心地良い御八つ山岡百介という人は、食事の際の所作が実に美しい。
商売には向いていない性分だと己に見切りをつけるまでは、生駒屋を継ぐために商家としてのいろはを叩き込まれていたのだと聞いた。
会食の機会も多いのであろうし、そういった作法は特に厳しく躾けられたのだろう。
どのような食事であっても、百介は綺麗に食す。
背筋は伸び、箸を扱う指は淀みなく動き、余計な音は立てず辺りは汚さず、無駄なく食物を胃の腑に収めていく。
そのような百介の様子を見るたびに、又市は感心すると共に居心地の悪さを感じていた。
仕草の一つ一つから、己とは生まれも育ちも違うのだという事実を突きつけられているように思えてしまう。
とは言え、又市だとて食事の作法はきちんと弁えているし、誰に見せても文句は言われないだろう所作で喰える自信はある。
しかしそれは、幼い時分に躾けられたからではない。
仕掛けに必要だからと、長じてより自ら学んで身につけたのである。
治平やおぎんと比べれば、何者かに化け何処かに潜入するという機会は又市にはそう多くはないが、それでもそういう場面が全く無いわけではない。
時には徳の高い坊主なんかに扮することもある。
そういった時、食事の所作がなっていないと、すぐに偽物と知れてしまう。
変装名人の事触れの治平が言うには、変装とは外見を取り繕うだけではほとんど意味がないという。
バレないために肝要なのは、見た目よりも所作である。
表情、姿勢、声の出し方、目の配り方、指先の動きから足の運び。
そういった動作の一つ一つがその人間を何者かにさせる。
だから又市は、仕掛けに使う「技」の一つとして、あらゆる礼儀作法は一通り学んで身につけた。
完璧な作法で食す百介を前にして恥を晒したりすることはない。
だが、出来るからと言って普段からやるかと言われたらそれは違う。
百介が自然と、当たり前のようにこなすことが又市にとってはそうではない。
気を遣わなくていい場面でまで、肩肘を張って飯を喰いたくはない。
元来、野卑な性質(たち)なのだろう。
そもそも飯を喰うことに喜びを見出すような性格でもない。生きるために必要だから喰う。礼儀作法だけではなく、食べること自体が又市にとってはそういうものだ。そういった根本的なところから、百介と又市は違う。
だから又市は、百介と面と向かって食事をするのが少し苦手だ。
気を張りたくはないが、わざわざ汚く食すところも見せたくはない。
それ故に、百介の前ではちびちびと酒を飲むことの方が多かった。
離れに赴く時は食事時は避けるし、土産に菓子を持参したりはするが、基本的に又市は手を付けなかった。
そんなことをつらつら考えながら、美味いと評判の大福を持って百介のいる離れへ向かう。
自分の喰う姿はあまり見られたくないが、百介が喜んで美味そうに食う姿は見たいと思うなんて、勝手なことだとは思うけれど。
心がじんわり温もっていくような彼の笑顔を思い浮かべて菓子を買い、離れの庭先で鈴を鳴らし来訪を知らせると、脳裏にあった笑顔よりずっと嬉しそうな顔をした百介が迎えてくれた。
土産を持ってきたから上がらせてもらってもよろしいですかい?と尋ねると更に百介の笑顔に輝きが増す。
本当に、この人の持つ眩しさには上限がないのでないかと思う。暗い夜の世界に生きる己にはあまりに強い光に、思わず目を細めた。
部屋にあがると、まだ新しい墨のにおいがした。
「書き物をしていたのですが、どうにも集中できず煮詰まっておりまして…又市さんが来てくれて助かりました」
「助かったって、むしろそんなときに上がりこんじまってお邪魔じゃありやせんでしたか」
「まさか!又市さんとお話していると