微かな服の衣擦れすら拾う耳は薄い唇から零れる吐息すらも掬いとってしまう。出来るだけ音を出さないようにと思えば思う程呼吸は早く、荒くなっていってしまう。
「まだ出ていかないみたい…もう少し我慢しててネ、グレイ」
限りなく絞られた音量ですら届く距離は、彼の長い睫毛の一本一本までもが鮮明に映していた。
「(ぼ、僕…どうすればいいの……)」
狭いロッカーの中、友だちと触れ合う体温にグレイは少し前のことを思い出した。
***
それはちょっとした好奇心が始まりだった。
エリオス内でまことしやかに流れている、『エリオスタワーのどこかに開かずの部屋がある』という噂。
機械での操作が主流となり、鍵もタッチパネルや指紋認証・カードキーなどが当たり前のエリオスタワーにおいて、アナログの鍵穴に鍵を差し込むタイプの部屋があるというだけでも珍しいというのに、しかも誰もその部屋が開いているのを見たことがないと言う。
そうした噂が広まる中、それはどこにあり中で何が行われているのか知りたい、といった依頼がいくつかビリーの元へ届き「これはB&Gの出番だね!」とゴーグルの奥で細められる瞳に、グレイは当たり前のように「うん」と頷いた。
長丁場になるかと気合いを入れたものの、結果から言ってしまえば部屋はすぐに見つかり、ビリーの持ち前の技術により呆気ない程あっさりと開かずの部屋はその内側を露にした。
幾つもの空の酒瓶に放置されたおつまみの袋。散らかってはいるものの、いくつか置いてあるパイプ椅子の座面に埃は溜まっておらず、つい最近使われていたことがわかる。
「ここはきっと、エリオスの職員の人達がサボるのに使われてるんだネ」
乱雑に置かれた職員用のネクタイをつまらなそうにつまみ上げたビリーが、ぽつりと零すようにつぶやいた。
こっそり酒やつまみを持ち込んで、この部屋でサボりながら飲み食いでもしていたのだろう。勤務後という可能性も無くはないが、それならこんなわざわざ鍵をかけてまで整備されていない部屋でやる必要がない。エリオスにはもっと快適で職員でも使える部屋は沢山あるのだから。と、言うことは勤務中にこっそりと集まってはバレない程度に息抜きしていたのだろう。
どんな秘密があったのだろうとワクワクと期待に胸を膨らました二人にとっては些か呆気ない解決となってしまったが、これ以上調べることも無い。二人で顔を見合わせて肩を竦め笑いながら部屋を出ていこうとするが、その笑い声の中に自分たちでは無いものが混ざる。
扉の向こうから人がやってきたのだ。
「!! グレイ、隠れて!」
「え、うわぁ!?」
見つかって悪いのはあちらであるとは言え、勝手に入ったことなど諸々のことを考えれば面倒事は避けられない。そう考えたビリーはグレイの腕を引くと、近くのロッカーへと身を隠した。
「……ふぅ、危ないところだったネ、グレイ。ちょうど隠れる場所があって良かったヨ」
「はわわわわわ」
「グレイ?」
「ひっ!ビ、ビリーく、もごっ」
「しーっ!静かに!」
「ご、ごめん」
ビリーの手のひらがグレイの口を覆った。息を潜めて外の音を聞くが、どうやら気付かれていないらしく、ホッと安堵の息を落とす。ほんの少しだけ下にある顔を見下ろすと、悪戯気にペロリと舌を出して笑っていた。
改めて静まり返ったロッカーの中で外の会話に聞き耳を立てる。スチール越しの声は聞きとりづらく詳細までは分からなかったが、それでも長居はしないということだけはなんとなく聞き取れた。
……良かった、これなら少しの間隠れてるだけで良さそう。ちょうど良く隠れられそうなロッカーがあって助かった……ちょっとだけ狭いけど。……ん、なんか甘い匂いする……?あ、これビリーくんのキャンディの匂い、か……
すん、と嗅いだ鼻を抑えようとして、自分の手のひらがロッカーの面にくっついたまま身動きが取れないのを思い出して喉仏だけが緊張したように上下した。ビリーが音を発さず、口の動きだけで名前を呼ぶのが見える。ゴーグルの奥に隠された瞳だって、この距離なら色まで把握出来てしまう。
……ち、近い
触れ合っているどころか密着していると言っても過言ではない距離にいるビリーは、離れていては決して分からない服の下の体温まで感じ、わずかに身を捩るだけでその動きが伝わってくる程に近い。
緊張に荒くなる息がふわりとキャロットオレンジの髪を揺らしているのが眼下に映り、慌てて顔を逸らした。
どうしよう……好きな子がこんな近くにいるなんて。ただでさえいつも距離の近いビリーくんにドキドキと心臓の鼓動を高鳴らせているというのに、こんな……相手の鼓動まで聞こえてきそうな距離。高鳴りを超えて破裂してしまいそうだ。
鼻腔をくすぐる甘い、ストロベリーの香り。そう言えばさっきまでビリーくんストロベリーミルクのフレーバーのキャンディを舐めてたっけ……ってダメダメ!こんな、変態みたいな……
一度意識し出すと人工的な甘ったるい匂いも、呼吸の音も、服の下のしなやかな筋肉の柔らかさも。オレンジ色のレンズの奥で揺れる睫毛の一本一本までが気になってしまう。
あぁ、どうしよう。ダメなのに。友達にこんなこと思っちゃ……
「ンッ、」
ピクリと、ほんの一瞬のような短音なのにやけに色っぽい声にグレイの身体は凍ったように硬直してしまう。
ギギギとブリキ人形のように視線を下に向けると、暑さのせいで少し火照った頬をさらに朱に染め、少しだけ窘めるような……それでいて気まずそうに笑った。
「耳、くすぐったいヨ」
どうやらグレイの吐息がビリーの耳を擽ったらしい。
「ごっ、ごご、ごごごめんな……」
「しーっ、」
「……っ!」
細められる瞳につられてギュッと口を一文字に閉じる。しかし慌てて動いた身体の勢いまでは止まらなかった。幸い音は出なかったものの、先程までと体勢が変わってしまう。思わず突き出した足はビリーの足の間に挟まり、覆い被さるように近付いた頭は、少し口を開けばグレイの唇がビリーの耳介に触れてしまいそうだった。
謝ろうにも、謝罪の言葉を言おうとするだけで耳を食んでしまいそうだし、たとえそれを逃れたとしても振動で耳を擽ってしまうだろう。
それだけでも申し訳なさと緊張と興奮で一杯だというのに、ビリーくんの足の間に挟んだ足……いわゆる足ドン状態になってしまった下半身まで加わればもうパニックだ。
6cmとはいえ、身長差のあるグレイの足に載らないようにするためには少し背伸びが必要で。しかしそうすれば耳が唇に触れてしまう。
「ん……っ、ふ、」
擽ったさか……それとも、それ以外の感覚を得てしまっているのか。黒いグローブで口を覆い声が漏れるのを必死に堪えている姿に、グレイの中の知らない感情がむくむくと育っていくのを感じる。
どうしよう、ダメなのに。ダメなのはわかってるのに。このままほんの少し唇を動かして触れてしまおうか。それとも足をほんの少しだけ上げてしまおうか。
ジェットともまた違う、彼よりももっと魅力的で悪魔のような誘いが脳の奥で反響する。
──と、同時にロッカーの扉が開いた。
「え、」
「はぁ〜、外の空気美味しい!」
「び、ビリー……くん?」
「もうエリオスの職員の人達いっちゃったヨ?気付いてなかった?」
「え、あ!う、うん……」
「ちょっとスリリングだったけど、無事依頼も達成したし、今回もB&Gは大活躍だったネ!」
「あは、は……そう、だね」
今、僕は何を……、ビリーくんになんてことを。
抱えたい頭を何とか誤魔化そうとして、下腹部辺りの違和感にふと視線を下げた。
わずかではあるが、スラックスを押し上げ兆しを見せているグレイ自身にギョッと目玉が飛び出る。
「〜〜〜〜ッ!!!」
「グレイ!?」
「な、なんっ、なんでもないよ! えっと、その、僕は大丈夫だから、先に戻っててくれる……?」
「えっ、…………うん、わかった。じゃあ、先に戻るケド、また職員の人達が戻って来ないとも限らないから気を付けて」
「うん、ありがとう」
最後にもう一度心配そうにこちらを振り返ると、そのままパタパタと軽い足音を響かせて元開かずの部屋から出ていった。
その足音が完全に離れていったのを聞いてから、ズルズルと足の力が抜け、ペタンと床へと崩れ落ちた。
わずかに山を作る下半身に早く治まれと念じながらも、脳裏に浮かぶのは扇情的な友だちの姿。うぅ、と情けない呻き声をあげながら、グレイは冷たい床からしばらく立つことはなかった。
***
例の部屋から十分な距離を取ったビリーは、足を止めると黒いグローブで覆われた手のひらをそっと耳へ寄せた。それは、グレイの吐息がぶつかっていた方。
「(グレイ……勃ってた)」
互いの呼吸音や拍動まで聞こえるような距離。ピクリと動く筋肉までわかる近さで、察しのいいビリーがグレイの体の変化に気付かないはずがなかった。
「……、」
無意識のうちに、耳から降りてきた人差し指がゆっくりと唇を撫でる。
人の心の機微に敏感な自覚のあるビリーは、グレイが自分のことを友だちとして好いてくれていることは理解していた。
時折その感情にどろりと黒く重いものが混ざることもあるが、今までまともに友人関係を築いて来なかった初心者マーク付きのビリーにはその異常性までは気付かない。
「(もしかして、ボクちんに欲情した? ……なーんて、流石にそれは無いか)」
ふっ、と自嘲気味な息を吐いてふるふると首を振った。
きっと対人関係の経験が少ないグレイが、他人と密着することに緊張した結果、身体が興奮と勘違いしたとかそのあたりだろう。
だって、じゃないとまるでグレイが自分のことをそういった意味で好きみたいじゃないか。
友だちが出来て、家にまで遊びに行って。チームとしてもまとまってきて。パイセンやジェイとも上手くいっているというのに、それ以上を望むなんてちょっと欲張りすぎだ。
「んふふ〜、グレイが帰ってくるのはいつになるかな」
せめて、気付かなかったフリをしてあげよう。おそらくすごく焦って目も合わせられないだろうから。
顔を合わせた瞬間茹でダコのように真っ赤になるグレイを想像して思わず吹き出しながら、ビリーはスマホを取り出して依頼主たちへと返信のメールを作成するのだった。