【末川】ケーキバース~前編~俺は甘い物が好きだった。
もう10年以上前に口にした甘味を思い出しながら、ゆっくりと角砂糖を口に運ぶ。
ザラザラと口の中で形を崩し、唾液と体温でドロドロに溶けるそれは、常人に例えると「砂」を口にしているような感覚でとても美味しいとは言い難い。
とはいえ、糖分を取るという面では「フォーク」も「普通の人間」も変わりないようで、頭の回転が早くなるという理由でいつからか角砂糖を持ち歩くようになっていた。
俺は壁にかかっている時計を確認する。
時刻は午前7時半。
今日は看守の研修初日だったが、少し早く来すぎたらしい。
小さな会議室にコの字に並べられた机の1番奥の席に座る俺には、部屋の冷房の微調整しかやることがない。
「甘いもの、食べたいなぁ……。」
そう呟きながら角砂糖をもう1つ口に運び舌の上で転がしていると、扉を挟んで話し声が聞こえてきた。
内容を察するに研修を担当する先輩と、同じ研修を受ける仲間のようだ。
ガチャリという音と共に会議室の扉が開くと、水色の看守服を着た男が1人俺の方を見て優しく微笑む。
「おはよう!今日はよろしくね!」
温和な雰囲気の男だが、金色の胸章が彼が看守長であり、俺たちの指導役だと語っている。
「お、おはようございます。」
椅子から立ち上がり頭を下げると、空いた扉から部屋に入ってくる暖かい空気が俺の鼻をくすぐった。
(…………甘い、香り……!?)
俺は咄嗟に頭をあげる。
水色の服を着た男はやや驚いたような表情で俺を見る。
(違う……この人じゃない。)
空いたドアに目を向けると、大きなダンボールを抱えた人物が部屋に入ってきた。
「山中さん、これはどこに置けば?」
「あ、前の机に置いていいよ!川上くん、ありがとう。」
「いえ、力仕事は得意ですので。」
川上と呼ばれた男はゆっくりとダンボールを置くと額の汗を軽く拭う。
俺の黒い制服とは違い、桜色の綺麗な制服をまとった男。
メガネの奥の水色の瞳が俺の姿を捉えると、俺の隣の席までやってきて腰掛けながら話しかけてくる。
「初めまして。俺は川上。」
「あ……俺は末次、よろしく。」
「よろしく。」
川上が動く度、話す度、甘い香りが鼻腔を刺激する。
握手を求め差し出してきた川上の手を見つめながら、俺は生唾を飲み込んだ。
(コイツだ……。)
重く甘い香りに、まるで酒に酔ったかのような心地良さを感じながらゆっくり川上の手を握り返す。
「あは、すごい汗。」
俺の手汗にデリカシーなく突っ込みを入れた川上は苦笑を浮かべたが、俺の手をしっかり強く握り返した。
幼少の頃、突如発症した「フォーク」の症状は俺の人生の楽しみを奪い取った。
「苦味」も「酸味」も「うま味」も「塩味」も……全ての味を奪われ、誰よりも「甘味」が大好きだった俺にとってそれは死も同然だった。
しかし、そんな俺たちにとって唯一の希望と言えるのが「ケーキ」と呼ばれる存在。
見た目も生活も普通の人間と全く変わらない……しかしフォークにとってはケーキの匂い、体液、身体そのもの……全てが甘美に感じるという。
「───ッ……すみません!御手洗行ってきます!」
俺は川上の手を離すと横をすり抜け、勢いよく部屋の外へ飛び出す。
廊下を駆け抜け、人目の付きにくい階段下まで来ると壁に背中をあずけ、もたれかかった。
荒い呼吸を整えながら考える。
(まさか、こんなところでケーキと出会うなんて……。)
俺は川上と握手した右手を見つめる。
確かに俺は緊張して手に汗を握っていたが、川上だって重い荷物を運んできたのだ。
額の汗を拭っていた川上を思い出しながら、俺は恐る恐る自分の指先を舐めた。
「───ッ!!」
衝撃が走る、とはこのことだろう。
色を失った世界が一瞬で輝きを取り戻すように、長年眠っていた味覚が目を覚まし、川上の味が俺の脳を刺激する。
(俺がずっと求めていた味……いや、それ以上に……)
「……はは、甘い……甘いや……!」
自然と笑みがこぼれる。
俺は床にしゃがみこむと大きくため息をついた。
失望ではない、これは感嘆のため息だ。
俺は再び指を口に入れようと思ったが、直前で我に返る。
例えフォークとケーキだとしても、今の俺は初対面の男と握手した手を舐めている変態だ。
俺は大きく深呼吸を繰り返す。
「落ち着け……落ち着くんだ、俺。」
ケーキと出会ったフォークが、欲を抑えきれずケーキに危害を加える……という悲惨な事件は後を絶たない。
その影響で、フォークは恐ろしい存在だというのが世間の認識だ。
自身がフォークだと知られることはデメリットが大きく、もちろん俺も家族以外に明かしていない。
対して、ケーキはフォークと出会うことがなければ自身がケーキだと認識しないまま生を終えることもあるのだという。
川上だって、自身がケーキだと知らないかもしれないのだ。
「…………よし。」
俺は立ち上がり、来た道を折り返す。
看守ともあろう人間が、欲に負けて同僚を食い殺すなんてこと、絶対にあってはならない。
川上は……大切な仲間だ。
会議室の扉を開けると、再び甘い香りが俺の中に入ってくる。
一瞬立ち止まった俺を見て、山中は心配そうな表情を浮かべた。
「末次くん、大丈夫?体調が悪かったら無理しないでね?」
「いえ……大丈夫です。すみませんでした。」
俺は軽く頭を下げると、平常心を装い元の席へと座った。
「末次……。」
声に顔を向けると、川上は少し気まずそうに話し出す。
「俺……初対面なのに、末次に少し失礼なこと言ったかと思って。すまなかった……。」
「あー……いや、失礼なことしてたのは俺の方だから……。」
首をかしげる川上に「こっちの話」と頭をかいて誤魔化す。
「大丈夫だよ、川上。気にしてないから。」
「……ありがとう。」
ホッとしたように微笑む川上に、自分も軽く微笑み返すと始業のチャイムが鳴り響いた。
「あ……始業の時間ですね。」
川上の声に山中はやや困ったかのように微笑む。
「……始めないんですか?」
「いや、それが……。」
困ったように頬をかく山中に、俺と川上は揃って首を傾げる。
「……あと一人いるんだけど…………来ないね。」
机に並べられた研修用の資料は三部。
俺達は沈黙の中、互いに目を見合わせた。