手に切ってしまった糸。朝方見た時は無かった糸の始まりと、切った後から見えなくなっていた糸の先が、今はきちんと見える。
七松から七松の糸の先を受け取ると一重、二重、三重と結び、最後は男結びにする。
「そんな念入りにしなくても」
「…念入りに結べば、来世も期待できるかもしれないじゃないですか」
こんな世の中だ。今日とも知らず、明日とも知らず。いつどちらが倒れてもおかしくない。そんな時代だからこそ、今を謳歌するとともに来世に期待しても罰は当たらないだろう。
言ってから恥ずかしくなって顔を七松の胸元に押し付ける。
「はは!いいな!それなら運命に対する希望の象徴も信じてみる価値はある」
「七松先輩?」