夏休み 畳の感触にまどろみから浮上する。乾いた草の匂い。古びた畳の匂いだ。
じとりとした汗が首筋にまとわり付いている。何か夢を見ていたような気がする。けれどそれもすぐにがなるような蝉の断末魔で掻き消えてしまった。
なにか、嫌な夢だったような気もするし、懐かしい夢だったような気もする。
消えてしまった夢の断片を探るように瞬きをして、ごろりと目を開いたまま寝返りを打つと、腹の上に薄手のタオルケットが掛けられているのに気が付いた。
「起きた?」
頭の上から降ってきたその声に、尾形は視線だけをそちらに向けた。
胡坐をかいた杉元が何かを飲みながら尾形を見ていた。尾形はそれに返事をするでもなく、黙ってそれを見た。
「尾形も飲む? 喉渇いただろ」
そう言って、つい今しがた自分の飲んでいたガラスのコップを差し出してくる。中には茶色い液体と、氷が三つばかり浮かんでいる。おそらくは麦茶か何かだろう。
尾形はやっぱり黙ってそれを見ていた。
「なんか言ってよぉ。それともまだ寝ぼけてんのか?」
室内に入り込んだ日の光で、コップの中の液体か、それともコップ自体の細工によってか、光が複雑な色で杉元の手元を照らしていた。
けれどそれよりももっと、杉元の目が。
尾形は眩しさに少しばかり目を細めてから身体を起こした。ついでに乱れたであろう髪を撫で付ける。
「…何してる。こんなところで」
「なにって、おまえが寝てたから」
不貞腐れたように唇を尖らせる、杉元の顔には大きな傷が走っている。それが唯一この子供っぽい表情をする男が、真実そうではないと訴えてくるようで、尾形はこの傷跡にしばしば安心感を覚えることがあった。それが今だ。
ずい、と再度差し出されたガラスコップを少し考えてから受け取ると、そのままそれを飲んだ。実際喉が渇いていた。中身は案の定、冷えた麦茶だった。その冷たさと水分で、急速に脳が覚醒してくる。
「それで、何の用だ」
別に何かを約束したような記憶もない。
ここは土方の家の縁側で、まぁ誰それともなく勝手に出入りしているような家なので尾形同様勝手に上がりこんできたのだろうという事はわかるが。
「蝉捕りに行こうぜ」
ぱっと顔を綻ばせた杉元が小学生のような口調でそう言った。一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「嫌だ」
家の中でじっとしていてもじっとりと汗をかくほど暑いのに、なんだって外で無意味に虫なんぞ取らねばならんのかと、尾形は再び寝る姿勢に入った。杉元がそれを無遠慮に揺り起こす。
「いいじゃん行こうぜ。せっかく夏なんだからさぁ」
「嫌だ。暑い」
夏だから蝉を取るという発想もよくわからない。考えてみれば尾形には幼少期に蝉を好き好んで取ったような記憶がなかった。田舎ではもっぱら鴨やらなにやら、食べられるものを取っていた。
「から揚げにして食おうよぉ」
別に食うに困っているわけでもないのに、なぜ蝉なんか食わなければならんのか、と尾形はいつの間にやら腹に掛けられていたタオルケットを頭から被った。杉元がそれを剥ぎ取ろうとする。
小さな子供みたいに甘えたような声を平気で出す、この男はこういう無邪気さを持っている。本当は、そんな純粋な人間でもないくせに。
「せっかくの夏休みだよぉ、ねぇ、尾形ぁ」
「夏休み」
久しぶりに聞いたその単語に、尾形はピクリと反応した。何か、幼い頃の記憶のようなものが、その単語で一気に引きずり出されてくるような感覚があった。小さな頃、田舎での母との暮らし。夏休み。
確かに今は会社がお盆休みで、だから平日の真昼間にやる事もなくこんなところで昼寝をしている。何か、何か、過去が、ずるりとねばつくような質量で這い出てくる。
「どりゃ」
尾形が一瞬気を取られたのに気が付いた杉元が、力任せにタオルケットを引っぺがした。現れかけた記憶も一緒に引っこ抜かれたような気になって、尾形は少し目を丸くする。
「なぁ、いいだろ?」
そう言って尾形の顔を覗き込んでくる。逆光になっているはずなのに、杉元の瞳が明るい。キラキラと何かに輝いている。
やっぱりそれが眩しくて、尾形は目を細める。対極的に尾形の中からどろりとした汚泥のような何かが今にも這い出しそうだ。
「…」
うんともすんとも言わずに、尾形は杉元の顔に大きく走った傷跡に手を伸ばした。
でこぼことした痕が、指先にその傷の深さを伝えてくる。
「なぁに」
子供のようなところがある。杉本佐一というこの男が、本当はそうではないと、この傷だけが訴えてくる。
「いいぜ。行ってやる」
尾形がそう返事をすると、杉元は一気に破顔した。
「やったー!」
ぱっと花が咲いたようなその顔に、走った裂傷が少し歪むのが、指先に伝わってくる。
尾形はそこに爪を立てた。