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    犬小屋

    らくがきより雑ならくがきを上げるかもしれない

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    犬小屋

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    シドめきメモリアル(ストーリー版)をちょっとずつ足して行くかもしれない。大丈夫?サーモン食べる?
    (続くかもしれないし面倒でやめるかもしれない。)

    完全に遅刻だ!
    8時40分、息を切らしながら目を遣った左腕のGショックは無機質に閉門の時間を告げていた。脚を限界まで動かしているのに思ったように前に進めない、もう諦めて歩いていこうかとビルドは脚を停め

    「ふぁううーひほふうー!」

    ドカッッッ!!

    何を言っているのか、ものを口に詰め込んだような棒読みのうめき声とともに右半身に衝撃が走った。顎が殴打され目の前にちかちかと星が飛ぶ。右肩がゴキュッと出してはいけない音を出して鎖骨の先から力無くぶら下がる。痛い。口のなかに血の味が広がる。吹っ飛ばされてガードレールに左脇腹を強かに打ちつけて形容し難い不気味な音を聴いた。全てが異様にゆっくりと動いているように見える。
    曲がり角から飛び出してきた学ランを着た黒髪の少年は、おそらくビルドの顎を殴打したであろうキングサーモンを咥えたまま駆けていく。すぐに小さくなっていく背中に、ビルドは声を上げることも手をのばすこともできずに見送るしかなかった。目の前が滲む。キングサーモンが殴打した顎が生臭い。痛い、熱い、命が危ない。

    なんで…

    薄れていく意識の端で、黒ぶちメガネの会社員らしき女性が吸いかけのゼリー飯を口から噴き出しながらなにか叫んでいる。

    キングサーモン…

    音が遠い。車に轢かれたんじゃない、キングサーモンに轢かれたんだと説明しようとするが顎ががくがくしてうまく説明はできなかった。赤いランプが明滅して数人の人影が忙しなく視界を動き回る。
    意識を手放す寸前、走り去る少年の小さな背中が目の前でちかちかと瞬く。黒い髪の、黒い学ランの、キングサーモンを咥えた…

    ネコチャ…

    ───────────

    目を覚ますとカーテンに囲まれた白い天井が見えた。薬っぽい清潔な匂いがして、酸素マスクや包帯やテープで固定されて窮屈な視界でぐるりと周りを見渡す。あちこち痛むが死んだわけではない様子に、ビルドは眉をしかめて安堵の息を吐いた。
    点滴の管に繋がれて動かせない左腕の先に握らされた呼び出しボタンを押し込むと、すぐに担当らしい看護師と医師がカーテンの向こうから現れる。
    右顎の骨折、右肩の脱臼、左肋骨の複雑骨折。大変だったねぇと感心するように言う医師の言葉はどこまでも他人事で、喜んで良いのか怒ったほうがいいのかわからないがどちらにしろヒビが入ったという顎の骨折のせいで顔が腫れて返答もままならない。つらつらと語られる診断内容を聞き流し、枕に頭を預けたままひと仕事終えて立ち去る彼らを見送った。
    ひとり病室に残されると、嘘のような今朝の出来事を思い出してビルドの中にふつふつと怒りが込み上げてくる。
    あのキングサーモンはなんだったんだ?!いきなり飛び出してきて!ぶつかったのにこっちを見もしないでどこかへ行っちゃうし!そもそもなんで生魚咥えて飛び出してきたんだ?!?危うく死ぬところだった!!
    行き場もなく口のなかをもごもごと暴れまわる怒りと疑問を咀嚼しているとカーテンの向こうで病室の扉が勢い良く開いた、音がした。
    「今朝は悪かったなポンペ、急いでたんだ」
    快活に言う声は、謝っているというのに全く悪びれる様子はない。
    「な、なんでアンタがいるんだよ!」
    隣のベッドだろうか、驚きにひっくり返った声が上がる。
    「ケンカ売ってきたオマエが悪いがいくらなんでもボコボコにしすぎたと思ってな、大丈夫か?」
    大丈夫じゃないから病室に居るんじゃないだろうか。
    「大丈夫じゃない!」
    ほらね。
    「まあオレは強いからな!」
    憤慨する隣人に快活な声はどこ吹く風と笑っている。随分賑やかな病室に入れられてしまったとビルドは痛む顎を擦りながら小さくため息をついた。
    「そんなに怒ると傷に響くぞ、ほら、食べかけだけどサーモンやるから」
    ごそごそと鞄かなにかを漁る音を聴いて一拍遅れてビルドはベッドから飛び起きた。
    「………!?!」
    身体中に激痛が走り声にならない悲鳴を上げる。
    「ぎゃああぁぁ!!!なんだよソレ!なんで鞄からサーモンが出てくるんだよ!!臭っ!生臭い!!いらない!!」
    隣人も別の意味で悲鳴を上げる。
    「いらないのか?うまいぞ?」
    阿鼻叫喚とはこういうことを言うのだろうか、ビルドは震える手でそっとカーテンを掴んで隣のベッドを覗き見た。
    黒いツンツン頭、黒い学ラン、背中部分をごっそり食べ…どうやって食べたの?齧られたような跡のあるキングサーモンを尾びれの辺りで鷲掴みにした少年は、間違いようもなく今朝ビルドを轢き逃げした少年だった。キングサーモンの鋭利な中骨が包帯でぐるぐる巻きにされている隣人に突き刺さりそうなほど押し付けられて悲鳴は止まらない。ビルドだって悲鳴どころではない、一言でも文句を言ってやろうと勢い良くカーテンを開いてベッドから身を乗り出した。
    「おあえへあふっっあへはああぉっっっ」
    めちゃくちゃ痛い思いをして口に出したにも関わらず人語にならないうえに最後まで言えなかった。痛みで涙が滲む。ベッドでうずくまるビルドに黒髪の少年は眉を顰めて動きを止めた。
    「……だ、大丈夫かオマエ……看護師呼ぶか……?」
    や、優しい…
    恐る恐るビルドの顔を覗き込む少年をキッと睨み返すとサイドテーブルの学生鞄から大学ノートとペンを引っ張り出して殴り書く。
    『けさきみにひかれたすごくいたいししゃべれない!』
    少年の眼前にノートを突き出してもう一度目に力を込めて睨んでみせた。
    「な、なんだ?呪文か?」
    走り書きした勢いだけの文句はうまく伝わらず、少年は困惑の表情で首をかしげる。
    だから、きみが食べてたキングサーモンが…!
    どう状況を説明したものか、考えれば考えるほど頭の中は疑問符で一杯になる。少年の方も頭の上に疑問符を並べているようだ。言葉でなく図説したほうが早いのかもしれないと思い直しビルドはノートにざかざかとペンを走らせる。曲がり角に棒人間とキングサーモン。図説にしても訳がわからない。少年はビルドの頭の上から興味津々と覗き込んでくる。
    「ほえ…」
    一応、と珍妙な絵面を少年に向けると、その目は驚きに見開かれた、否、キラキラと輝いていた。
    「すごいな!絵、上手なんだな!」
    拍手でもしだしそうな手放しの褒め言葉に、責めよう思っていた手前少しばかり居心地が悪くなる。走り書きのページをいそいそと閉じると少年があっと声を上げた。
    「その絵、もらっちゃだめか…?」
    ノートを鞄に片付ける手を、思いの外力強い手が掴んでどきりとする。期待に輝く少年の目があんまり綺麗な色をしているから怒っていたはずのビルドの方がいっそ申し訳ない気持ちになってきてしまう。
    気は進まないながらも少年にこっくりと頷いて見せると、半ばまで鞄に突っ込んだノートを緩慢な動きで再び引っ張り出し、走り書きのページを切り取って差し出した。
    「いいのか?ありがとう!えっと、ビルド!」
    鞄の名札に目を落としてビルドの名前を見つけると、少年はもう一度ありがとうと言って屈託の無い笑顔を輝かせる。
    「オレはシドーだ。よろしくな、ビルド!」
    「オレはポンペって言うんだ、よろしくビルド」
    シドーの背後から包帯の隣人が顔を覗かせて片手をあげた。
    「うるさいぞポンペ。ビルドの傷に響くだろ」
    呆れたように言いながらシドーは宝物でも手に入れたようにページを丁寧に折って自分のノートに挟んで仕舞い込むと、ビルドのベッドの端にそうっと腰掛けた。固いマットレスのスプリングが小さく音を立てて沈む。
    「なんでオレにはそんなに冷たいんスか!」
    「オマエ、オレにケンカ売ってきたこと忘れたのか?」
    それは自業自得と言うやつだ。
    涙目のポンペを軽くあしらうシドーにビルドも同意を示してこっくりと頷いて見せる。
    「ちゃんと事情があるんス!聞いてほしいっスお二人とも!オレ好きな子がいるんスけどその子がパパより強くて優れた男になったら付き合ってあげるって言ってて!けどその子ヤ○ザの娘なんスよぉぉぉ!それで手近なところにいたちょっと強そうなシドーさんにケンカ売ったんスよ!」
    「ビルド、もっと絵描いてくれよ。でっかい木とか、強そうなモンスターとか、カッコいい城塞とか!」
    泣きながら捲し立てるポンペの魂の叫びなど聞こえていないかのように目を輝かせてシドーが身を乗り出す。わくわくするお題にビルドも片付けたノートを三度取り出してペンを握った。
    「オレの話聞いてくださいっス!!」
    「うるさいって言ってるだろポンペ。ビルドが集中できない」
    さらさらと微かな音を鳴らしながら紙の上に広がっていく世界を、シドーは額がくっつきそうなほど近くで夢中になって眺めている。
    ポンペに邪魔をするなと言うわりにシドー自身があんまり近くて、真っ黒い長いまつ毛や切れ長の鋭い目もと、褐色の額の柔らかそうなうぶ毛まで横目で見えてしまって、邪魔と言うほどでもないがビルドはどうにも落ち着かない。
    「だから、オレをシドーさんの舎弟にしてほしいっス!」
    意を決したようなポンペの叫びにビルドとシドーは揃って顔を上げた。
    「ひゃへい?」
    「シャテイってなんだ?トモダチのことか?」
    「そうっス!!」
    首を傾げたシドーにポンペは間髪入れずに力強く頷く。
    「なんだオマエ、トモダチになりたかったのか。いいぞ!」
    舎弟をトモダチと言うかは微妙なところだがシドーはよくわからないまま無邪気に笑っている。ポンペの話はまるで聞いていなかったがガッツポーズをしているところをみると納得の終結を遂げたらしい。
    ビルドはノートの落書きに戻って、シドーもビルドの隣に戻る。ポンペもベッド脇に椅子を持ってきてペンを走らせる手もとを見守る。落書きが描き上がるまでの間だけ、ようやく病室らしい静けさが訪れた。
    ────────

    「ビルドはすごいな、なんでも描けるんだな」
    空いっぱいに太い枝を広げた大樹、金ぴかの逞しい腕を見せつけるように振り上げた強そうなモンスター、たくさんの兵器を備えた難攻不落の城塞。描き上げた絵にシドーが感嘆の声を漏らす。彼の裏表のない言葉に、ビルドは素直に照れ笑いを浮かべて上手く動かない口でありがとうと応えた。ページいっぱいに描いた空想の世界を切り取ってシドーに渡すときらきらの瞳がこぼれ落ちそうなほどまあるくなる。
    「これももらっていいのか?」
    もちろん、とビルドが深く頷いて見せるとむず痒そうに唇をむにゅむにゅとにやけさせながらありがとな、と小さくこぼした。窓から差し込む夕日のオレンジが白っぽい病室をどこか知らない世界に染め上げるようで、金色の光を弾く褐色の頬に、髪に、眩しくなって目を細める。ビルドの視線に気づいたシドーとひた、と目が合った。本当に一瞬、気づかないほどの短い時間に胸の辺りがぎゅっと苦しくなった気がしてシドーは手に渡った絵をすぐさま彼の鞄のノートに挟み込み、ベッドを揺らして勢いよく立ち上がった。
    「悪い、オレ塾行かなきゃならないんだ、絵、ありがとうなビルド」
    「!」
    今にも駆け出しそうに足踏みするシドーをあわてて学ランの裾を掴んで引き留める。
    『ひまならまたお見舞い来て』
    急いでビルドがノートに書いた文字を見せると、今度はちゃんと伝わったようでシドーはビルドの頭にぽんと手を置いてにっと笑う。くりくりの丸い目で見上げてくる様子が犬のように見えて、そのままぐしゃぐしゃにしたくなるのをぐっと堪えるとシドーはその手を挙げてひらりと振ってみせた。
    「そのつもりだぜ。またな!」
    今度はビルドも手を振り返して、走って病室を出ていくシドーを見送る。廊下から、走っていることを咎める声が上がった。
    「なんか真っ直ぐしか見てないって感じのひとっスね」
    急に寂しいくらい静かになった病室でポンペが一人言のように呟いた。一拍置いて、自分に話しかけてるんだと気づいたビルドがこっくりと頷いて見せる。
    「ビルドさんてなんで入院したんスか?交通事故とか?ケンカ……しそうには見えないっスけど」
    ポンペも充分ケンカしそうに見えないよ、と軽口を返したいところだが、生憎今は軽口ひとつ交わすことにもすこしばかりの時間が掛かる。
    『キングサーモンくわえた黒猫にひかれた』
    余計なことは特に書かずに見せると、ポンペが訳がわからないと間抜けた顔をする。ビルドにも訳がわからない状況だったのだから仕方ない。
    「キングサーモンくわえる猫って虎かライオンじゃ……あ」
    なにかを察したポンペが憐れむような目線を投げ掛ける。やめてくれ。
    「……ビルドさんやさしいっスね……」
    悪気があったわけでも命を失くしたわけでもない、シドーが極悪人でわざとぶつかってきたと言うなら許しがたいが、本人はただ急いでいただけでぶつかったことに気づいてすらいない。これを許さずに恨んだところで不毛でしかないんだろうと思えば猫に噛まれたものだと思って諦めもつく。
    頭を抱える事と言えば学校の授業を受けられないことだろうか。いや、顎の骨折の事ではなく。中三の秋。受験生のビルドにとって大事なこの時期に1ヶ月近く学習内容から置いていかれるのはとても痛い。折れた肋骨の事とかでもなく。病院から連絡が行っているらしいから終業後には担任がプリントの山を持ってきてくれるはずだが、それで足りるだろうか。
    「難しい顔してどうしたんスかビルドさん」
    ビルドとは対照的にのんきな顔でポンペが笑っている。
    『きみシドーと同じ学校?私立?』
    突きつけるように向けたノートの唐突な質問に、ポンペは丸い目をさらに真ん丸くしてわずかに身を引く。
    「そうっスけど……」
    『進学校だよね?勉強教えて』
    シドーが着ていた学ランは近隣でも偏差値が高い事で有名な私立中学のものだった。同じ中学に通っているなら、公立のビルドの教科書より広い範囲か進んだ授業内容かもしれない。有無を言わせない強い視線でノートを突きつけるビルドと走り書きを交互に見つめ、断れない意思を悟ったポンペはがっくりと諦めたように頷いた。
    「勉強熱心なんスね……」
    自分の教科書とノートをビルドのベッドテーブルの上に広げながらポンペがため息混じりにサボれると思ったのに、と小さな不満をこぼす。そう言いつつも筆記具を取り出している様子を見る限り勉強嫌いというわけでもなさそうでビルドはそっと胸を撫で下ろした。
    『きみも受験生じゃないの?』
    椅子に座っていては届かないからとビルドのベッドに登り向かい合って座ったポンペに、ノートの端に書いた文字をペン先でコツコツと指し示す。
    「そうっスけどオレは付属高校行くんス」
    ビルドと自分の教科書をぱらぱらと見比べながらポンペはビルドさんは?と目線で問い返す。
    『建築高専、隣街の』
    「えぇぇ……専門知識なんてわかんないっスよオレ」
    さすがに専門知識まで教えてもらおうとは思っていない。ポンペもそれはわかっていてなんかそれっぽい、という理由で数学の教科書を選んで開いた。
    『推薦はほとんど決まってる大丈夫、授業遅れたくないんだ』
    「真面目っスねー。あ、ここら辺までなら教えられるっス」
    ポンペが示したページはビルドが勉強したところより少し先だ。頷いて公式をノートに写し始める。ガラス戸越しに外の雑音が聞こえるだけの病室は時々交わされる走り書きとぽつぽつと応えるポンペの声すら静かだった。
    少しずつ夕暮れの名残が光をなくしていく。病室に無機質な蛍光灯が点された頃に、ようやくビルドの担任がお見舞いだと言って束になった各教科のプリントとお中元のようなゼリーを持って顔を出した。大きな声で笑う担任はいくらか言葉を交わしたところで替えの点滴を運んできた看護師に追い出されてしまったが、たぶん明日も見舞いに来るのだろう。ビルドは静かに手を振って見送った。

    ─────────────

    入院生活は思っていた以上に退屈だった。テレビは談話室にあるだけだったし、いつも相撲か時代劇。本も小難しいものや興味を引かれないもの、触っただけでページが散りそうなボロボロの絵本ばかり。点滴が取れても担当医に絶対安静を口酸っぱく言われていて、時々売店に降りる以外は日々消化しては増えていくお見舞いという名の宿題にポンペを付き合わせるくらいしかやることがなかった。
    「オレは勉強大好きって訳じゃないんスから毎日誘ってくれなくても良いんスよビルドさん」
    ベッドテーブルを挟んでノートに英文を写しながらポンペが不満気に口を尖らせる。スマホは病室では禁止だし、ゲームは早々にクリアしてしまった。頻繁にお見舞いが来るわけでもない。
    「ポンペも暇だろ?」
    ようやく腫れが引いて動くようになった口でビルドが応える。他に人の居ない大部屋での2人だけの会話は妙に室内に反響して寂しいものだった。
    「暇っスけど……オレ明後日退院するんで明日までっスよ」
    ノートにアルファベットを並べる手を止めてポンペがぽつりとこぼす。少し言いづらそうに言ったのはビルドの退院が来週までであると知っているからだろう。
    「お見舞い待ってるよ、ぼくそろそろジャンクフードとか食べたいなぁ」
    「もうちょっと別れを惜しんでも良いんじゃないっスか?」
    たしかに入院生活が長いだけあって担任やクラスメイトが見舞いに来る回数が減ったなかでポンペという話し相手は貴重だった。しかし一週間、その話し相手が居ないからといって今生の別れを告げるような深刻な顔をするポンペよりはビルドの神経も細くない。細くはないが、また来ると言ってまだ一度も病室を訪れてくれないシドーの笑顔は目の奥でもう何度も繰り返し思い出していた。
    「あ、ポテトはLサイズで」
    「パシりじゃないっスか!」
    幻覚を振り払うようにビルドがへらりと笑って見せると大袈裟に眉をつり上げるポンペの肩越しに病室のドアが勢いよく開いた。
    「よぉ、久しぶりだなビルド、ポンペ」
    言いながら、つい二週間前に初対面を果たした二人を見舞うとは思えない気安さで病室を訪れたシドーは、定位置とでも言い出しそうな迷いのない足でビルドのベッドの端に腰かけた。
    「……シドー?」
    たった今振り払ったばかりの幻覚が目の前に戻ってきたのかと目を瞬く。
    「なんだ?」
    言葉の先が続けられなくてくちびるがコイのようにはくはくと空を噛んだ。にっと犬歯を見せて笑ったシドーの顔が、徐々に不思議そうに顰められていく。混乱する脳でどうにか声を出そうとビルドは喉を震わせた。
    「……暇だったの?」
    シドーが見舞いに来てくれたことをよろこぶ気持ちとは裏腹に転がり出た言葉はずいぶんと素っ気ないものだった。視界の端でポンペが丸い目をさらに丸くして、シドーを待って不貞腐れていたくせにどの口が言うんだと訴えてくる。後生だから言わないでおくれ。当のシドーは目をぱちぱちさせて困ったようにりりしい眉を八の字に下げた。
    「邪魔だったか?」
    ビルドの言葉には答えずにシドーが首を傾げてみせる。
    「邪魔なワケないっスよ!ね!」
    気まずくなりそうな病室の微妙な空気を察したポンペは、テーブルの上の教科書もノートも丸めて捨てる勢いで鞄に押し込んでビルドに目配せをしながらあっさり帰りそうになるシドーを引き留めた。
    「そうなのか?」
    「そうっス!ビルドさんもおれもシドーさんが来てくれるのずっと待ってたんスよ!」
    そうは言っても口を開くのはポンペばかりでビルドはなぜだか赤くなったり青くなったりと顔色が悪い。
    「具合悪いんじゃないのか?」
    「そそんなこととないよホラしゃべれるし体も動かせヴッ!!……すごく元気だよ」
    再び首を傾げたシドーにあたふたと身振り手振りでアピールをしたビルドは、両手を上げて伸びをしたところ不穏な声をあげる。顔を歪めてゆっくりと蹲りながら誤魔化すように笑ってテーブルの上の教科書を鞄に押し込むとビニールに包まれた真新しいらくがき帳を取り出した。
    「きみが来たら、いっしょに絵を描こうと思って売店で買っておいたんだ、えっと、時間あるかな…」
    「今日は大丈夫だ、塾が休みなんだ」
    少しずつ小さくなっていくビルドの言葉に乗り出すようにしてシドーがぱっと目を輝かせる。
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