蜘蛛の糸最近、紫鸞は妙な感覚に苛まれていた。
調練中、剣の動きを確認しながら他の将と会話していると、ふと視線を感じる。思わず肩に力が入り、視線の先を見ると曹操が黙ってこちらをじっと見つめていた。
軍議でも同じことが起きた。
荀彧や郭嘉から意見を求められ、分からないながらも辿々しく答えていると、背中に突き刺すような視線を感じ、自然と手が止まってしまう。
目を向ければ、曹操の視線がじっと紫鸞を射抜く。その視線には単なる監督の眼差しではない――独占したい、手放したくないという熱が宿っていることに、紫鸞はまだ気づいていない。
(……何か不手際があっただろうか?)
胸の奥がざわつく。声を掛けられたわけでも、何か言われたわけでもない。ただ、視線だけで心を揺さぶられる――それが、曹操の嫉妬だと知らずに。
軍議が終わり皆が退室する中、紫鸞は書簡をまとめながら席を立とうとした。
すると、荀彧が軽く手を挙げて声をかける。
「紫鸞殿、今度また一緒に食事でもいかがでしょうか?」
続けて郭嘉も微笑みながら言う。
「良い店を見つけたんだ。きっと紫鸞殿も気に入るはずだ」
さらにカクが、やや挑発的に言葉を重ねる。
「軍議のことだけじゃなく、たまにはゆっくり話でもどうだい?」
「そうですね。最近、無名殿とはご一緒できていませんからね」
荀攸が腕を組みながら、うんうんと頷く。
紫鸞は少し困ったように苦笑いし、なんとか言葉を選びながら答えた。
「ああ、また今度、ぜひ」
そのやり取りの間、曹操の視線が常に背後から紫鸞を射抜く。
軍師たちの軽やかな言葉にも、表情は冷たく、眉間には微かに皺が寄る。
紫鸞が軍師たちに微笑み返すたび、熱を帯びた視線が突き刺さる。
(……また、俺を見ている……)
胸の奥がぎゅっと締めつけられるように熱くなり、紫鸞は咄嗟に目を逸らした。
紫鸞が書簡を抱えて退室しようとしたその時、背後から低く落ち着いた声が響いた。
「紫鸞、少し残れ」
一瞬、追加の命令かと思い振り返る紫鸞。
曹操は冷静な表情で座っているだけで、何も言わずじっとこちらを見つめていた。
(……ただの指示じゃない、何かある…)
軍師たちはその様子を見ても特に怪しむことなく、静かに退室していく。
紫鸞は小さく息を飲み、早鐘のように打つ心臓を押さえつつ、ゆっくりと曹操の方へ歩み寄った。
「…何か自分に任務でも?」と尋ねると、曹操は近くに座るよう促す。
斜め前に座ると、曹操はふっと眉をひそめ短く吐息を漏らす。
「いや、指示ではない。軍師たちとは、随分と親交を深めているようだと思ってな…」
その声には冷たさはなく、どこか熱を帯びた重みがある。
「まぁ…その、色々と気にかけてもらっている。時折、食事にも誘われるし…」
質問の意図を図りかねる紫鸞は、視線を逸らしつつしどろもどろで答える。
「そうか…」
机についた腕に頭を預け、目を閉じた曹操は何かを考えているようだった。
そしてゆっくりと顔を上げ、紫鸞の視線を真っ直ぐ受け止める。
「……紫鸞よ。私のものになれ」
紫鸞は一瞬目を見開き、鼓動が跳ねるのを感じる。
(……どういう意味だ?)
慌てながらも、とっさに口を開く。
「……既に、あなたの麾下にいるが?」
小さく苦笑いを浮かべながら、少し照れ隠しのように目を逸らす。
曹操はふっと唇を緩め、低く笑い声を漏らす。
「そうではない。軍の麾下ではなく……恋人として、我がものとなれと言っているのだ」
途端に紫鸞の顔は真っ赤になり、思わず口ごもる。
「な、なっ……いや、それはっ……!」
曹操の低く落ち着いた声に心臓が早鐘を打つ紫鸞は、必死に言い訳を探す。
「そ、それは……俺は、ただの無官の者で……身分も、官位もないし……!」
赤く染まる頬を自覚しながら視線を逸らす。
「身分が気になるなら私が与えよう。無官を理由にするなら、いくらでも官位を用意してやる。お前の功を鑑みれば、誰も文句は言うまい」
曹操の視線は、逃げ場のない鋭さで紫鸞を捉える。
紫鸞は息を呑み、反論の言葉を探すが言葉は喉の奥で止まる。
「そ、それは……」
(……も、もう、言い返せない……!)
言葉が喉に詰まったまま、紫鸞は口をもごもごと動かす。
俯き、長いまつげの影に赤く染まった頬を隠すようにして、必死に心を落ち着けようとする。
(……あぁ、どうしてこんなことに……!)
頭の中で言い訳を探すも、曹操の鋭い視線が逃げ場を許さない。
その沈黙を破るように、曹操は静かに立ち上がると、紫鸞の後ろに回り、肩に両手をかける。
その手の重みと温もりに、紫鸞は思わず肩を強くすくめる。
「紫鸞よ……私から逃げられると思うでないぞ」
低く落ち着いた声が耳元に届き、頬をかすめる息遣いに紫鸞の心臓は一瞬で跳ね上がる。
慌てて振り返ると、至近距離に曹操の顔。息がかかる距離に思わずのけぞるが、顎をしっかり掴まれ逃げ場はなく、口付けを交わされる。言葉も息も奪われ、紫鸞の身体は小さく震えた。肩から胸元を滑る曹操の手に、思わず肩を強く引き寄せる。
(……こんなに、俺の体が反応するなんて……!)
顔の熱さと胸の高鳴りに、心臓が早鐘を打つ。必死に抵抗しようとするが、抗えない自分に驚き、混乱する。
主君を突き飛ばすわけにもいかず、のけぞるしかできない紫鸞の体をあざ笑うかのように、曹操はさらに深く口付けを重ねる。
片手で胸当ての留め具を外そうとし、低く「……邪魔だな」と呟く。
「ちょ、やめっん!」
口付けによって言葉は封じられ、紫鸞の鼓動だけが耳に響く。鎧が外され指先が肩から胸元をなぞり、首元の中衣に差し込まれる。その温もりが胸の奥にまでじんわり伝わる。思わず息を詰め、背筋が電流に打たれたかのように震える。
「そ、曹操っ……ちょ、あっ!」
「ほう、感じているのか?」
甘い声を漏らす紫鸞を、曹操の猛禽のような目が捕える。
「……このまま全て解いてしまおうか?」
「や、やめっ!」
耳元に落ちる吐息が、背中に小さな震えを残す。指先の温もりが胸の奥に熱を伝え、全身をじわじわ侵す。
「我がものになるまでは、脱がしはせぬ」
低く響く声が胸の奥まで刺さり、首筋に微かな痛みと熱を残す。
「覚悟しておくが良い、我が紫鸞」
首筋に顔を埋めた曹操の熱を意識するたび、紫鸞の心臓はさらに早鐘を打つ。
呼吸は荒く、頭では抗おうとするのに、身体は正直で曹操の手と唇に抗えない。
耳元で囁かれる言葉、肩を包む手の圧力に胸の奥がぎゅっと締め付けられ、背筋に走る熱が腰の先まで広がる。
(……どうして、こんなにも……心臓が跳ねるんだ……!)
掌にじんわりと汗をかき、全身の神経が曹操の動きに敏感に反応する。
紫鸞は必死に息を整えようとするが、耳元の吐息と唇の余韻が身体を熱く震わせ続けたが、慌てて一歩下がる。
顔は真っ赤で呼吸は荒い。手で胸元を押さえ、心臓の高鳴りをごまかすように小さく息をつく。
「……失礼するっ!」
慌てて声を上げ、振り返る間もなく執務室の扉へ駆け出す。廊下を駆け抜ける足音と、まだ鼓動が耳の奥で響いて止まらない。
背後から低く甘い声が、まだかすかに耳に届くような気がした。
「……逃しはせぬ」
廊下を駆け抜け、自室の扉を閉めた紫鸞。
胸の奥でまだ響く鼓動を押さえようと深く息を吸い込むが、全く落ち着かない。鏡に映る自分の頬の赤さに気づき、思わず手で触れる。
「な、なんで、あんなこと…」
「これから、どうすれば…」
耳元で囁かれた低く甘い声、肩に触れた手の熱、胸をかすめた指先の感触――思い出すたび背筋がぞくりと痺れ、身体の奥まで熱がじわりと広がる。普段は冷静な自分が、ただその記憶だけで息を浅くしてしまう。
鏡越しに映る赤く染まった頬、潤んだ瞳、わずかに開いた唇。
「・・・・こんなっ、こんなの、知らないっ!」
小さく息を漏らすと、心臓の音が耳にまで響き、胸がぎゅっと締め付けられる。息を整えようと背筋を伸ばすが、微かに廊下の気配を感じ、思わず耳を澄ます。
「…あ、あれ?」
低く甘い声が聞こえた気がして、心臓が再び跳ねる。掌がじんわり汗ばみ、肩の力も抜けず、背中が熱くひりつく。背後に感じる熱、吐息、微かな気配――確かに誰かがいるのに姿は見えない。
(……あの人……? それとも……幻覚……?)
無意識に肩に手を添えるとそこに残る熱にぞくりとし、体の奥がふわりと甘く疼く。首筋にかすかに残る吐息の余韻に背筋がぞくぞくと震え、胸の奥で鼓動が跳ねる。手足の先まで熱が広がり、思わず息を止めてしまう。
「こんな…感じるなんて……」
全身に走る電流のような感覚が胸から腰へ、そして手足の末端まで広がる。紫鸞は必死に呼吸を整えようとするが、鼓動は収まらず、全身が甘く熱く震える。
まだ見えぬ曹操の影、あるいは自分の錯覚かもしれないその存在を想像するだけで、体は熱を帯び、甘くぞくぞくと震えてしまうのだった。