いつも、いつまでも。 九月も半ばを過ぎたというのに、今日も暑くなるらしい。
慣れないかっちりとしたシャツの袖をまくり上げたい衝動を抑えて、桜はその上に鈍色のスーツを羽織った。
こんな堅苦しい格好は、これまでの人生で片手で数えるほどしかない。
おまけにここからネクタイを締めないといけないときたから、気が進まない。
それでも今日はこの格好をする理由がある。
級友の結婚式だからだ。
「桜さん、ネクタイ結べました?」
先ほどまで洗面所で鏡とにらめっこしていたはずの楡井が、まるで見計らったようなタイミングで声をかけてきた。
「今やってる」と返したが、手先はまごついている。身体を張ることは得意なのに、こういった動作には戸惑ってしまう。それでも形をなぞらえることができるのは、楡井のおかげだ。こうした日常生活で必要な所作にはじまり、神社でのお参りなどでの作法や、ゲームの必勝方法まで、聞いても聞かなくても丁寧に教えてくれた。
いつだったか箸の正しい持ち方に苦戦していた桜が「こんなこともできねぇのかって思わないのかよ」と楡井にぼやいたことがあった。
一瞬目を丸くしてから「思わないっす!」と言い切り、「それに」と続けた。
「ーーオレにも桜さんに教えられることがあるってうれしいです」
はにかんだ楡井を見て、みぞおちのあたりがじわっと熱を持った。そしてその頃にはもう、桜は特別に惹かれていたのだ。
「……うん。久しぶりでしたけど、バッチリ結べてますね! さすが桜さん」
少々手間取ったものの、楡井が手を出すことなくネクタイはそれなりの形になった。
そしてこんな些細なことでもとびきりの笑顔で褒めてくるから、桜は決まり悪くなって頭をかいた。
「お前も準備できただろ。さっさと行くぞ」
「えっまだ時間あるじゃないですか。せっかくなんだし髪の毛もビシッと決めましょうよ! オレ、このために早起きして自分の身支度済ませたんすから」
「オレはこのままでいいって」
「いいから! ほら、洗面所行きますよ!!」
腕はすでにがっしりと捕まれている。こうなると、もうされるがままになるしかない。
出逢った時からずっとこんな感じで、一緒に暮らすようになったここ数年を経て、さらに遠慮がとれてパワーアップした。そしてそれが案外嫌じゃないのだということもとっくに自分は知っている。
桜は観念して、そのまま引きずられることにした。
初秋の空は、どこまでも突き抜けるくらい青く、雲一つない。日差しはほんの少しだけ夏の名残があるが、先ほどヘアセットされてかき上げられた額に触れてくる風は心地よかった。
「今日はすごい絶好の日和っすねー」
バスを降りて空を見上げた楡井が、ややまぶしそうに目を細める。
確かに予報よりは過ごしやすい天候だ。
「オレ、秋は紅葉が見れる頃も好きですけど、今日みたいな天気も好きなんす。夏が終わってちょっとさみしいなって思うけど、新しい季節がもう始まってるんだなって感じて」
並んで歩く楡井の声が、胸の内側にす、と入ってくる。
桜も同じように感じていた。性格こそ互いに正反対だが、感じるものは不思議と似ていた。 二人の傍にいることが多かった自称人間観察が趣味の蘇枋に昔、「桜君とにれ君って、心の根っこが似てるよね」と言われたことがある。言われた時には二人して神妙な顔になったが、日々を重ねてなんとなく実感してきた。
「まぁちょうどいいな。今日は」
「そうっすよね! こんな日に結婚式ができるなんて最高すよ」
はしゃいだように楡井の足取りが、スキップのように軽くなり桜の少し前へと進む。
「あ、式場見えてきましたよ! もうみなさん来てますかねっ」
「はしゃぎすぎて転ぶなよ」
「もー転びませんよ」
声を掛けると、楡井は否定したがどこかうれしそうで、また桜と並ぶように歩く速さを緩めた。ふわふわと揺れるたんぽぽ色の髪を目端に捉えると、満たされた心地になった。
まこち町唯一ある結婚式場は、こじんまりとしていて町の雰囲気に合った素朴で優しい印象だ。
受付でゲストブックに桜が名前を書く様子を楡井はまじまじと見つめていた。
「……なんだよ」
「あ、すみません。きれいな字だなあって」
記入された字は、客観的に見てお世辞にも整っているとは言えない。
「お前、それどういう意味だ」
「ひぇっごめんなさいぃ! その、文字の流れがきれいだなって思ったんす!!」
「は?」
反射で引きつった顔で見やれば、慌てふためいた楡井が説明し出す。
「えっと……桜って名字も勿論きれいなんですけど、名前の遙がつくとすごくイメージが広がって……青空に映える桜みたいな」
言いながら、気恥ずかしくなってきたのか楡井の顔が染まっていく。
聞いている桜はというともっとむずがゆくなっていた。
「ーーはいはい。後ろが詰まっちゃうよ」
ゆったりした声に二人一緒に振り向けば、「あっちで好きなだけいちゃいちゃしようね」とピアスのタッセルをしゃらりと揺らして微笑む蘇枋。その後ろで「今日もあついねぇ」とわざとらしく手をパタパタ仰いで見せる桐生。さらに横で「相変わらず仲良しでええなぁ!」と豪快に笑いかける柘浦。その後方にもかって知ったる面々が集まって桜たちを見ていた。
「みなさん久しぶりですっとりあえずオレたちあっちで待ってますね!!」
「おま、ぇ急に引っ張るな!!」
顔を真っ赤に染め上げ早口に告げた楡井が、桜の腕を掴んでロビーへと引っ張っていく。 これもよく見た光景だったなあと多聞衆の級友たちは懐かしく思うのであった。
久しぶりの再会に話に花を咲かせ、しばらくした後、チャペルへと案内された。
おのおの可愛らしく装飾された木の椅子に座るとき、妙に緊張した。
「オレ、チャペルに入るの親戚の結婚式以来っす」
「そうなんだ。オレは初めてかも。桜君は?」
「……初めてだ」
「こういう場所ってちょっと緊張しちゃうよね」
「なんかワシそわそわしてきた……!」
柘浦が言ったからではないが、桜もなんだか落ち着かない気持ちになる。
こういう場所に自分が来るなんて思いもしなかった。
やがて式を執り行うアナウンスが始まり、あたりが神聖な雰囲気に満ちていく。
扉が開き級友である新郎が中へと歩み出した。
「おお、高梨決まってる」
「イイ男になったな」
桜たちの後方の席で安西の感動した声が漏れ、級友たちもつられて反応する。
楡井も「格好良いっすね」と小さくはしゃぎなら持参してきたデジタルカメラでその姿を納めていた。
視線の先の高梨は純白の装いに身を包み、表情には緊張が少し滲んではいるものの凜としていた。
「すげぇよなあ。中学の時からずっと続いてる彼女と結婚だもん。一途だよなあ。はぁオレだって一途なんだけどなあ」
「まあまあ今日は忘れて思いっきり祝福してやろーぜ」
おそらく直近で彼女に振られたのであろう、うらやましそうにぼやく栗田を柿内が宥める。その様子を横目にチャペルの中央まで高梨を見届けた。
そうして再び扉が開き、今度は新婦が入場する。
先ほどまで小さく騒いでいた面々も、厳かに新郎へ歩んでいく新婦をそっと見守っていた。
「ーーきれい」
だからだろうか、横にいた楡井のかすかな声が聞こえたのは。
チャペルの中央。約束された場所で並ぶ新郎新婦を見つめる楡井の横顔を、桜は不意に見つめていた。
それから式はつつがなく行われ、終わりのブーケトス。ゲストは希望者全員参加してもよいのをいいことに栗田も懸命に手を伸ばしたが、思いのほかよく飛んだブーケの行く先は桜の手の内だった。
桜は当然参加をしていなかったので「返す」とブーケを掲げ上げたが、学生の頃と変わらないほどよく力を抜けた調子で、「もらってくれよ、桜」と笑う高梨に、桜は顔を赤くしつつも仕方なくその手を下ろしたのだ。
「…………あ!」
次に控える披露宴の会場に向かう道の途中、楡井が声を上げた。
何かを思い出したらしい。
「どうしたの、にれ君」
「カメラ、チャペルに置いてきちゃったみたいなんす。すみません、皆さんは先に会場行っててください!」
そう言って慌てて小走りで来た方向へ逆戻りをする楡井を見送ったのが、十数分ほど前。
「ーーにれちゃん、遅いね。まあまだ始まるまでに時間はあるけど」
「分かりにくい構造の建物じゃないし、にれ君に限って迷子ではないと思うけどね」
「ほんなら探しにいこか? 具合悪うなってしゃがみこんどるのかも」
「……オレが行ってくるからいい」
未だ戻ってこない楡井を心配する面々が席を立とうとしたのを桜は制止した。
「大丈夫? 桜ちゃん迷子にならない?」
「ミイラ取りがミイラになっちゃうとなあ……」
「やっぱりワシらもついてった方が……」
「あーうっせぇ! それぐらい覚えてるわ!!」
心配半分冗談半分の声かけに桜が吠えると、怯むでもなく三者はそろって笑顔でじゃあよろしくと桜を送り出した。
チャペル以外の場所にいる可能性もあったが、式で見た楡井の横顔がふと頭に浮かび、桜の足はやはりそこへと赴いた。
控えめな装飾が施された素朴な木扉を開くと新郎新婦がいた場所に楡井はいた。
鮮やかな色のステンドグラスが秋の陽光を吸い込んで、あたりが七色にきらめいている。
「ーーあ、桜さん」
こちらに気づいて振り返った楡井の顔に、淡い影が落ちる。
「すみません、戻るのが遅くなっちゃって」
「……なにしてたんだ」
「誰もいないチャペルって滅多に来れないよなあって思って、つい写真撮っちゃてたんですけど。今ちょうど西日が差し込んで、きれいだなってぼうっとしちゃってました……すみません、すぐに戻りましょう」
「ーーお前もしたいのか? さっきみたいなこと」
足早に会場へ戻ろうとする楡井に問いを投げかけた。
「……へ?」
「さっきも今も。なんか変な顔してたから」
「変って! なんですかもうーー……そ、ですね。素敵だなとは思いましたよ。でもその……式をしたいっていうのもちょっと違うかも、ですけど」
ううん、と真面目に唸る楡井の答えを、桜は静かに待った。
「上手く言葉にできないんすけど……一緒に生きていこうって確かめ合える場所っていいなって思ったんです」
「……そうか」
言葉にされたことのすべてが分かったわけではないけれど、相手の望みの輪郭をなぞることには十分だった。
「ーー誓いがほしいなら、やる」
まっすぐに楡井を見る。今度は桜が応える番だ。
一瞬目を丸くした楡井が、ふ、と微笑んで桜を見つめ返す。
「ーー桜遙。あなたは健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も。これを愛し、敬い、慰め合い、ともに助け合いーーその命ある限り真心を尽くすことを誓いますか」
長い口上に返す言葉はたった一つだ。少し離れたステンドグラスの方へ視線を送らず、楡井を見つめたまま、口を開いた。
「ーー誓う」
桜の言葉に目の前の顔がじわじわと赤くなり、瞳も心なしか潤んでいたが、その瞳は桜から逸らさなかった。
「ーーお前は」
長ったらしい口上を覚えているわけはなく、けれど同じ意味を持って問いかける。
楡井には伝わると確信しているから。
「ーー誓います」
楡井もまた、桜を見つめ返して応えた。キラキラと西日がたんぽぽ色の髪にやわらかに反射する。それがきれいだと桜は思った。
「ーーやっぱり遙って良い名前ですね」
「なんだよ、急に」
「えへへ。声に出して呼んだら、改めてそう思いました。てっぺんの桜さんにピッタリです!」
「んなのいいから。さっさと戻るぞ」
「はい!……これからもずっと遙かまでついて行きます!」
どうしてこうも気恥ずかしくなることをポンポン言えるのか。そして満更でもない自分にも決まり悪くなる。応えると余計言動がアップグレードされてしまいそうだから、桜は押し黙って歩くことにした。
チャペルを出て会場へと戻る長い廊下を歩いていると、視線の先で蘇枋たちの姿を捉えた。
「……あっ蘇枋さんたちだ! 探しにきてくれたのかな……桜さん、急ぎましょう!!」
「お前だから急に引っ張るなって!」
ついて行くとさっき言ったばかりなのに、今この瞬間に楡井はもう桜の手を引っ張っている。
自分よりも細い腕に、小さな手。それを振りほどけるだけの力はあるのに、桜はそうしない。時に強引ささえ感じる温もりに、無意識に安心しているからだ。
弱くても、力が無くても、桜の真ん中を楡井は守ろうとしてくれる。
腕を引かれたあの日から、手を繋いでいる今も。
そしてこれからも。
遙か先まで、この温もりはきっとそばにいてくれる。
その幸福がなによりも自分を肯定して、強くしてくれるから、いつも、いつまでも守り抜きたい。
たしかなこの想いを絶やさないように、繋がれた手、そのやわらかな指先に誓いのように桜はささやかな力を込めた。