思いがけぬ褒美紫鸞は両手一杯の書簡を、曹操の執務室へ届けに向かった。
いつも通り厳しい表情をした主君が、机に向かっている姿を想像していたが、声をかけて入室するとそこには、眉間に皺を寄せ、頭を押さえながら目を瞑っている曹操がいた。
「曹操、どうかしたのか?」
抱えていた書簡を近場の机に置き、紫鸞は心配そうに駆け寄り声をかける。
「いつもの頭痛か?」
「いや、此度は気分が悪くてな……」
曹操は普段の強い口調ではなく、かすれた声でそう答えた。
「休んだ方がいい」
そういうや否や曹操の腕を取り、迷わず執務室に併設された仮眠室へ誘導し、そっと寝かしつけた。
体温が伝わる距離で、自然と手が曹操の腕に触れたとき、紫鸞の心臓は早鐘を打つ。
(こんなにも、曹操のそばにいるだけで心がざわつくなんて……いや、今はそんなことを考えている場合ではない)
高鳴る鼓動は気に留めず、寝台の横の椅子に腰掛ける。
「……君主のあなたにしか、出来ないことがたくさんあることは分かっている。でも、ちゃんと休んでほしい。あなたの代わりには、誰もなれないだから・・・」
小さく、しかし真剣な声で言いながら、紫鸞はそっと曹操の手を握った。
曹操は眉をひそめながらも、やがて唇を緩めて小さく吐息を漏らす。
「すまぬな、世話をかける」
紫鸞は首を横に振った。
「元化に薬を処方してもらおう。きっとすぐ良くなる」
紫鸞がそう言うと曹操はさらに眉をひそめ、子どものように口を尖らせる。
「確かに、あやつの薬がよく効くことは知っているが・・・いささか苦すぎる」
思わず笑みをこぼしそうになるが、紫鸞は真剣なまなざしのまま曹操を見つめる。
確かに元化の薬はよく効く。よく効くが、その分とても苦いことは紫鸞も身をもって何度も経験している。
しかし体調が優れない曹操に、1日でも早くよくなって欲しい。
どうにかして飲ませたい−
紫鸞は少し考え、頬を赤くさせながら耳元で囁いた。
「……ちゃんと薬を飲んでくれたら、ご褒美あげるから…」
その瞬間、曹操の目が一変しギラリと光る。
しばしの沈黙のあと、彼はくつくつと笑い声を漏らした。
「……紫鸞の口から、そのような言葉を聞けるとはな」
低い声に、紫鸞の頬がみるみる赤くなる。
「な、何だ……大袈裟な」
「いや、大袈裟ではない」
曹操は寝台に横たわったまま、真剣なまなざしを向ける。
「いつも、私ばかりがお前を求めてばかりだからな。だが今日は……紫鸞の方から約してくれた。それが、嬉しく思う」
普段は強気で人を圧する曹操が、まるで少年のような笑みを見せる。
胸の奥が温かくなり、紫鸞は視線を逸らして呟いた。
「……早く良くなってもらいたいだけだ」
「ふむ、それでも良かろう。元化を呼んでくるが良い。だがその褒美の約……ゆめゆめ忘れるでないぞ」
唇の端を上げすっかり上機嫌となった曹操に、紫鸞は小さく肩を落としながら、元化を呼びに行くため執務室を後にした。
残された曹操は、寝台の上で目を閉じながらも頬の緩みを抑えられずにいた。
「……紫鸞の褒美、か。ふ……実に良い」
曹操が「その言葉、ゆめゆめ忘れるでないぞ」と愉快そうに笑ったとき、
紫鸞は胸の奥がきゅっと熱くなるのを感じて、思わず視線を逸らした。
(……あぁ、やっぱり軽率だった。あんなこと言うんじゃなかった……)
(でも、あの人が少しでも楽になるなら……俺は、別に……)
唇に熱が集まるような感覚に思わず首筋を押さえて、紫鸞は顔を赤くした。
(ご褒美、なんて……いったい俺に、何をさせるつもりなんだ……)
足早に部屋を出ていきながら、胸の高鳴りは一向に収まらなかった。
頬を赤らめながら「……と、とにかく元化を呼んでこなければ」と言い訳のように呟き、自分の鼓動の速さをごまかすように足早に元化がいるであろう部屋に向かった。