にれくんにぞっこん!/すおうさんにぞっこん!【にれくんにぞっこん!】
祭囃子のなかに、浮かれている人々の声が混じる。それらが耳をくすぐり、蘇枋の心にも移っていく。
いや、きっと正確にはそうではない。蘇枋の隣には、浴衣姿で恥ずかしげに頬を染めた楡井が歩いていた。いつもの元気いっぱいな様子とは少し違い、うつむきがちだ。人の波を避けるために身体を寄せると、互いの手の甲が触れる。そのたびに楡井の肩はおおげさに揺れた。
よかった、オレだけじゃない。
蘇枋はこっそりと息を吐いた。以前にも風鈴のみんなと夏祭りに行ったが、今日は楡井とふたりきりだった。あたりが暗くなるにつれて、屋台の灯りが眩しく感じられた。それに応じて人の数も増え始めて、この様子ではいつ楡井がはぐれてしまうか分からない。蘇枋はもっともらしく自分の中で理由をつけたが、ただ楡井と手を繋ぎたかった。
「……にれ君、手、繋いでもいい?」
口の中が乾いて、言葉が掠れてしまった。蘇枋の声に下を向いていた顔が、ぱっと上を向く。楡井の表情は暗がりでも分かるくらいに、紅潮していた。それだけでなく、彼の瞳は提灯のやわい光を反射して輝いて見えた。その様子が、蘇枋には彼も同じ気持ちだと言っていると捉えた。急かすのは良くないと分かっているが、その目をじっと覗き込む。楡井は小さく顎を引いて、肯定を表した。
手の表面が触れるだけだったところを、蘇枋は楡井の顔を見ながら手を差し出す。楡井もおそるおそる蘇枋の手に重ねた。きゅっと指を重ねて、喧騒の中でもはぐれないようにする。暑さからか、それとも緊張からか、楡井の手はしっとりとした熱さを感じた。蘇枋にとってはそれが心地よくて、握った手の親指をそっと撫でた。
しばらくすると、デートよりも夏祭りの雰囲気に気分が高揚したのか、楡井は普段の調子を取り戻した。そういえばお腹空きましたね、と言って屋台の焼きそばを食べて、かき氷を食べて、りんご飴をかじっていた。途中で、蘇枋さんも食べますか? と聞かれたが、楡井を見ているだけで、楽しい雰囲気を味わえたので遠慮した。はじめのぎこちなさを感じないくらい、夏祭りをふたりで満喫した。すっかり暗くなり、あと少しで時刻は夜八時になる。その頃には屋台がある通りは人であふれていて、歩くのも難しいくらいだった。ほとんど誰もいない脇道に逸れて、楽しそうに頬を緩める楡井に向き合う。
「今日って花火上がるんでしたっけ?」
「うん、あと少しで上がるはずだよ」
「楽しみですね! ここなら見えますかね〜?」
人のいる通りから外れたからか、楡井の声が耳によく馴染む。弾むような彼の声色に、蘇枋の心はきゅっと締めつけられる。
――君とふたりきりで花火を見られるのが、こんなにも嬉しいなんて。
そのとき楡井は何かを見つけて、あ、と声を出す。何か忘れていたことを思い出したみたいだ。
「どうかしたの?」
「い、いえ! もうすぐ、花火始まるんすよね……?」
蘇枋はどうしたものかと、楡井の顔が向いている方に自分も顔を向ける。視線を辿ると、わたあめが並んでいる屋台があった。
もしかしたら、彼はあのわたあめが食べたいのかもしれない。白くてふわふわとやわらかい、あのかわいらしいお菓子は楡井によく似合っていると思う。
「……まだ少し時間あるから、オレ買ってこようか?」
夜の闇の中でも明るく輝く表情に、抑えきれずもごつく口元に、なんて分かりやすいのだろう? 思わず笑みがこぼれる。彼のためならいくらでもおつかいをしよう。
「……ぁ、でも、蘇枋さんに行ってもらうのは悪いです。オレ行ってきてもいいですか……?」
「遠慮しなくてもいいのに」
「オレが食べたいので……!」
「そう? じゃあ、ここで待ってるね。気をつけてね?」
「……お、オレのこと何歳だと思ってるんすか……⁉︎」
「ふふ……っ、ごめんね。にれ君がかわいくてつい、ね」
項を赤くした彼は、わたあめの屋台へと大きな歩幅で向かう。そんなにしたら、浴衣がはだけてしまうからいけない。戻ってきたら彼に教えなければ、ほんの少しの下心が混ざった頭で考えていたら、ひそひそと色めきだった声が耳に入る。
わたあめの屋台とは反対の方から、熱烈に突き刺さる視線を感じる。それは覚えのある感情を携えていて、やっぱり楡井と一緒に行くべきだったと後悔する。声を掛けられる前に立ち去り、彼の元まで向かおうか、一歩足を踏み出す。そうすると、すかさずその視線の持ち主、浴衣で着飾った女の子たちに話しかけられる。ひとりが話すと、もうひとりは蘇枋の目の前に立ち、進路を塞がれる。
「お、お兄さん、おひとりですかぁ?」
「あの、よかったら、一緒に花火見ませんかっ?」
細い手で頬を隠しながら、嬉しそうに話す声は高く響いた。きっとこの子達は、楡井と一緒にいるところを見ていたはずだ。それなのに、思いもしないことはないけれど、それよりも今、この瞬間を楡井に見せたくはない。蘇枋はいつもの微笑みを浮かべて、ほんの少しだけぴしゃりとした冷たさを声に混ぜる。
(続)
【すおうさんにぞっこん!】
太陽の熱を吸収して熱くなった砂浜を勢いよく楡井は駆ける。向かう先はパラソルの下、海に来ているのに海水に触れるとしおれるという蘇枋がそこで荷物番をしていた。
今日は風鈴高校の何人かで、海に来ていた。楡井も水着に着替えて、桜や柘浦たちと浅瀬で遊んでいた。蘇枋と桐生は海に入るのを遠慮して、みんなの荷物をみていてくれた。その桐生も海の家へと涼みに行ったようで、そこにいるのは蘇枋ひとりきりだった。
「蘇枋さん、荷物ありがとうございます!」
「ううん、にれ君楽しそうだね」
「それはもうっ! 楽しいっすよ!」
「オレも、ここからにれ君のこと見てるだけで楽しいよ」
「……え、あ……す、すおうさんっ!」
周りに誰もいないからか、蘇枋の言葉が恋人同士の甘さを含んでいて、楡井は顔が熱くなるのを感じた。それを振り払うように、蘇枋の名前を呼び、ひとつ提案をする。
「……あ、あの、ちょっと来てほしいところがあるんですけど、いいっすか? あ、海には入らないので安心してください!」
「うん、ちょうど桜君たちも戻ってくるみたいだし、ここも大丈夫そうだね。いいよ、行こうか」
肯定の言葉が聞けて、よかったと安心する。楡井にはせっかくだから蘇枋にも海を楽しんでほしい、そんな思いがあった。そうと決まればさっそく案内しようと、身体の向きを変えたところで蘇枋に待って、と声をかけられる。なんだろう? と振り返ると、手にTシャツを持った蘇枋はにこりと微笑んでいた。
「にれ君。泳がないなら、行く前にこれを着ようか」
「……え? あ、ありがとうございます?」
少し大きなそれを頭から被せられる。よく分からないけど、蘇枋に従ってTシャツに袖を通した。別に水着のままでもよかったのに。Tシャツを着た楡井を見て、満足そうにしている蘇枋を見たら、まぁいいかと、Tシャツの理由は聞かなかった。
「あ、足元気をつけてくださいね⁉︎ って、あいた……」
「にれ君こそだろう? 怪我、してない?」
蘇枋に案内したのは、海に入っているときに見えた、海水浴場の端の方だった。特にそこは太陽の光がキラキラと反射して見える場所で、海からの漂流物が多いと感じられた。そこで、桜たちと海で遊びながら楡井は陸地で待っている蘇枋のことを思った。
砂浜をふたりで歩くことなら、海水がダメな蘇枋も大丈夫かも知れない。あとは……ロマンチストかもしれないけど、蘇枋と付き合って初めて過ごす夏だから、一緒に海を楽しみたかった。
「す、すみません! 大丈夫っす!」
「本当……?」
「はい! そ、それより……ここ、キラキラしてるのが見えたんすけど……。でも、近くで見るとあんまりですね………」
目の前の光景は思ったものと違い、楡井はしゅんと肩を落とした。海から見たときは綺麗だと思ったのに、近くまでくると、その砂浜にはたくさんの貝殻が落ちているだけで、とても綺麗とは言えそうになかった。蘇枋にも、あの光景を見てほしかったのに……。
「にれ君」
「……はい? すみません、戻りましょうか」
「ここ、見てごらん。輝いて見えたのは、たぶんこれだろう」
蘇枋はしゃがみ込んで、砂浜に手を伸ばす。そこには角が取れた、ほんの小さなガラスのカケラがあった。
「シーグラス、別名人魚の涙っていうんだ」
「素敵、ですね……!」
「うん、それにこれ……にれ君の瞳の色みたいで綺麗だ」
蘇枋がそれを太陽にかざすと、光が反射する。その輝きは海から見た綺麗な光景と重なる。気をつけてね、とシーグラスを受け取り、手のひらに乗せた。そうするとさっきよりも眩く見える気がして、目の前の蘇枋を見る。楡井を見つめるその眼差しは、優しくて、熱くて、一気に顔中が赤くなるのが分かった。
それにきっと、このシーグラスが特別輝いて見えるのは、蘇枋からもらったからだ。それなら……蘇枋にも、彼の瞳の色のシーグラスを渡したい。
今の熱くなった気持ちを隠すかのようにしゃがみ込む。楡井は一生懸命砂を掻き分けて、目的のものを探し始める。
「にれ君? 素手だと危ないから……」
「あ、すみません! お、オレも……シーグラス見つけたいなと!」
そのとき耳が割れそうなほど、大きな泣き声が聞こえてくる。声の方を振り返ると、女の子がひとり、わんわんと泣きじゃくっていた。立ち上がったとき視界の端に、きらりと赤く光った何かが見えた。
「ど、どうしたんですか?」
女の子の近くに慌てて寄り、視線を合わせる。周りを見渡すも、楡井と蘇枋とその子以外近くには誰もいない。そのあいだにも大粒の涙が止まらない様子だ。蘇枋も隣に来て、彼女のことをじっと見つめ、優しく微笑んだ。その瞬間、女の子の涙はぴたりと止まる。それはまるで魔法みたいで、自分に向けられたものではないのに、蘇枋の笑顔に楡井はどきりと心臓が跳ねた。
「もしかして、はぐれちゃったかな?」
「だ、だれかと一緒に来たんですか?」
(続)