覗く深淵はぞっとするほど深く無辜ならざぬ者を奈落へと呑み込み、羅刹が喰らう咎人の烙印を持たされし者に 俺は、常々、
こいつの瞳は、血のようだと思い続けていたけれど、なるほど、
こうしてまじまじと見てみると、それは、
"斜陽のような"と形容する方が適切かもしれない、なんて、
そんなことを、ふと考えさせられた。だって、
今まさに奴の背後で、
崩れかけた廃墟の洋館と、その先にある森の枝葉に呑まれようとしている朱色の天道は、
網膜に染みる光華を放ちつつも、
目を焼く暴力的な昼日中のそれとは明らかに異なり、その輪郭をしっかりと見極められるくらい熱を収め、
艶やかな金色(こんじき)に染まった雲にその身を彩らせているのだけれど、それはまさに、
灼熱を有しているようでいて、酷く冷ややかで、その実、
一切の温度を持っていないようにも見える、こいつの紅蓮の瞳孔と、
それを彩る、ぞっとするくらい美しい豊穣色の煌めきと酷似している、
とかなんとか、
つらつらと至極真面目を装って考察の真似事をしてみても、所詮は現実逃避。状況は変わらない。そう、
大海を見下ろすこの崖の切先で、
哀れになるくらいに錆びた細い欄干の上に身体のほとんどの重心を任せ、
両の足は情けないことに地を離れて無意味に空を踏みながら、
こちらの首を掴み奈落へと突き落とさんとする奴の手首に、せめてもの抵抗として爪を突き立てるしかないこの状況は、
変えられない。
かんかんかん、と錆びついた風見鶏が、洋館の剥がれかけた屋根の先端の上で、
風に揺さぶられつつも水平線を見詰め、けたたましく鳴くのを聴きながら、
あの時、上段から振り下ろされた奴の剣を、まともに受け止めるんじゃなかった、と、
先程から何度も込み上げてくる苦味を、また口内で噛み締める。
想像以上に重かった衝撃に思わず撃雲を取り落としたのが、悔やまれる。が、
今更もう全ては手遅れだ。今この身を支えるのは、首に絡みつく奴の手と、
ぼろぼろと塗装が剥がれていく心許無い欄干に縋る自身の右手のみ。否、
実際には、その上に奴の右手が重ねられているのだから、
欄干を握り締めているのは本当に俺なのか、
それとも、奴が俺の手ごと欄干を握っているというべきなのか、正直、分からない。つまり、簡素に言えば、
この肢体を落下させるのも、させないのも、この眼前の男の意思一つということだ。
ひゅう、と甲高い声音を奏でながら、風見鶏を鳴かした風が海の方へと走り去り、
かと思えばまたすぐに、
軽く渦を巻いて、濃い潮の香りを纏い、
岩肌を駆け上がって、ぶつかってくる。
奴は、先程から動かない。
首を掴むその手を、ほんの少しでも前へ押し出せば、簡単に俺の身体は空へ放り出されるだろうに、それをする気配はなく、
かと言って、何か話したいことがあるわけでは勿論ないようで、その唇は引き結んだまま。
包帯に包まれた指が、せめてこちらの気道を締め上げてくれれば、与えられる苦痛に集中することも出来るのだが、その指は、依然として、
脳が酸欠を訴えるには足りなすぎる、けれど、じんとした痺れが少しは広がるくらいの、焦ったい力加減で、
柔らかく、丁寧に、頸動脈に触れるのみ。その所作がなんだか、
まるで慈しむかのようで、
なんて、
そんな風に感じ取ってしまうのは、決定的に、
そして根本的に、間違っている。そう、それは分かっているのだが、それでも、
俺はこいつの、この、
凪いだ瞳が、苦手だ。
いつものように、殺意で濁っていてくれた方が、
嗜虐の愉悦と、復讐の渇望に、燦爛としてくれていた方が、余程良い。こんな風に、
静謐な樹海の奥に眠る湖面のように、一見、どこまでも静に満たされているようでいて、その実、
その表層の向こう側に、得体が知れない何かが在って、その水面に指先が触れようものならそのまま呑み込まれてしまいそうな、
そんな不可思議な色の瞳を、こいつが俺に見せるようになったのは、いつの頃からか、いや、
もしかすると、正確に言うならば、
奴がそんな瞳を時折見せることに、俺が気付いたのは、いつの頃からだったか。とにかく、
俺は、これが、どうしようもなく苦手だ。何故って、
どういう訳か、目を逸せなくなるから。そして、
そう、今のように、背筋で妙な、
心許無いような、遣る瀬無いような、甘ったるいような、とにかく落ち着かない感覚が、ざわめくから。ああ、きっと、
これが、吊り橋理論、というやつだ。なんて、
もっともらしく頷いてみる。けど、
いくらそう思い込みたくとも、その理論の前提条件は、残念だが、
僅かながら、しかし、決定的に、不足しているのを知っている。だって、
確かにこの身は不安定な均衡の上に今あるわけだけれど、
崖下が岩場であればいざ知らず、大海である以上、
この程度の高さから落下したところで、
死にはしないどころか、下手したら傷の一つも出来ないであろうことを、俺は知ってしまっている。
かんかんかん、と風見鶏が笑う。一向に止む気配を見せない風が、刃の前髪を掻き乱していくが、
その瞳を隠してはくれない。
「……突き落とすなら、さっさとしろ」
沈黙に耐え切れなくなって、口を開いた。
自分で思ったよりも掠れた声音になってしまったし、風の音に半ば飛ばされてしまったが、それでも、
常であれば考えられないくらい、というか、異常なくらい、互いの間は詰まっているのだ、奴の耳に届かなかったとは考えられない、のだが、
奴は、憎らしいくらい、静寂を崩さない。
首元を押さえられているのとは別の理由で、
途方もなく、息苦しくなってくる。
「突き落とさないなら…、」
気付けば、喘ぐように言葉を綴っていた。
「せめて何か言ってくれないか」
我ながら、滑稽な響きだ。まるで縋るような。懇願するような。妙なことを口走ったと、すぐに後悔する。出来れば、この男には、
鼻で笑って、そのまま一息に突き落としてもらいたい、と、
心底そう願った。でも、
刃は、欄干に縋る俺の手を、ただ、
ぎゅっと、握り直すだけだった。
「…何を」
発せられた問いは短い。その背後で、
傾いた風見鶏は相も変らず、何がそんなに楽しいのか、軋んだ朗笑を奏で続けている。
「何か」
やけに乾いている気がする喉に唾液を押し込んだ。別段、
実際に、奴に何を言って欲しいというわけではなかった、ただ、
この沈黙と不自然な均衡を打ち破ってもらいたかった。出来れば、
いつもの殺意を見せてもらいたかった。
その願いが、よもや通じたわけではないだろうが、
ゆるり、と緩慢な所作で一つ瞬いた奴は、静かに口を開いた。
「しんでくれ」
五文字。
それは、なんの意外性もない五文字。なんなら、
現実だけでなく夢の中でも、もしかしたら、
前世でさえ、
奴の声音で綴られるのを何度も聞いている、
最早、聞き馴染んだ五文字。
「それは聞き飽きた」
八文字を返しながら、思わず唇に笑みの形を描かせてしまった。じんわりと胸の奥に広がるのは安堵だ。やっと、
金縛りから解けたような解放感。吊り橋の幻覚の霧散。いつもの景色が戻ってくる。
これで良い、と思った。
これが良い、とは思わないのか、とちらりと揚げ足を取るような皮肉げな思いが湧いてきたけど、深く考えないことにする。
どちらも意味にさした違いはない。これで、良い。
奴の瞳から外した視線を背後へと向け、
改めて海面までの距離を確認してから、
首の皮膚と、それを押さえる奴の指の隙間に、指を差し入れる。欄干を握る手を離す。そして、
思い切り、身体の重心を、後ろへと傾ける。
ひゅん、と耳元で鳴る風切り音。
ふわりと肚の奥に湧き上がる浮遊感。
一瞬の後に、この肢体を包み込むであろう潮水の涼やかさを夢想した、が、
次の刹那、
がくん、と、
無理矢理に重心が前に戻される衝撃に貫かれた。
咄嗟に、呻く。
首の骨が重力の負荷に耐えられず鳴く鈍痛。
解放を許されなかった右手が、奴の手によって欄干に押し付けられる圧痛。
思わず見開いた瞳の奥の網膜が、奴の鋭利な視線に射抜かれる疼痛。
息が、詰まる。
が、残念ながら、それは、
痛みの所為だけじゃなくて、
こちらの背を支える奴の手が、思いの外、粗雑ではないのを感じてしまったから。それと、
欄干に腰をかけるような格好になった為に先程よりも至近で、そして己のそれと同じ高さで、ゆったりと煌めく奴の瞳の、
その一見凪いだ表層の奥で揺らめく得体の知れないものの輪郭を、なんだか、
一瞬だけではあるけれど、捉えてしまったような気がしたから。
でもそれは、間違いなく、自分の誤認だ。だって、
あり得ない、それが、
確かに、憎悪であり、瞋恚であり、殺意であり、宿怨である同時に、
妄執とか、渇求とか、恋着、もしくは、狂愛といった単語で表せるようなものに似ている、だなんて。
そんな、錯覚をしてしまうなんて。
くらくらと揺れている気がする視界の原因が、煩わしい海風なのか、それとも単なる目眩なのかは分からない。
ざわざわと一定の律動をもって鼓膜に突き刺さる音の出所が、喧しい風見鶏なのか、おのれの脈動なのかも分からない。更に言えば、
こいつが、何を考えているのかなんて、微塵も分かりそうにないし、それに、
奴の包帯の巻かれた手が、そっと背を離れ、ゆっくりと、
こちらの上腕を辿り、肩をなぞり、
つぅっと首筋を掠って、頬へと添えられる、その所作に、
心地良さを知覚してしまっている自分自身のことすら、
どうしようもなく、分からないし、分かりたくなかった。それでも、
もうどう頑張ったって、
視線を、眼前の男から、逸らせそうにはなくて。
そんな俺の様を嘲るでも、憐れむでも、蔑むでもなく、刃は、
相も変らず一切の情動もその面(おもて)に表さぬまま、ただそっとその上体を傾けながら、
もう一方の、手套に包まれた右の手も、同じように、
焦れるくらいに緩慢な動きで、こちらの頬に添えると、
そのまま、
こちらの耳を塞いだ。
思わず、瞬く。
ふっと世界の全ての音が遠ざかり、耳鳴りを伴った静寂に聴覚を支配される。
互いの鼻先が触れ合いそうなくらい至近までその面を寄せた奴が、そこでやっと、
口の端を持ち上げた。それは、例えるなら、
捕食者のような、酷く嗜虐的な角度でありながらも、
告解者のような、狂おしいくらいの切実さを持った孤であり、
その唇が、ゆっくりと開き、言葉を形作っていく様を、ただ、
魅入られでもしたかのように、見詰めてしまう。もちろん声音は聞こえないけれど。ああ、
あえかに世界を塗りつぶす斜陽の光は、なんだか妙に温かく、
いつもの刺し貫くような奴の眼差しさえ、どこか柔らかいように見えてしまうからなのか、
しおかぜ(潮風)にたおやかに翻る包帯に彩られたその手は、いつだって俺に、いわれのない、けれど逃れようのない罪を押し付けてきたというのに、今や、
てん(天)の理を覆そうと謀った挙句に課された罪業を、一世では到底贖いきれないそれを、
るる(縷々)たる永劫の彼岸まで共に引き摺って行ってやると言わんばかりの、おどろおどろしいほどの甘やかさをもって、俺を包み込んでくる。
こくり、と奴の喉仏が動き、唇が閉ざされた。それをぼんやりと眺めながら、
五文字だな、と思った。
奴が紡いだ言葉。聴覚を閉ざされて、聞こえなかった声音。
五文字。それは、ちょうど、
先程聞いた言葉と同じ文字数だ。とても聞きなれた、しんでくれ、という五文字。だから、
きっと、またその言葉を繰り返したんだろう、と思う。思おうとする。否、
そうであるべきだ。そうでなくてはならない、のに。
どうしても、違う言葉に、見えた気がしてしまって、
途方もないやるせなさと、焦燥にも似た熱に、気道が詰まる。でも、
よくよく考えると、先程聞いた五文字と、今聞こえなかった五文字。
両者にさした違いなんて、無いのかもしれない。だって、
どちらも、奈落に落ちるって観点から言えば、同義に違いない。
吊り橋が、落ちるなら落ちろ、と、
自棄にも似た心地で、でもわりと真剣に、
心の底からそう思って、両の手を持ち上げた。
奴の真似をして、その頬へ触れてみたら、
屍のように冷たいかと思っていたその体温は、予想外にちゃんと温かくて、
なんだかそれにちょっと安堵しながら、眼を閉じる。
刃の耳をふさいで、そっと返してみた八文字は、
終末の喇叭にも似たけたたましい風見鶏の笑い声にかき消され、
北から駆けてきた風によって、崖下の大海に突き落とされた。
-End.-
のぞく(覗く)深淵は
ぞっとするほど深く
むこ(無辜)ならざぬ者を
な(奈落)へと呑み込み
ら(羅刹)が喰らう
と(咎人)の烙印を
もたされし(持たされし)者に
にげば(逃げ場)なぞなし