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    鮭野おむすび

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    鮭野おむすび

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    八月新刊の一話目です。サンプル代わりに置いておきます。

    禁欲生活一週間目 杏寿郎の突然の禁欲要請の一週間目が終わろうとしている。特に何事もなく平穏に過ぎていきそうなことに炭治郎はほっと胸を撫でおろした。
     いくらスキンシップが多いとは言っても、そこは社会人同士だ。特に教師とパン屋という職業柄、時間が合わないことはざらにある。特にこの一週間は二人共仕事が忙しく、余計なことを考える時間がなかった。
     幸い、と言っていいかどうかはさておき、来週以降も食パン等の予約が多く入っている。次のシーズンに向けて新作パンの構想もしなければならない。考えることがたくさんあるのは今の炭治郎にとってはありがたいことだった。
    これなら、一か月我満するのも意外と平気かもしれないな、等と考えながら、炭治郎はその日の仕事をこなしていった。

    「遅くなっちゃったなぁ」
     この日は閉店まで仕事をしてから売り上げの集計や翌日の準備などで帰宅が二十時を過ぎてしまった。自宅マンションのエントランス前から自室のある方を見上げると、ベランダから部屋の灯りが漏れていた。今朝、杏寿郎は定時で帰宅すると言っていた。遅くなると告げると夕飯を作って待っていようかというので丁重にお断りしたやりとりを思い出して、自然と顔がほころんでしまった。緩んだ口元をさすって、周りに誰もいないのを確認すると、炭治郎はオートロックを解除してマンションに入った。
    「ただいまぁ」
     玄関の扉を開けて、中に入る。だが、家にいるはずの杏寿郎から「おかえり」という返事はなかった。滅多にないが、こうして炭治郎の方が後から帰ってくると、必ず出迎えてくれていたのに。
     どうしたんだろうと不思議に思いながらも靴を脱いで廊下を歩き、リビングに入ると、そこは無人だった。明かりも暖房もついているし、杏寿郎の靴もあったので家の中にはいるのだろう。
    「……トイレかな?」
     まぁいいや、と思いつつも鞄と上着をソファに置いて、手洗いとうがいをするため洗面所に向かう。
     明日の仕事の内容を頭の中で反芻しながら扉を開けると、突然目の前が真っ暗になり何か弾力のあるものが顔にぶつかった。この感触には覚えがある。これは…
    「炭治郎!おかえり!出迎えられなくてすまなかったな!」
     自分よりすこし高い位置から降って来たのは、愛しい恋人の声。その声にはたと顔を上げると、そこにはまだ濡れた髪をタオルで拭いてる杏寿郎がいた。そう、つまり顔にぶつかった暖かく弾力のあるものは、まだ服を着ていない杏寿郎の胸筋だったのだ。
    「ああああっ杏寿郎さん!なんて格好してるんですか!」
     杏寿郎は下着も身に着けていない。風呂上がりの姿としては至極真っ当ではあるのだが、些か刺激が強すぎる。
     恋人の突然の裸体に驚きのあまり狭い洗面所で後ずさりした炭治郎は、背中をしこたま扉にぶつけた。取っ手で腰を強打してズキズキと痛いが今それにかまってはいられない。
    「せっせめてパンツを穿いてくださいっ!」
    「下着を持ってくるのを忘れてしまってな。今取りに行こうかと思っていたんだ」
    「なら、タオルくらい巻いてくださいよ!なんで肩にかけてるんですか!」
     炭治郎の言葉に、杏寿郎はきょとんとした顔で首を傾げた。
    「いや、俺しかいないからいいかと……」
    「そっ、それはそうですけど……」
     炭治郎がガックリと肩を落とすと、杏寿郎はまるで悪戯を思いついた子どものようににやりと笑うと、炭治郎が背にしていた扉に手を着いた。
     扉と杏寿郎に挟まれる形となった炭治郎は、暗くなった視界に顔を上げた。
    「杏寿郎さん?」
    「俺の裸なんて見慣れているだろうに。いつまで経っても初心だなぁ、君は」
     杏寿郎は裸のまま炭治郎にぐいぐいと迫ってくる。足の間に己のそれを入れ込むと、炭治郎の顎をくいと持ち上げた。
    「ちょ、杏寿郎さん、止めて……」
    「ん?なんでだ?」
     杏寿郎はすっ呆けたように言うと、炭治郎の唇に己のそれを近づける。触れ合うか触れ合わないかぎりぎりとのところで止めてまた顔を離すと、意地悪そうににんまりと笑ってみせた。
     この人はつい数日前に自分が言い出したことを忘れてしまったのだろうか。いや、そんな訳はない。だって、彼からはとても楽しそうな匂いがするのだから。
     自分を揶揄って楽しんでいるのだと理解するのに、そう時間は掛からなかった。
     酷い。自分からひと月もの間触れ合うことを禁止したくせに。
     炭治郎は沸々と湧き上がってくる怒りを鎮めることができなかった。人に対してこんなに怒りが沸いたことは未だかつてない。それも、最愛の人であるこの人に。
    「……いてください」
    「ん?」
    「どいてくださいって言ってるんです」
     いつもの炭治郎からは想像できない低い声。杏寿郎をぎろりと睨みつける目は、普段の丸く可愛らしい瞳とはまるで違い、鋭く尖っていた。
    「……ごめん」
     杏寿郎は思わずそう呟くと、炭治郎から素早く離れ、その腰にいそいそとタオルを巻いた。
     その様子を冷ややかな瞳で見ていた炭治郎は、大きなため息を吐いてさっさと洗面所を出ていった。
     その様子を、杏寿郎はただ呆然と見送るしかなかった。



     さて、どうしたものか。
     寝室にあるクローゼットから下着と肌着を取り出して着替えを済ませた杏寿郎は、未だ怒り冷めやらずといった様子でソファにじっと座る炭治郎にどう声をかけるべきか、扉の前に立って考えあぐねていた。
     自分の裸を見て恥ずかしそうに狼狽える炭治郎が可愛らしくて、つい揶揄ってしまった。
     怒らせたのは紛れもなく自分なのだから、謝らなければならないのは当然なのだが。
     炭治郎が高校を卒業した直後に付き合い始めてからもう五年近く経つ。今まで喧嘩がなかったわけではない。だが、ここまで怒った炭治郎を見るのは初めてだった。
     いつもは杏寿郎が何かをやらかしてしまっても「仕方ないですねぇ」と笑って許してくれていたというのに、今日の炭治郎は今まで見たこともないくらい怒っている。
     兎に角何かきっかけを作らねば、と杏寿郎はそっと炭治郎に近づいた。
    「炭治郎、腹は減っていないか?帰りにな、いつものスーパーで総菜を買ってきたんだ。炭治郎が美味しいと言っていた唐揚げもあるぞ!」
    「いりません」
     にべもなく断られてしまった。これはまずい。
     杏寿郎は炭治郎の前に立つと、両手を広げてみせた。
    「たっ炭治郎、ほら、もう服着たから……」
    「服を着るのは、現代社会に生きる人として当然だと思いますが」
     炭治郎は杏寿郎を一瞥することもなく答えた。駄目だ、完全に拗ねている。
     もうこれは、素直に謝るほかに道はない。
     杏寿郎はそっと炭治郎の前に膝を着くと、その手をぎゅっと握りしめた。
    「炭治郎……揶揄ったりして悪かった。ごめん」
     そう言って下げた頭を、杏寿郎はすぐに上げることはできなかった。炭治郎の手を握りしめていた手に、知らず力が入る。その手を、炭治郎が反対の手でそっと包んだ。思わず顔を上げると、まだ怒っているような、でも少し笑っているような複雑な表情で、杏寿郎をじっと見つめていた。
    「……杏寿郎さんが言ったんですよ。ひと月触れ合いなしって」
    「うん、そうだな」
    「なのに、あんなことするなんて、酷いです」
    「全く持ってその通りだ。すまん、調子に乗った」
     もう一度頭を下げると、炭治郎は「もういいですよ」と言って杏寿郎の髪を撫でた。
    「お腹空いちゃいました。晩御飯、食べましょうか」
     そう言って微笑む炭治郎の顔はすっかりいつもの通りに戻っていた。


     杏寿郎が買ってきた総菜と買い置きのインスタント味噌汁、そしていつも多めに炊いて冷凍してあるご飯。それが今日の晩餐だ。
    「本当にすまなかったな、炭治郎」
     杏寿郎は食べていた箸を止めて炭治郎にもう一度頭を下げた。
    「もういいですってば。ほら、食べてください」
    「いや、本当に悪かった。詫びになんでも一つ言うことを聞こう。何でも言ってくれ」
     頭突きでもなんでも受け入れる、と言う杏寿郎は、もう覚悟はできているといった顔で額を突き出している。
    「いや、頭突きはしませんけど……じゃあ、ひと月禁欲やめるとかって……」
    「それはやめない!」
    「えー!なんでも言うこと聞いてくれるんじゃなかったんですか!」
    「それとこれとは話が別だな!」
     杏寿郎は並んだ沢山の総菜の中から、唐揚げを取って炭治郎の取り皿に置くと、自分も一つ取って大きな口を開けて放り込んだ。目を閉じて咀嚼する顔は、声に出さずとも「美味い!」と言っているような、なんとも満足気な表情だ。
    「この間も思いましたけど、杏寿郎さんちょっと酷くないですか……」
     もぐもぐと咀嚼する杏寿郎を恨みがましい目でじとりと見る。そんな炭治郎の目線に気づくと、杏寿郎は口の中のものを一気にお茶で流し込み、箸を置いてふうとため息を吐いた。
    「俺と言うものがありながら、他の男と連絡先を交換している炭治郎の方が酷いだろう!」
     その言葉に、炭治郎はあれ?と杏寿郎を見た。
     表情はいつもと変わらない。匂いも勿論、いつもの良い匂いだ。でもほんのりと別の匂いが混じっている気がする。これはもしかして。
    「杏寿郎さん、もしかして結構前から拗ねてます?」
     炭治郎がそう言うと、杏寿郎の肩がびくりと震えた。先程までのすました表情は何処へやら。ぼっと音が出そうになるくらい一気に真っ赤になった顔。それを見られないようにふい、とそっぽを向いたその耳も頬と同じくらい赤い。
    「……愛しい恋人が男に言い寄られたんだぞ。平然となどしていられるか」
     ぽつぽつと話す小さな声は、普段周囲から「声帯にマイクがついてる」と評されるほど大きな声で話す彼から出ているとは思えない程だ。
    「君が男に告白されただけでも腸が煮えくり返りそうだというのに、君は自分に気がある男に連絡先を教えたんだぞ!君に何かしてもらわねば、気が済まない!」
     まるで駄々をこねる子どもの様に頬を膨らませる。つい一か月ほど前に三十路になったいい大人だというのに、可愛いと思ってしまうのは惚れた欲目だろうか。
    「それで、ひと月禁欲なんて言ったんですか」
    「それくらいしないと割に合わん!」
    「ええ……」
    「だから絶対にやめない!」
     この話はこれで終わりだ、と言わんばかりに、杏寿郎は再び箸を取って夕食の残りを無言でがつがつと食べ始めた。
    「で、決まったか?」
    「え?何がですが?」
    「詫びになんでも一つ言うことを聞くと言ったろう」
     そう言われて、炭治郎はそういえばそんな話をしていたんだった、と思い出した。話が逸れてしまってすっかり忘れていた。
    「うぅん……そうですねぇ」
     もう怒っていないし、特にしてほしいこともないのだが、どうやら杏寿郎はそれでは気が済まないようだ。
     さてどうしたものかとしばし考え、炭治郎はふとあることが頭に浮かんだ。
    「あっ、じゃあ禁欲している間、俺に裸を見せないでください」
     また先程のようなことがあっては、我慢できるものもできやしない。それだけ炭治郎にとって杏寿郎の裸体は魅力的なのだ。
    「絶対に、着替え忘れないでくださいね!」
     そう念を押すと、杏寿郎はこくりと小さく頷いた。
    「肝に銘じておく。また君が怒ってしまってはことだからな」
     杏寿郎はそう言うと、いつの間にかすっかり空になっていた皿を丁寧に重ねて立ち上がった。炭治郎の分もさりげなく持って、キッチンに運ぶ。
     シンクの前に二人で並び、杏寿郎が食器を洗い、炭治郎がそれを布巾で拭く。一緒に暮らし始めた当初からこの役割分担は変わらない。
    「さて、君が風呂に入っている間、俺は書斎に籠ることにしよう」
     全て洗い終わって濡れた手をタオルで拭きながら、杏寿郎は言った。
    「え?何かお仕事あるんですか?」
     今はそんなに仕事が立て込んでいないはずだ。今日だって定時上がりで帰ってきたのに、と炭治郎はきょとんとした顔で杏寿郎を見た。
     そんな炭治郎ににっこりと笑ってみせると、杏寿郎はその耳元にそっと口を寄せた。
    「万が一君の裸を見てしまったら、俺も自制できるか怪しいのでな。それでなくとも風呂上がりの君は些か刺激が強い」
     小さな声でそう呟くと炭治郎の頭をぽんと軽く叩いてキッチンを出ていく。
    一人残された炭治郎は、まだ杏寿郎の声の余韻が残る耳元を押えてしばらく立ち尽くした後、大きく息を吐いた。
    「耳元は、反則ですよ……」
     そんな炭治郎の声が今頃書斎に籠っているであろう杏寿郎に届くはずもなく。


     こうして、前途多難な禁欲生活一週間目が終わったのであった。
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