つくづく、噂は噂でしかないのだと思う。
「あれが噂の?」
「宰相の一人娘の…」
「生まれつき身体が弱いそうね」
「精神も病んでいるとか」
「変人を通り越して狂人だと聞いたわ」
「あれでは政略結婚にも使えない」
「いくらお父上に実力があってもね」
「とんだお荷物……」
「学院には厄介払いで来たとか」
お荷物なことには違いないけれど、私の両親は確かに私を愛していた。
この学院に来たのも、療養の目的もあってのことだった。
自然も豊かで、敷地も広い。好きなことをして自由に過ごしても誰も叱らない。
退屈なほど……、
入学してしばらくは、私に媚びへつらう子もたくさん居た。
蠅のようにたかってくるのが煩わしくて、全員追い払ったけれど。
周囲から離れていっても、騒々しさは消えなかった。
「あの森に居た──ジャスミンって猫、最近見かけないな」
「……やっぱり、『晩鐘』が捕まえて殺しているんじゃないか?」
「そういえばこの前も、……」
「……」
もしそれが本当なら、いっそ彼に殺された方が世のためになるのかしら。
人間の解剖なんて、早々できないもの。
ちらりと、遠目にサークル棟を見る。
彼の部室はあの棟の地下にあるらしい。
しかし、サークル棟の近くは色々な生徒で賑わっている。
「(とてもじゃないけど、近づきたくはないわ)」
だからこうして、川辺を歩く。
この時間帯は各々好きなことをしているから、このあたりには人が少ない。
川のせせらぎと、鳥の囀り、草木が揺れて、虫が鳴いている。
その音に合わせて、意味のない空っぽの歌を歌う。
足元に咲く美しい花々を摘み取っていく。
それを編みながら、でも渡す人なんていないのだと気付く。
「……やっぱり、厄介払いだったのかもね」
突然の胸の痛みに呼吸が詰まり、思わず身体を縮め座り込もうする。
足元の泥濘が、私の身体を川へと放り投げた。
ぐらりと視界が回転し、冷たい水が身体を包んでいく。
手元を離れた花々が川を流れていく。
言うことをきかない手足を動かすことを早々に諦め、私は小さく笑った。
遠くで、時計台の鐘が鳴る。
そういえば、時計台には幽霊がいるのだっけ。
私も、新しい謎として永遠に学院内を彷徨うのかしら。
……なら、このまま歌い続けた方が劇的かしら。
くすくすと笑う。
水を含んだ布は重く、ゆっくりと身体が沈んでいく。
目を閉じて、水に身を委ね、何処かで聴いたマザー・グースを歌う。
──冷たい。
呼吸ができなくなっていることに気付いて、自分の身体が完全に沈んだのだと理解した。
私はこのまま溺れて死ぬのだろう。
けれど、私の予想は大きく外れた。
温かい両手に抱きしめられ、私は池のほとりへと連れ出されたのだ。
数度咳き込み、その姿を捉えた。
灰色の髪を濡らして、疲労の滲んだ表情の彼──「晩鐘」がそこにいた。
「あはは、ふふ……っはぁ、ふふふ……」
よりにもよって、私を助けるのが彼だなんて。誰が想像できたかしら。
それが酷く可笑しくて、私は堪えきれず笑ってしまった。
「誰もいないと思っていたの、私」
「まさか、あなたに助けられるなんて……思いもしなかったわ」
彼は驚いたように目を見開いて、言葉に迷うように視線を揺らした。
悪いことをした子供のようで、それもなんだか可笑しく思えてしまう。
「あなた、『晩鐘』でしょう?」
「小動物を捕まえて解剖しているって噂だったのに。ふふふ…」
「……」
それまで困惑していた彼の表情は、すぐに怪訝な表情へと変わる。
不快感や嫌悪感を隠す気のないその態度は、いっそ新鮮で、彼はとても素直な性格なのかもしれないと思った。
「あら、怖い顔」
「私を助けてくれた王子様はどこへ行ったのかしら?」
「……僕は、そんな器じゃない」
「でも助けてくれたでしょう?」
「……なんで、君はあんなところにいたんだ?」
ああ、きっと彼は……私の噂を知らない。
知っていたらきっと、気狂いの女のすることだと誰も疑わないもの。
「あの池、人が少なくて居心地が良いの」
「だから川辺を歩いて向かっていたら、途中で落ちてしまったの」
「……そう」
「だとしても、その……もう少し、驚いたり……抵抗するものじゃないの?」
やっぱり、噂は噂でしかないのだわ。
彼はきっと、とても……とても、優しい人だもの。
「……助けてくれる人なんていないと思っていたから」
「暴れて藻掻き苦しむなんて惨めでしょう?」
「それなら歌でも歌って、全てを委ねて沈んでしまった方が素敵だと思ったの」
「……」
「狂ってると思う?」
「……そこまでは思わないよ」
「ふふふ」
安心感からか、ふっと身体の力が抜ける。
心はどうしようもなく踊っているのに、身体はそれに耐えられないみたい。
「早く寮に戻ったほうが良い」
「そうね。……少し、はしゃぎすぎたみたい」
ふらつく足をなんとか動かそうと、一歩踏み出す。
どうして私の身体は、私の思った通りに動いてくれないのだろう。
「……僕が運ぶよ」
差し伸べられたその手には、なんの下心も感じられない。
こんな純粋な優しさを向けられたのは、いつぶりだろう。
──私、彼に惹かれているわ。
温かな体温は居心地が良くて、ゆっくりと瞼を閉じる。
しがみつけば、嗅ぎ慣れていない薬品の匂いがした。