お別れの前に結婚式を開く話。エー監 別れなんて永遠に来ないと思ってた。当然のようにお前がいて、一緒に笑って、馬鹿みたいなことして、からかって、抱きしめて、キスをして、それから___。
いや。わかってたんだ。目を背けてた。いつだってお前は帰る場所を探していた。自分の本当の居場所はここじゃないって、そう、繰り返していた。その姿は、一番近くからずっとみてきた。
「元の世界に帰る方法が見つかったよ。次の満月の日、元の世界に通じるんだって」
もう直ぐ冬に差し掛かろうとしていた、普通の日だった。監督生が突然この世界に現れてくれてから丸一年が過ぎて、この騒がしくて幸せな生活が当たり前になっていた頃だ。一向に元の世界に帰る方法は見つかる様子もなくて、ずっと一緒にいられる夢を描いていてもいいんじゃないかと期待をしてしまっていた。それでもその日、ぽっと湧いて出てきたような事実は確かに監督生の声で紡がれて。まさに寝耳に水だった、ってわけ。
その時が来てしまう前に、お前の本当の居場所をオレの隣にしたかった。「お前の居場所ならここにあるだろ」なんてクサいセリフを言えたのかもしれないけれど…それは違うって、思った。それじゃ意味ないって、お前が選んでくれなきゃダメだって、そう思った。
お前が帰りたい、って言ったらオレに止める権利はない。オレはお前の背中をそっと押して、お前が望む場所に、お前が望む未来に、返してやらなきゃいけないんだ。だからこれは、オレのせめてもの悪あがき。せめてもの慰め。例え元の世界に勝てなかったとしても、お前がたったひとときオレの隣にいて、この世界でいちばんにオレを選んでくれたことの、証が欲しかった。
もちろん、このオレが易々と諦めるわけじゃない。いつかこの世界とあっちの世界をつなげる方法を見つけて、逢いにいく気でいる。その思いを口にしたら、監督生は嬉しそうに、待ってる。そう言ってくれた。
でもこれは確約にはできないし、彼女もわかっている。だから監督生が待つことを明言してくれても、オレははっきりとは形にしないまま、オレを待つ約束を求めないまま、お前を見送る。ずるいと理解していた。それでもオレはお前の幸せを願ってしまったし、____これは考えたくないけど_______もしも元の世界でオレより一緒にいたい人ができれば、迷わずにそいつを選ぶことを望んでいる。
きっと好きとか愛してるなんて言葉じゃ足りない。オレは最初から本気でお前が好きで、お前を守りたくて、お前を幸せにしたくて、叶うなら同じ未来を見たかった。この世界と元の世界にいる誰にも負けないくらいお前のことを大切に思ってる自信はあるんだけど……。強引にお前の腕を掴んで、引き止めることはどうしても考えられなかった。それに、オレなりに必死に頑張って、それでも届かないお前のことが、やっぱり好きだった。
………
「エース?」
「ごめん。ちょっと考え事してた」
「もう、ちゃんと話聞いてよ。もう一回言うとね…」
オレの膝の上にちょこんと座って、写真の載った本を広げている彼女の言葉は、やっぱり耳に入らなかった。今はこんなに近くにいるのに、一週間後にはこいつは呆気なくオレの前から離れていってしまうなんて、考えたくなかった。オレはするりと監督生のお腹に手を回して、ギュッと抱きしめながら小さな肩に顔を埋める。監督生はかっちりホールドされて少しだけ身動ぎした。
「ちょっとエース」
「ん」
鼻の奥に届く、お日様みたいな優しい匂い。気をつけないと壊してしまいそうな、柔らかくて弱くて小さな体。ちょっとクセのある髪の毛が顔をくすぐる。困ったような声がかわいい。大人しくオレに抱きしめられてるところだって大好き。
ああ全部、オレのもののはずだったのに。オレだけのものだったはずなのに。なんで元の世界になんかとられなきゃいけないわけ。大体元の世界から追い出したくせに。なんで、都合よく取り戻そうとしてくんの。
「ちょっと、離して」
「…ヤダ」
不覚にも意地を貼った言葉が震えた。バカみたいだ、どうしてオレが泣きそうになってんの。
「エース…?」
「監督生」
「なに?」
少しの沈黙。一音一音にGOサインを出す作業をして、時間をかけて言葉を選ぶ時間が必要だった。
「オレのこと、元の世界に帰っても忘れない?」
「……っ」
監督生が息を飲んだのが伝わってくる。
失敗した。こんなことを聞いても困らせるだけだ。監督生は元の世界に帰ると決めたのに、オレが未練たらたらなのがバレてしまう。発言を取り消したいと内心頭を抱えた。
でも次の瞬間には監督生の凛とした声が鼓膜を揺らす。
「忘れないよ。ちゃんと覚えてる。…約束」
「約束?」
「うん、約束。絶対忘れない。待ってるって言ったでしょ」
監督生はお腹に回っているオレの手を、安心させるように上からきゅっと握った。
やっぱり監督生はこういう奴だ。どれだけ不確かなことでも強い意志で断言する。そして、大抵のことはできてしまう。オレよりずっと要領悪いけど、オレよりずっと頑張るから、突然投げ込まれた知り合いの一人もいない異世界で彼女はここまで生き抜いてきた。
「あー……ほんっと、かなわねー」
そうひとりごちていると、遠慮がちに頭に何かが乗せられる。見れば、オレの手から左手だけを離して監督生がオレの頭を撫でていた。
「エースは、忘れないでくれる? あなたのそばにいた、オンボロ寮の監督生のこと」
「ったく、決まってんじゃん」
鼻が触れ合いそうな距離で言い切ってやった。そうしたら、彼女は心底嬉しそうに体を揺らして笑った。
「約束?」
「ん。やくそく」
「ふふ、やった」
「じゃあさ」
コツンとおでこを合わせてオレは続ける。
「もう一個、オレと約束してくんね?」
「できることなら、いいけど」
彼女は信じてる。オレが元の世界に帰るな、なんて言わないって。
それは悲しいけど、嬉しい。
大切なひとが、大切にされてるってわかっててくれることが、幸せなんだと思う。
オレはぐるりと彼女の体を回転させて、まっすぐ瞳を見つめた。宝石みたいなキラキラ光るその眼に、オレのチェリーレッドが映り込む。
「オレと、結婚してよ」
「………結婚?」
「そ。結婚」
それを聞いた彼女はパチパチとゆっくり瞬きする。
「でも、……」
監督生は何か言いかけて俯いた。しん、と沈黙が降りる。オレはさらりと彼女の髪を撫でて問いかけた。
「嫌?」
「嫌じゃ、ない。…嬉しい」
反応は早かった。こちらをしっかり見据えてくる瞳はわずかに潤んでいる。どきり、と鼓動が跳ねるのは無視して、にぃと笑って見せた。
「なら、いーじゃん。結婚してよ、オレと」
「……でも、すぐに元の世界に帰っちゃうんだよ? それでも、いいの…?」
「うん。いい。少ししか時間がなくても、オレはお前と結婚したい。また会いにいくときの印にもなるだろ。」
間髪入れずに答えた。その勢いに驚いたような彼女はぱちりと瞬きをした。
「エース…」
「ね、返事は?」
監督生は俯き加減に数秒考えた。そうして、震える声で回答する。
「……よろしく、お願いします」
「よし、決まり。ていうかお前、そっち気にするんだね。学生だから結婚はできない、とかなんとかいうかと思った」
「確かに、そうかも」
監督生はおかしそうに笑った。もういなくなってしまう、そう思ってしまうせいか今にも霞になって消えてしまうような印象を受ける。
「でも不思議だね。エースとなら、なんだってできるって思えるんだよ。結婚だってできちゃう気がする」
無意識に伸ばしていた手をきゅっと握られる。オレははっと息を呑んだ。その温かさは、柔らかさは、確かに触れている。
世界がオレたちを引き裂こうとも、世界の気まぐれが引き合わせたことはなかったことにさせない。オレたちがここで一緒に生きた証を見せつけてやる。二つの世界にしっかり刻み付けてやる。
◇ ◇ ◇ ◇
監督生が帰るまで二日。オレたちが出会ったときのような、快晴の日曜日。なんでもない日のパーティーがない特別な日。それが、挙式の日。
オレたちの『結婚式』に呼ぶのは、グリムとデュース。監督生と相談したけれど、お互いの意見は一致した。
「たくさんお世話になった人がいるけど、小さくて特別な式がいいな。どうかな?」
「いいんじゃね。オレもそう思ってた」
オレたちの約束を見届けるのは、こいつが縁をつないでくれた『マブダチ』であってほしい。ま、きっと特別かわいいだろう監督生の姿を見せたくないという気持ちもあったけど。手伝いに名乗り出てくれたオンボロ寮のゴーストたちを除けば、本当にいつものメンツだけの式になる。
「よかった。決まりだね」
オレたちは今日まで、あれこれと相談しながらささやかな儀式の準備をしてきた。監督生もオレも知り合いの結婚式に呼ばれたことはあったけれど、どちらも小さい頃のことで記憶は鮮明にはなくて、想像がほとんどだった。けれどその分、やりたいことがたくさん詰まったオレたちらしい結婚式になるはずだ。
オンボロ寮の庭。今にも壊れそうなボロボロの寮が今日はきれいに彩られている。式に呼ばなかったのにもかかわらず、駆けつけてくれた先輩や同級生たちが一晩で飾り付けてくれたらしい。オレも知らなくて、朝ここにきてみて呆気にとられてしまった。
「期待するんだゾ、エース」
先に花嫁姿を見てきたグリムがニヤリと笑う。真っ先に見られたのはしゃくだけど、同じ寮生だから仕方ない。最後の準備はゴーストたちが担ってくれるから、グリムも完全な姿はまだ見てないし。
「緊張してるか?」
黙ったままだったら、デュースが問いかけてくる。結婚式なんて何を着たらいいかわからない! と散々騒いでいた彼は結局制服に落ち着いたらしい。
「緊張してねーよ」
そう答えたけれど、心臓は今にも飛び出そうに暴れている。人生で一番緊張してるっていっても過言じゃない。告白した時だって訳わからないくらい緊張したけれど、今のこの痛いくらいの鼓動と落ち着かなさはあの時の何倍もある。
そろそろ時間だ。
がちゃり。
そう思った瞬間、ちょうどオンボロ寮の壊れかけの鍵が音を立てた。ゴーストがギイと音を立てながらドアを開く。
「………っ」
目に飛び込んできた妖精のような彼女に息を呑んだ。
そよりと吹いた風で真っ白なワンピースがひらりとはためいた。ゴーストお手製のベールには真っ赤な薔薇の花冠が映えている。そして監督生の手にもオレが作った薔薇のブーケ。当然似合っている。
スカートを普段あまり着ないといっていた監督生。それでよかった。こんな姿を誰かに見られたらと思うと可愛くもない独占欲が首をもたげてしまうから。
「どう…似合う、かな?」
こちらを真っ直ぐに見つめた彼女はへにゃりとはにかんだ。きゅ、と心臓が鳴く。オレは歩み寄ってぎゅっと抱きしめた。そうして監督生にしか聞こえないように声を潜めて伝える。こんな正直な感想、とてもあいつらには聞かせられない。
「…似合ってる。すげーかわいい」
「へへ、嬉しい。ありがとう」
照れながら喜んでくれる監督生が、世界一可愛いと思った。
オンボロ寮の前に設置された、ハーツラビュル寮協賛の真っ白なテーブルの上にはご馳走があっという間に所狭しと並べられる。監督生が前日から仕込んだ料理に、トレイ先輩をはじめハーツラビュルの先輩からたっぷり持たされたスイーツたち。スカラビアからはワゴンいっぱいのご馳走が届いた。三人と一匹では食べられないくらいだ。
式の最初は誓いの言葉。オレたちが誓う相手は神様でも招待客でもない。お互いにだ。グリムとデュースは二人の約束を見届けてくれることになる。だからオレたちなりの誓いの言葉を考えて、思いを伝え合った。
オレより緊張しているせいでゆらゆら入れ物を揺らしていたデュースから指輪を受け取る。高いものは買えなかったけれど、学園長の謎のつてでいいものを用意することができた。オレたちの名前が刻まれた銀色のリングは、きっと彼女に似合う。
監督生がゆっくりと差し出した左手を掴む。その手がわずかに震えていたから、こいつも緊張しているんだとわかる。そろそろと指輪を薬指に通していく。そして確かにピタリとはまった。オレは手を持ち上げて、か弱い指に口付ける。
唇を離すと、ほんのり染まった頬が視界に入った。あ、めちゃくちゃすき。瞬時にそう思う。
「ほら、お前も」
小さな声で呼びかけると、こくりとうなずいた彼女は指輪を受け取る。オレの手をやんわり握って集中する。二人の視線が向く中で、ゆっくりと冷たい輪っかが指をなぞっていく。こちらもしっかりとはまって、ふぅ、と監督生が張り詰めていた息をはいた。
「ありがとな」
「こちらこそ、ほんとにありがとう」
薬指でお揃いの指輪がキラキラ光る。リングには二人分の名前。元の世界に帰っても、オレの名前、忘れないといいな。ずるいけど精一杯の願いを込めて指輪を送った。
…………
「次はお待ちかねの…ブーケトスです!」
監督生が高らかに宣言すると、デュースとグリムがそろって手を叩く。監督生もにこにこしながらパチパチと手を打ち鳴らしている。
ブーケトスは監督生の希望によって行程に組み込んだイベントだった。幸せを誰かに届けたいというのはお人好しのこいつらしい。普通のブーケトスでは未婚の女性が参加するというのを調べて、できないかなぁと少し落胆していたけれど、どうにかさせてやりたかったオレがとっておきを考えた。
「じゃあ、投げます」
「はーい」
「よし! どんとこい!!」
本当の結婚式ではこんな風に宣言するのか、なんて疑問が脳裏をよぎったけど追求したってしょうがない。一人と一匹のゲストにはこれからやることを説明してあったのに、デュースはばちん! と手を打って腰を低くしていた。いやこんなブーケトス聞いたことない。後ろ向きになった監督生がえい、と掛け声を上げてブーケを放る。宙に舞った小ぶりで真っ赤な花束に向かって、オレは魔法をかける。狙った通りに空中でブーケが止まった。
「こっち向いて、お姫様」
その声にワンピースをはためかせて監督生がこちらを振り向く。それとともにポケットから取り出した白いハンカチを振る。練習の甲斐あって、真っ白な鳩が飛び出した。
「わぁ!」
監督生は短く声を上げる。
白い鳩は空中に止まった真っ赤な花束を掴んで真っ青な空へ上がっていく。
「ここには男しかいないからさ、未来の花嫁にお前の願いを届けに行ってもらおうと思って」
「すごいよエース! ありがとう」
監督生は今にも跳ね回りそうな満面の笑みである。名案があると言っていたけれど、こんなに喜んでくれるとは思わなかった。ニヤついてしまいそうな頬に力を込める。
「ま、オレに任せればお前のお願いを叶えるなんて朝飯前ってこと」
「ふふ、大袈裟だなぁ。でも全然こんなこと思いつかなかった。本当にありがとう!」
素直にお礼を言われると流石に照れてしまう。オレは監督生の頭を撫でて、上空に目を向けた。
「それじゃ、頼んだからな」
「よろしくね!」
そう呼びかけると、こちらを一瞥した鳩は飛び去っていった。ぱちぱちと拍手が起こる。振り向けば、デュースとグリムが笑顔を弾けさせていた。
「成功だな!」「成功なんだゾ!」
オレは後方にニヤッとドヤ顔を向けてやった。
……………・・
次の行程はウエディングケーキの入刀だ。真っ白なテーブルの上に鎮座している銀色の蓋の中に最高のケーキが待っている。早くもオレはわくわくしながら太陽を反射するドーム型を盗み見た。
「んじゃ、ケーキいくぜ?」
じゃーん! と丸い蓋を取り上げると、トレイ先輩に用意してもらった大きなチェリーパイが現れる。こんがり焼けたきつね色の生地。隙間から覗くぎっしり詰められた宝石みたいなチェリー。蓋の中に閉じ込められていた甘い匂いがふわりと香って、オレはゴクリと唾を飲み干した。
「なんでチェリーパイ?」
現れた『ウエディングケーキ』にすかさずツッコミを入れてくる監督生。オレに任せてくれるって言うから僭越ながらセレクトさせていただいた。
「だってオレの好物だし?」
「ショートケーキだと思ってた」
「え~いいじゃん。オレ、チェリーパイの方が好き」
ちょっと監督生は考えこんだ。んー、と唸ってから、にっこり笑う。
「ま、エースらしくていいかな。チェリーパイ美味しいし」
「だろ?」
二人で顔を見合わせる。監督生なら美味しければいいかって言ってくれると思った。彼女は立ち込めるいい匂いにあっという間に夢中である。テーブルの上に置いてあったナイフを取り上げた。
「では、入刀~」
さくりと小気味良い音を立ててナイフが沈む。一番の出来だから期待していろ、と誇らしげにトレイ先輩が言っていたけれど、これは本当だ。
「にゃはは! トレイもやるときはやるんだゾ」
グリムも椅子の上に飛び乗って手元を覗き込んでいた。
「おいグリム、オレたちが先だかんな」
今にも食べようとしている。ナイフからこぼれた生地のかけらにじりじりと手が伸びてきていた。声をかけると悔しそうにグリムが答える。
「むむむ、お前ら、さっさと食べるんだゾ」
なるほど。オレたちを急かすってわけか。それを聞いた監督生が笑い声を漏らした。
「ふふ、どうやら親分がお待ちかねみたいだね。早く切っちゃおう」
「はいはい」
さくさくと丁寧に切り分けたチェリーパイを真っ白なお皿の上に乗せる。チェリーの赤との対照が綺麗だった。
「うまそうなんだゾ…!!」
「ああ、そうだな…!!」
一応行儀よく座った一人と一匹のオコサマがオレたちを置いて目を輝かせていた。グリムばかりに目がついていたけど、デュースも狙っていたらしい。早く食べろと言わんばかりに揃ってこっちをみている。
「一緒に食べようよ、みんな」
「えーオレたちが先だろ?」
「細かいことはいいじゃない。おんなじだよ」
「…お前がそういうなら」
ちょこっとだけ不満だったけど、監督生が楽しそうだったからそれに免じて許してやることにする。
「ではでは。いただきまーす!」
「いただきます!」
先を争うようにグリムとデュースがチェリーパイにかぶりつく。あーあ、最初の一口はオレに決まってんだけどな。一口かじってみれば、さくりと生地が崩れて絶妙な甘さがいっぱいに広がる。やけに静かなもう一人の主役を横目で見ると、手を合わせたままチェリーパイを見つめていた。
「食べないの?」
「あ、うん。食べるよ」
「あれ、オレに食べさせてもらうの待ってたとか?」
「あーそれは待ってないかな。ちょっと思い出してただけ」
「ふぅん。つれないやつ」
「はいはいうるさいです。いっただきまーす」
フォークでひとかけらすくって口に運ぶ。思わずその様をじっとみてしまった。監督生はフォークを抜き取ってもぐもぐする。
「んー! 美味しい!」
味わってしみじみと感嘆の声が上がる。オレはそんな唇を素早く奪った。
「んむむ!」
ちゅ、と音を立ててキスすれば、ぐいぐい押されて引き離されてしまった。不本意である。
「お前一瞬別の男のこと考えたろ。お仕置き」
監督生が目を瞬かせた一瞬、慌てて引き剥がされた唇をもう一度塞いで、ゆっくり食む。舌で彼女の歯をなぞる。ほんのりオレの好きなケーキの味がした。その甘さもしっかり味わって、しっかりオレでいっぱいにしてやる。力の抜けた体がもたれかかってきた。そろそろこいつの息が尽きてしまうだろう、名残惜しくも解放してやる。
はぁはぁと空気を取り込む監督生の顔がチェリーの色に染まっていた。そのくせ、うらめしそうにこちらを睨んでくる。いたずら心が働いたオレは顎を捕まえて顔を近づけると、にぃと笑いかけた。
「トレイ先輩のケーキは確かにうまいけどさ、今はオレのことだけ考えててよ」
そのままぼうっとオレの方を見ている。熱に浮かされたような顔は心臓に良くない。ここにはグリムもデュースもいるのに、見られたらどうするつもりだろう。それにしても…
「ふ、かわい」
「!! き、きゅ、急にするのやめて! そもそも人の思考読まないで!」
放心していた彼女は急に戻ってきたらしい。ぷい、と別の方向を向いてしまう。耳まで真っ赤にしているのが丸見えだ。こんな反応されたらオレがますます喜ぶだけだって言うのに。ばーか。
「ふぅん、そのわりに嬉しそうだけど、オレの勘違いかなぁ」
「勘違い! です!」
「否定はや。そんなに嫌だった?」
体を傾けて、彼女の表情を不安を装いつつ窺う。しょぼん顔はオレの得意分野。目が合った監督生は気まずそうに視線を逸らした。そうして期待通りの一言。
「……うぅ……いやじゃないです」
「ほらみろ。オレの勝ちね」
満足したのでぷす、ともちもちのほっぺたに人差し指を突き刺すと、ようやくこちらの思惑に気づいたらしく声をあげた。
「~~~っ!! 謀ったな! ひどい!」
ムッとした顔になった監督生は、べちべちと肩を叩いてくる。やけにいい音がするけど全然痛くない。反応が薄いのを気にしたからか続けて闇雲に叩きまくる。べちべちべちべち。いやなんでオレ、結婚式で花嫁に殴られてんの? なんだかおかしくなってきて、思わず吹き出した。
「あはは……ほんっと、色気ねーな、お前」
「エースのせいです。恋する乙女にそんなことしないで」
「悪かったって。許して、ね?」
「あ、全然反省してない」
「反省してるって」
ね? お願い。そう顔の前で手を合わせて見せたら悔しそうな顔をされた。ちゃんとオレのお願い攻撃が効いてる。次男でよかったなーなんて言ったらめちゃくちゃ怒られそう。
「んーじゃ、特別に許してあげなくもない…よ」
「よし、サンキュ」
また監督生が怒った顔に変わりそうだったので、咳払いをしてごまかした。
…………
あれほどあった料理がグリムのおかげであらかた片付いて、テーブルの上にはお菓子とお茶、スカラビアからの果物が残っていた。
「いいでしょ」
紅茶を飲みながら、ふと監督生が指輪を見せびらかしてくる。なんだそれ。オレじゃなくてデュースやグリムに自慢するならわかるけど。
「いやそれオレもお揃いだからな?」
突っ込むと、監督生はううん、と首を振った。
「エースにつけてもらったんだもん」
「は――ー、お前なぁ…本当そういうとこ」
オレは突っ伏して頭を抱えた。この可愛さ、手に負えないんじゃないか。情けないくらいドキドキ心臓がうるさい。
「だ、大丈夫?」
監督生が慌てた声で呼びかけてくる。今顔を直視したらオレがどんだけ赤い顔をしているか一目瞭然だ。突っ伏したまま隣でイチゴのタルトを頬張っていたデュースの脇腹にパンチを入れた。
「んぐ!? な、なんだエース!?」
「……オレの花嫁が可愛すぎる…」
少しだけ体を起こしてデュースに訴えたら、なんとも言えない顔をされた。
その調子で、オレたちの小さな『結婚式』は進んでいった。いつもと変わらないたわいのないお喋りをしながら、とっておきのご馳走たちを食べる。結局あんまり普段のパーティーと変わらなくなっちゃったけど、まあいいか。そんなふうに思えてしまうのは、特別な存在がそばにいて、晴れやかに笑っているから。
絶対迎えに行くからな。オレは誓いを幾度も幾度も反芻した。
◇ ◇ ◇ ◇
翌日、満月まであと一日に迫った日に、オレたちは二人きりで思い出の場所を回った。「新婚旅行みたいかな?」冗談めいていった彼女に「そうだよ」言い切ってやった。蜂蜜みたいな甘さの時間はひと月分に負けず劣らず濃い一日だった。終わらなければいいのにといくら願っても、あっという間に太陽は地平の彼方に帰っていって、オレはほとんどかけていない月を睨んだ。
「待って」
オンボロ寮に戻ろうとする監督生の後ろ手を引いた。振り向く彼女をすっぽり腕の中に収める。いつも通りのあったかさ。いつも通りの柔らかさ。いつも通りのお日様の匂い。それなのに、明日にはこいつはいなくなる。いつも通りはがらがらと崩れて、オレの隣に当たり前のようにいるはずの監督生は元の世界で『いつも通り』を取り戻す。
「…エース」
消え入りそうな声が腕の中から聞こえた。きりきりと胸が痛んで、じりじりと眉間が疼く。
帰らないで。オレは喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。彼女は引き止められることを望んでいない。ずっと言い聞かせてきたのに今にも決心が揺らいでしまいそうだった。今口を聞いたらきっとガキみたいに泣き喚いて彼女を離せなくなる。後少しだけでいいから、こうして存在を確かめていたい。
監督生はぎゅっと抱き返してくる。頼りないその腕に今は縋り付きたかった。
なあ、オレはどこまで願っていい? どこまでなら……赦される?
元の世界に帰ったら、もう監督生は自由だ。オレがその様子をすぐに確かめにいくことはできないし、元の世界に帰すと決めたのだから一方的に束縛することだってできない。
はぁ、と大きく深呼吸した。言いたかった文言は大方炭素とともに吐き出してしまう。
「指輪、なくすなよ」
やっと絞り出した言葉は平然を装えただろうか。
「………もちろんだよ。大事にする」
そう答えた監督生はオレの背中をあやすように二、三ゆるりと撫でた。細い腕が服の布地に擦れてするすると音を立てる。
ずっと、このままでいたいのに。こみ上げてきそうなものを歯を食いしばって耐える。
……もし元の世界に帰ってすぐ。左の薬指の約束を、川に投げようとも、排水溝に落とそうとも、はたまた誰かに譲ってしまったとしても、オレは知り得ない。でも今の言葉で、絶対に手放すことなんてないと確信できる。
「好きだよ……、監督生」
「……うん」
ゆらゆら揺れた二音は、監督生の顔を見ちゃいけないと教えてくれた。その顔を見てしまったらオレは最後。お前を閉じ込めて元の世界に帰さないって言ってもおかしくない。月が満ちても狼にならないで、お前の幸せを願っていたいから。魔法よ解けるな。
そのまま抱きしめ合って、もう両の目から何も出てこなくなってから、オレたちはそっと身を離した。
◇ ◇ ◇ ◇
最後の日は当然のように訪れる。橙色をたたえた満月は今までに見たどれよりも美しかった。その美しさが恨めしくて、奇跡みたいな彼女にぴったりで、オレの気持ちも映し出していて、世界を繋ぐほど特別なんだと思わされた。
鏡の間にはオレとデュース、グリム、学園長、そして監督生と関わっていた先輩たちがちらほらといる。その一人一人と話して過ごしていたこの世界でのひとときも間も無くおしまいである。
そろそろ時間だ。
ふわり。
世界を跨ぐときもこれがいいと選んだ、白いワンピースがはためく。オレの一歩前で鏡の前に立ち尽くし、黒々とした鏡面を見つめていた監督生が、こちらを振り向いたのだ。彼女が不思議な絆を繋いだたくさんの人がいる中で、迷わずオレをまっすぐ射抜いている。
「……っ」
その表情にぐいと心が持っていかれそうになる。彼女が今にも泣き出しそうな目をしていたからだ。でもオレは指摘せずに、ポーカーフェイスからニヤリと笑って見せた。
「知ってる? オレは追われるより追う方が好きなんだぜ?」
その言葉を聞いた彼女ははっと目をみはる。そうして、ゆっくりと微笑んだ。まるで明け方に白い花が咲くように。その後でちょっと悪戯っぽく目を細めた。
「それじゃ、捕まえてみせて」
いつの間にオレの性格がうつったんだろうか。ま、お姫様はちょっと生意気な方がオレも盛り上がるけどね? 簡単に手の中に落ちてきたらつまんないじゃん。
オレはぽんと監督生の頭を撫でた。よしよしと撫でたら、気持ちよさそうににこにこ笑う。
「上等だよ、シンデレラ」
二人で正面に向き合って見つめ合う。周りを取り囲んでいた音も人影も消える錯覚。この空間に二人きりになったみたいだ。オレと監督生を結んだ赤い糸が見えた気がした。
「またね」「またな」
どちらともなく、再会を約束する言葉を告げた。もちろんこれでお別れじゃない。オレが本気になれば世界越えるくらいヨユーってもんでしょ。
監督生はゆっくりと離れていく。本当に帰っちゃうんだな。事実を噛みしめながらも、後悔は不思議となくて。やってやろうじゃんって、心の奥底が燃え上がるばかりだ。
ぱたぱたと駆ける音がする。監督生が突然こちらに走ってきた。忘れ物でも…と言おうとした刹那、首の後ろに手を添えられてぐっと屈まされる。反応する暇もなかった。そうして、ちゅう、と頬に柔らかいものが触れる。
「だいすき」
秘め事のように言い残して、オレが心を手放している隙に一目散に鏡に駆け寄って飛び込む。先輩に小エビちゃんと称されていた小さな体が鏡面に触れた瞬間、眩い光が鏡の間を包んだ。
閃光の中で、監督生は消えてしまう瞬間にはっきりとこちらを向いて笑った。オレを映した、どの世界の宝石よりも美しい瞳の輝きは生涯忘れないだろう。
「迎えに来るの、約束だからね」
そして跡形もなく、監督生は帰って行った。
全く、監督生には敵わない。本っっっ当に手のかかるヤツ! なんてね。
ねぇ、監督生。オレたちの出会いは運命だった?
……もちろんオレは運命だって思ってるよ。
もしお前も運命だって…あの秋の日のオレとの出会いが偶然じゃないって、信じてくれてたら。
いつかの未来でまた隣に立たせてくれるかな。
その答え合わせ、早くできるように本気出すから。
これはお前に言わないと決めた祈り。お前がどれだけ待っていると言っても、オレからはしなかった約束。だけど心の中で願うだけ赦してよ。
お願い。どうか、再会の未来まで待っていて。