あの日、生態観察のためにサークル棟の裏手にある小さな池へと、僕は川沿いを歩きながらゆっくりと向かっていた。
この時間なら生徒も少なく、騒々しくないのが気に入っていた。
でもその日は、虫や鳥たちの声に混じって、遠くから歌が聴こえた。
誰かいるのだと理解して、もう少し後に来ようと踵を返そうとした時だった。
大きな水音がして、思わずそちらを見た。
そこに、彼女は浮かんでいた。
水中で彼女の長い髪が広がり、衣服がゆっくりと水に沈んでいった。
彼女は抵抗することなく、ただただ虚ろな瞳で空を見上げていた。
そして無知で無邪気な子供のように歌い続けた。
その光景は、何処かで見た絵画のように美しく、危うい儚さを含んでいた。
僕は、見惚れていた。
彼女の歌声が水中へと飲み込まれたあたりで、僕は我に返った。
慌てて池に飛び込み、水の中でぐったりとしている彼女を抱きかかえ、池のほとりへと連れて行った。
彼女は数度咳き込んだ後、酷く可笑しいと言わんばかりに笑いだした。
「あはは、ふふ……っはぁ、ふふふ……」
「誰もいないと思っていたの、私」
「まさか、あなたに助けられるなんて……思いもしなかったわ」
どう反応すべきか悩んでいる僕を横目に、彼女は続けた。
「あなた、『晩鐘』でしょう?」
「小動物を捕まえて解剖しているって噂だったのに。ふふふ…」
「……」
彼女の言葉に、一気に疲労感がこみ上げてきた。
やはり他人と関わるのは苦手だ。不快感が増していく。
「あら、怖い顔」
「私を助けてくれた王子様はどこへ行ったのかしら?」
「……僕は、そんな器じゃない」
「でも助けてくれたでしょう?」
「……なんで、君はあんなところにいたんだ?」
僕の質問に、彼女は少しだけ放心し、すぐに答えを口にした。
「あの池、人が少なくて居心地が良いの」
「だから川辺を歩いて向かっていたら、途中で落ちてしまったの」
「……そう」
「だとしても、その……もう少し、驚いたり……抵抗するものじゃないの?」
「……助けてくれる人なんていないと思っていたから」
「暴れて藻掻き苦しむなんて惨めでしょう?」
「それなら歌でも歌って、全てを委ねて沈んでしまった方が素敵だと思ったの」
「……」
「狂ってると思う?」
「……そこまでは思わないよ」
「ふふふ」
彼女は満足げに笑い、水を吸ったスカートの裾を絞る。
その手が少し震えていることに気付いた。
見れば、彼女の唇は紫色で顔は酷く青ざめていた。
彼女があまりにも楽しそうな声で会話を続けているから気付かなかった。
「早く寮に戻ったほうが良い」
「そうね。……少し、はしゃぎすぎたみたい」
彼女は一歩踏み出すのもやっとというような、危うい足取りで歩き出す。
先ほどよりも呼吸は荒くなり、顔色は悪くなる一方だ。
なんとなくだけど、彼女は自分の弱みを表に出すのが苦手なのかもしれない。
そんなことを思った。
「……僕が運ぶよ」
僕が手を差し伸べれば、彼女は小さく頷いて軽口を叩くのをやめた。
しがみつく彼女の腕の力は弱く、浅い呼吸を繰り返していた。
そこから寮までは沈黙が続いた。
サークル棟の横を通る時、妙な視線と僕たちに向けた噂話が聞こえてきた。
彼女が何者かを知ったのはその時だった。