愛に似たものとても暑かったことを覚えている。初夏というには、まだ少しばかり早い時期。だが、その日はやけに暑かった。
高く青い空を見上げ、ふと脳裏を過る記憶。その記憶に蓋をするように視線を下げ、黒塗りの車の脇に立って待っている補助監督へと向ける。
「七海さん、お疲れ様です」
今日の七海の任務へ同行する補助監督は、まだ若い経験の浅い補助監督だ。
呪術師としてはまだ未熟な術師には、補助監督のサポートがより必要となる。そのため、ベテランの補助監督がそちらへ付くこともある。
逆に七海は呪術師として、すでにそれなりに場数を踏んでいる。一級呪術師となり、危険性の高い任務以外は、サポートの補助監督は経験の浅い者で構わないと高専に話している。
七海を労わってくれている補助監督の彼も、まだ若く経験は浅いが、背筋を伸ばして真っすぐに七海を見るその眼差しに、仕事への真摯な姿勢が伺える。
「お疲れ様です。終了報告を、お願いします」
「承知致しました」
補助監督の彼はそう言うと、七海のために後部座席のドアを開ける。外気はすっかり熱され、じんわりと日差しが肌を焼くようだ。どこかで一杯飲んでから帰ろうか。そんなことを考えて伊地知が運転する車に乗りこむと、車内の程よく冷えた空気に包まれほっと息をつく。不意に、スーツの上着の胸ポケットに入れているスマートフォンが震える。
右手を胸元に入れてスマートフォンを取り出し、そこに表示されている名前を見てため息を一つ。どうして任務を終えるタイミングが分かるのか。こういうことは珍しくない。なぜ分かったのかと聞いても、はぐらかされるばかりだ。
「はい」
スマートフォンをタップして、耳元に当てる。
「七海、お疲れ様!」
良く言えば陽気、悪く言えば暢気というようなよく知る声が、スマートフォンを通して耳へと流れてくる。
「五条さん……お疲れ様です」
ため息をつきながら、シートに深く背を預ける。窓の向こうを、ありふれた住宅街の風景が流れていく。比較的新しい開発地域の街で、南欧風というような洒落た佇まいの家が並んでいる。
家があれば、そこには多くの人の生活がある。日々、怒ったり悲しんだり、あるいは喜んだり。そういうあらゆる感情が、いつか呪いとなってしまう。今日の任務の現場は、住宅街の中にある、一見ごく普通の住宅だった。
「七海も、今日の任務は終わりでしょう?」
「……どうでしょうか」
今日の任務は、今終わった一件だけだ。この後は、帰って報告書を書くだけだ。だが、それを五条に教える義理はない。
「それでさ、僕も今日の仕事は終わったからさ、行きたい店あるんだよね」
「……聞いていますか?」
七海の返事などお構いなしに話し出すこのは、いつものことだ。せめてもの意趣返しに、深いため息を吐き出す。
「七海は、お酒飲めるしいいじゃん。優しい先輩の僕が奢ってあげるし」
「残念ながら、面倒くさい先輩しか存じ上げませんが」
「店の場所は送るから、じゃあ後でね!」
一方的に告げると、通話は切られた。プープーという、通話が切れたことを知らせる音だけが、スマートフォンから聞こえてくる。
「あの人はまた勝手に……」
後頭部を背凭れに預けて、目を閉じる。先ほど過りかけた記憶が、じっとりと肌を撫でていく。涼しい車内にいるはずなのに、身体の内に灯りだす熱を払うように息を吐き、手で目元を覆う。
「七海さんは五条さんの、高専からの後輩なんですよね」
ハンドルを握りながら、補助監督の彼が七海へ声を掛ける。その声音には、少しばかりの高揚感があった。
「まあ……そうですね。腐れ縁のようなものです」
七海が高専に入学したとき、一つ上の学年にいた先輩が三人。その一人が五条だった。すでに特級となっていた五条は、傲慢な顔でその強さを見せつけ、後輩たちになど興味はない。そんな顔で七海と、唯一の同級生だった灰原を見下ろしていた。
「あの五条さんの一つ後輩って、すごいですよね」
少し興奮したような声に、そんなことありませんよと流す。本当にすごいなんてものではなく、高専での記憶は沼の底へ沈む泥水のように昏く七海の内に沈殿している。時折その泥から顔を出すように、脳裏を侵し魘されて目を覚ます日もあったが、それもまた遠い日の記憶となっている。
「僕も、五条さんみたいな先輩が欲しかったです」
羨ましそうな声に、苦い笑いを噛み殺す。
「そんなに、良いものではありません」
七海が一級呪術師になったのは、確かに五条の存在が大きいだろう。五条と、そして五条の同級生であり親友、相棒だった夏油。呪術師になり立ての高専時代に、彼ら二人に扱かれ鍛えられたことは、呪術師としての七海を大きく成長させたことは認めざるを得ない。
だが、その代償も大きく、呪術師であることに一度は絶望し、呪術師であることを辞めた。呪術師など禄でもない。そう思った。だから辞めた。なのに、また呪術師として呪いを祓っている。その心持はどこになるのか。七海にも本当のところなど、分かりはしない。
手にしたままだったスマートフォンが、再度震えてメッセージの着信を知らせる。五条の言う、行きたい店の件だろうとメッセージを確認する。
「すみませんが、地下鉄の駅の近くで下ろして下さい」
「どこの線がいいですか?」
補助監督の彼に声を掛けると、すぐに返事が返ってくる。今は郊外を走っているため地下鉄は見当たらないが、もうしばらく走れば地下鉄が走る辺りには入るだろう。どこかの地下鉄の駅で下ろしてもらえば、後は乗り継いで五条の指定の店の最寄り駅までは行けるだろう。
「どこでも構いませんが、日比谷線だと助かります」
「分かりました」
五条が指定してきた店は、東銀座駅から近い。あの辺りは銀座の中でも、少し落ち着いている。お店の詳細を見ると、鯛茶漬けで人気の割烹のようで、鯛茶漬けなら酒にも合うなと合わせる酒のことを考える。
五条の家は呪術師御三家でもあり、由緒ある名家であり屈指の資産家でもある。また、五条自身も特級呪術師として、教壇に立つ今も任務を請け負っている。その報酬は莫大なはずだ。そんな五条は、七海の呪術高専からの先輩だ。七海を誘ってくるときは、いつも五条の奢りだ。軽薄そうに見えて、五条は後輩をご馳走することにお金を惜しむことはない。後輩の立場である七海は、遠慮をすることなく好きなだけ食べ飲むことにしている。その方が、五条も気分が良いと知っている。
だが、過る記憶が少しだけ足を重くさせる。記憶と共に、頭を振り払う。忘れてしまうべき記憶だ。五条とは何もない。あるはずがない。先輩と後輩。それだけでいい。
車が緩やかに止まる。歩道には地下への階段と、駅の案内の看板がある。
「日比谷線の入谷駅です。一駅で上野ですので」
もし乗り換えるのなら上野駅で、だが上野駅周辺は混み合うので車を停めるにはあまり良くはないだろう。そう思い、この駅に停めたということを理解する。乗り換える必要はないが、気遣いには感謝をする。こうした気遣いが出来るということは、補助監督としても優秀になっていくだろう。
「ここで大丈夫です。ありがとう」
礼を言って車を下りると、お疲れ様でしたという声が閉じるドアから聞こえた。走って去っていく車を見送り、地下鉄へ向かう階段を下りる。
ICカードを翳し、改札を通る。ホームに立ちひとまずは、電車を待つ。中心部からは少し外れた駅では、人はまばらだ。いくつか離れた電車の乗り口の目印に、若い女性が同じように立ってスマートフォンを見ている。その肩には、小さな蠅頭がじっと虚空を見上げている。あれほどの弱く小さいものなら、害を成すことはないだろう。そう思いながらも女性へと近づき、肩に軽く手を当てて蠅頭を祓う。
「すみません、こちらのハンカチはあなたのでしょうか?落ちていたので」
そう女性に声を掛けて、ポケットから出しておいたハンカチを手にして、女性へ見せる。
「あ……いえ、私のでは……」
女性が少し驚いたように振り返り、戸惑うように言う。
「不躾にすみませんでした。失礼しました」
そう言って軽く頭を下げ、女性から離れる。後ろから、あれ?なんか肩が軽くなった気がするとつぶやくような声が聞こえる。別に助けたなどとは思わないが、彼女が少しでも生きやすくなればいいと思う。
やがて滑るように電車がホームへと入ってくる。開いたドアから、電車に乗り入口の脇に背を預け立つ。大型連休中のはずだが、車内は空いている。混み具合に関わらず、電車や公共の乗り物で座る習慣はなく大概立っている。東銀座駅までは少しあるが、特段困ることもない。
ドアが閉まり、電車が走り出す。
五条は、なぜ七海を誘うのか。それは、学生時代から知る後輩だからだろう。本当にそれだけなのか。他にも理由はあるのか。
「そんなもの……あるはずもない」
こみ上げる苦いものを飲みこみ、ため息を吐く。五条との間にあるものなど、ただの先輩と後輩。それだけでいい。呪術師であるならば、よけいな荷物は命取りにもなる。
先輩と後輩として、食事をご馳走になり酒を飲む。それだけのことだ。
電車が東銀座駅へ着き、下りる。スマートフォンと案内で出口を確認し、そちらへ向かう。階段を上り外へ出れば、広い通りがある。それでもこの辺りは銀座の中心地に比べると、車も人も減り建物の密集具合も下がり落ち着いている。駅から十分も歩かないうちに、入口はきちんと整えられた庭木に囲まれて、店の看板が見える。門のような立派な構えからして、相当な高級割烹だと分かる。
五条に呼ばれて行くと、漏れなくこの手の桁違いの高級店だった。その辺りにも、育ちの良さが出ている。普通の会社員では、入ることもないだろう。一般の人は敷居を跨ぐことも許されない、選ばれた客だけが入ることが出来る。
暖簾をくぐり店内へ入ると、黒曜石の埋められた広い玄関口があり、上がり框には女将と思われる上品な着物を着た女性が、膝をつき迎えてくれる。
「五条様のお連れの、七海様でございますね」
七海が伝える前に、女性がほんのりとした柔らかい笑みで告げる。確認するような言葉ではあるが、七海であるということをすでに分かっているのだろう。
女性が立ち上がり、こちらですと告げて、歩き出す。その振る舞いもたおやかで、無駄のない動きはまるで舞台の舞を見ているかのようだ。
埃一つ見当たらない廊下は木目も艶があり、よく磨かれていることが分かる。都心とは思えない静けさに包まれ、まるで妖にでもどこか違う世界へ引き込まれたかと錯覚をさせる。
やがて女性が、一つの木彫りの施されたドアを開き、中へと招く。ドアの中にはまた廊下があり、すぐにまた両開きの襖があった。女性は襖の前で膝をつき、七海様をお連れ致しましたと中へ告げると、襖を開く。女性に促され、部屋の中へと入ると部屋の中央には大きな木を切り取ったテーブルがあり、五条が見慣れた軽薄そうな笑顔でそこにいた。
「七海~! お疲れ様!」
「……お疲れ様です」
これだけ立派な割烹なのに、五条の前に置かれたグラスに入っているのは、乳白色の色からしてあれはカルピスだろう。これほどの店に、そんなものを出させる。恐らくは通常メニューにはなく、五条のために用意をしたのだろう。
「アナタまた……勝手に人の予定を決めないで下さい」
「ご馳走するんだからいいでしょ?」
欠片も悪びれることなく言う五条に、今日何度目かのため息が出る。
「そういう問題ではありません」
五条に言ったところで聞くはずもないと分かってはいるが、それでも釘は刺しておく。そうそう何度も何度も呼び出されては堪らない。そもそも、五条もそれほどには暇ではないはずだ。五条は日本に三人しかいない、特級術師なのだから。
ではなぜ、そんな五条が七海をたびたび誘うのか。それは考えるべきではないと、五条の向かいに座る。
「まあいいじゃん!見てたサイトで、ここが鯛茶漬けで人気一位だったんだよね。だから食べたくなってさあ」
「鯛茶漬けですか」
やはり店の売りなだけあり、人気は高いらしい。しかもこれほどの店のものなら、鯛も新鮮で質の良いものを扱っているだろう。五条にはああは言ったが、美味しい料理と酒なら七海も吝かではない。
自分の限界も分かっている。気を抜いて飲みすぎなければいい。
そもそも七海は、酒に弱い方では決してない。酔い潰れるなんてことは、今までほとんどなかった。そう、あの日まではなかった。
また過りそうになる記憶を、慌てて打ち消す。あんなことは、もうない。あってはならない。
「僕は鯛茶漬け食べるね。七海も食べたいものやお酒も、好きなように頼んで」
後輩である七海との食事には、五条はいつも七海にお金は出させない。その辺りは、存外五条は面倒見の良い先輩と言えた。そしてどれだけの金額になろうと、五条の懐は痛まないのだろう。五条がどれだけの資産を持っているのか七海は知らないし、五条も普段からお金の話はしない。なるほど、本当の金持ちはお金の話はしないというのは本当なのだなと、五条で納得をしたものだった。
「では、遠慮なく」
人気一位という鯛茶漬けならぜひ味わってみたいと、鯛茶漬けをメインに酒のあての一品料理をいくつかと、日本酒を注文する。これだけの格式の店、しかも個室を使うような客に見せるお品書きには当然のように値段など入っていないが、そんなことは気にせず品書きにある惹かれるものを、言葉通り遠慮なく注文していく。そんな七海を、なぜか楽しそに五条が見ている。
テーブルに次々と運ばれて並んでいく料理は、目にも楽しい。日本の料理は芸術であると、改めて思う。
「ああ、確かに美味しいですね。鯛が良いし、出汁も上品だがしっかりと出てやさしいお味ですね」
鯛茶漬けはやはり、鯛と出汁が大事だ。ずっと飲んでいたくなる出汁は、細やかに出汁をとり澄んでいながらも、しっかりと出汁が引き立ち、塩気も程よい。この出汁だけで酒が飲めそうだ。
「うん、これは美味しいね!これ鯛のおかわりは出来ないの?」
子供のように言う五条に、空いた皿を下げている女性が、すぐにお持ち致しますねとにっこりと微笑んで返してくれる。とんだ我儘坊やにだって、丁寧に対応してくれる。
「七海が一級になったからって、任務振りすぎじゃないの?」
鯛茶漬けを頬張りながら、五条がぼやくように言う。
「そんなことはないでしょう。出来る人がやればいいだけです」
「そう言っておまえ、ずっと任務だったじゃん」
「報酬はいただいてますから」
「報酬って……」
実際、一級呪術師だって多くはない。一級呪術師である七海には、一級に振れる任務がほとんどだ。準一級呪術師で間に合う任務なら、準一級までの呪術師に振られている。それでも一級呪術師に振らなければならない任務には、それを請け負える呪術師が圧倒的に不足している。
「社畜だった七海くんは、お金ですか」
「それがすべてとは言いませんが、無いよりはあるに越したことはないでしょう」
酒で舌を湿らせて返せば、五条は頬を膨らませる。
「あんなに可愛いかった後輩が、こんなにも擦れて……先輩は悲しいです」
「アナタ、お酒は飲まないくせに酔ったんですか?」
今日の五条は質が悪い。適当にいなして、早々に切り上げるべきかと考える。
「酔ったせいにしてもいいよ」
何か引っ掛かる言い方に、頭の奥でチカチカと警告のように思い出したくない記憶が頭を出そうとする。
「アナタ……お酒は飲まないでしょう」
だから酔うこともないはず。白木のクーラーの中で、氷に半身を埋めて酒の瓶が冷やされている。瓶の中にはまだ半分は残っているだろう。お猪口に残っている酒を、一息に呷り息をつく。ここはどう立ち回るべきか、理性が思考を巡らせる。お猪口をテーブルに置く音が、やけに響いて聞こえる。
「ねえ、七海」
五条の顔を見てはいけない。シグナルが脳内に響く。ずっと上手く立ち回ってきたじゃないか。電話が掛かってきた振りをするかと考えて、スマートフォンは上着に入れたままで、今はそれも脱いで部屋の片隅でラックに掛けられている。思わず舌打ちをする。
「僕は覚えてるよ」
五条の手が伸ばされ、お猪口に添えた七海の手に触れ、その白い美しい指が手首を撫でていく。
「何の……ことでしょう」
カランと氷が音を立てる。クーラーの中の氷が、少し溶けてきたのだろう。先ほどまでは出入りしていた女性も、今は気配すらない。部屋の中には五条と二人だけ。
「七海だって忘れてない。あのとき、本当は酔い潰れてなんていないでしょ」
白い指が、あの日の熱を探るように、袖口の下の肌を舐めるように撫でていく。燻っている熱を、まるで分かっていると言うように。
「酔っていた……それでいいことです」
あの日も五条とこうして飲んでいた。あの日は、珍しく深く飲みすぎた。気がついたらベッドにいたことも、隣に横たわる姿に震えたこともすべて深く深く埋めてしまわなければ。
「僕は酔っていなかった」
「酔っていたんです」
間違えて酒を飲んでしまった。それでいい。掘り起こしたところで、何になるのか。愚かな男の醜態など、忘れてしまえばいい。
「ねえ、七海はそれでいいの?」
滑らかに喉を潤してくれた、酒の味も消えていく。五条の声だけが、頭の中を吹いていく。あの日はやけに暑かった。だが、今は空調の効いた部屋にいるはずなのに、あの日の熱が身体を、頭を火照らせていく。
「酔っていたし、何もなかった。それでいいじゃないですか」
思い出せないでくれと、叫びそうな衝動を抑える。呪術師であるためには、他のことに捉われるわけにはいかない。まして、五条はこの世界を背負うような男だ。
「僕は七海の先輩で、最強の呪術師で」
まるで歌うように五条が言う。
「でも、七海は僕を何者だと思っているんだろうね」
呪術高専からの先輩で、今は呪術師としての同僚でもあり、誰よりも強く美しい男。決して、穢されてはならない存在。
七海の手首を撫でていた手が、七海のその手を取る。やんわりと腕を引かれる。
「七海、僕を見て」
見てはだめだ。五条を見てはいけない。頭の中では、うるさいほどに警戒音が鳴り響く。身体の中で、あの日の熱が灯りだす。
七海の手は五条に掴まれたまま、その口元に持っていかれ、五条がやけに艶のある整った唇を開く。
「痛……!」
指先に軽い痛みが走る。七海の指先に、五条が歯を立てている。軽くとはいえ、跡は残っているだろう。
「ほら、これで何もなかったなんて言えないよね」
アイマスクに隠された五条の目は見えない。だが、その、目は笑っているのだろうと分かる。五条は今、術式も使ってはいないだろう。なのに、目には見えない何かが、七海を絡めとっていく。
「五条さん……」
忘れることも許さないと、その傲慢な顔で突きつける。あの日の熱が、身体を満たしていく。そう、本当は望んでいたのは自分だったじゃないかと、逃がさないというように自分を抱く腕の中で思い出す。忘れることなど出来ないのは、自分の方のくせにと愚かさを笑う。
「戻れなく……なりますよ」
五条が歯を立てた指には、赤く跡が残る。その跡を愛しむように、あるいは七海へ戒めるかのように、五条が舌で舐める。まるで獣のようだと、そっと自嘲する。
「戻る必要なんてないでしょ」
愛なんて綺麗なものでもない。まして、恋なんて可愛いものでもなく。互いに絡めとろうとする醜悪なまでに、強い執着。そんな泥沼のような情に、引きずりこみたくないと、そう思うのと同じほどに強く、誰よりも絡めとりたいと願ってしまう。
「私は……罪深いですね……」
決して穢してはいけない人を、穢そうとしている。それは、どれほどの罪だろうか。
「なら、一緒にその罪に溺れちゃえばいいよ」
唇が塞がれる。自ら舌を絡めていく。ああ、この人は私のものだと世界へ見せつけるように。
「七海……ずっと欲しかった……待ってた……」
捕まえたのは、捕まったのはどちらなのか。それはもう、どうでもいいことだった。この関係の先に幸福などあるはずもない。それも今さらだった。人としての幸福など望むなら、呪術師になど戻ってはいない。
五条の首に両腕を回し、熱に魘されるように互いを抱きしめる。今は、この熱だけがあればいい。
極上の料理と酒で腹を満たし、後は互いを貪りたいという肉欲だけ。五条は最初からそのつもりだったのだろう。どうするかなどの言葉もなく、銀座からほど近いタワーホテルの最上階にあるVIPルームに料亭を出て三十分もせずにいるのだから。
ドアがいくつもあり、キングサイズのベッドのある部屋は一体何畳あるのか。ガラス張りの窓の向こうには、百万ドルの夜景とでも言えるような夜景が広がり、置いてある調度品も一般家庭には決して見られない値が張るものだと一見して分かる。せっかくなのだからじっくりと部屋を見分したいところだが、そんな贅沢な部屋に着くなりベッドへ直行という、豪奢な部屋が泣きそうなこととなっている。
「…・・・つっ・・・・・・ん・・・・・・」
ベッドへと倒れこむように雪崩こみ、互いに奪うように唇を塞ぐ。互いの漏れる息遣いに、煽られるように口づけは深くなる。
現世で最強と言われる呪術師である五条悟。その男が今、取り繕うことも忘れて性急に七海を求めている。その事実に昂ぶるように興奮を覚える。
唇を割って侵入してきた舌へ、自らの舌を絡めていく。相手が女性だったときと違い、遠慮など必要ないだろう。
仕返しのように五条に舌を吸われ、頭の中まで痺れるような感覚に思考が霞んでいく。あふれてくる唾液を飲みこみ、それでも口の端から唾液が零れる。それすら気にする余裕もない。
互いの唇を貪ったままで、五条の手が性急に七海が纏うネクタイを外し、シャツの釦も外していく。スーツのジャケットはベッドへ向かう途中でとうに脱ぎ捨てている。
七海も手を伸ばし手探りで、五条の着る呪術高専の黒い上着の前を寛げていく。五条はすでに見慣れたアイマスクを着けたままだが、それは着けたままでも問題なないのだろうし、もし邪魔なら自分で外すだろうとそのままにしておく。
上着を袖から落とし、中に着ていたインナーの黒いクルーネックのシャツも脱ぎ落していく。その間に七海のシャツもすべて開かれ、胸元が五条の目に晒される。女性ではないのだから、恥ずかしいなどと思いもしないが、互いに肌を晒すことで本当にこの人と抱き合うのだと改めてその事実を飲みこむ。今度は酒のせいにもできない。
ようやく唇が離れ、それを惜しむように銀糸となった唾液が互いの唇を繋ぐ。端正に整いすぎるほどに整った美しい五条の唇が、唾液で濡れ光る様が淫靡で目を奪われる。
五条の手が七海の顔に伸ばされる。その親指が、七海の唇を撫でるようになぞる。
「いやらしい顔してる・・・・・・おまえがそんな顔するなんてね」
「それは……アナタもでしょう」
欲望を隠さない眼差しが、アイマスク越しにも刺さるように感じる。それだけで身体が高まっていいく。唇に触れていた手が、首筋を撫ぜていき、胸へと辿る。筋肉で盛り上がった胸が、五条の大きな手に包まれる。男の胸に変わりはないし、それは膨らんではいても女性のような丸みや柔らかさはないだろうと思うが、五条はそこを気に入ったようであの夜もしつこいほどに触っていた。
「いくら触ってもお男の胸ですよ」
七海からすれば男の胸など触ったところでと思うが、五条は感触を確かめるように何度も揉みこむ。まるでパンの生地を捏ねるようだ。
「そうだね。でも七海の胸だ」
すっごい気持ちいい……と、満足そうに言う声は本気だと分かる。手を伸ばし、七海も五条の肩に触れてみる。隔てる服もない。
「アナタ・・・・・・無下限切っているのですか?」
触れた素肌の感触に驚く。五条は常に無下限の術式を張り、身を守っている。その術式があるため、五条に直接触れることはなかった。
「今さら言う? キスもしたのに? 無下限してたらキスもできないよ」
「……それもそうですね・・・・・・」
そうか、この人は無下限を解かなければ、想う人と触れ合うことすらできないのかと、改めて思う。無下限を解くということは、命を預けるようなものかもしれない。無下限を解いても、五条は強い。体術ですら、七海が勝てたことはない。それでも、無下限を解けば、身を守る術をひとつ無くすということだ。
想い合えば触れて抱き合うという、ごく当たり前の行為ですら、この人には命がけなのかもしれないと思う。それはこの人を、どれだけ孤独にしてきたのだろう。
五条の肩を撫でる。ごつごつとした、男の身体だ。女性のような柔らかさなどまるでない。透けるような白い肌。長い手足に、無駄な肉など一切ない、鍛えられた身体。どこをどう見ても男の身体だ。七海も、男性をそういう対象に見たことはない。
だが、こうして五条の肌に触れ、その美しい身体を見て、自分が高揚していることが分かる。五条も同じなのかと思う。
恋だとか愛だとか、そんな綺麗な感情だなどとは思わない。そんなことに憧れる歳は、とうに過ぎている。
「無下限を切っても、おまえもいるなら大丈夫だろう」
ああ、ずるいと思う。この人は、分かっていて言うのだろうか。
「……それを言いますか」
尊敬はしない。だが、信頼も信用もしている。誰よりも強いと知っている。そんな先輩でもある男から、そう言われたならその言葉を裏切ることなどできるはずもない。言葉は呪いとなる。それを知っていながら、それを言うのか。
「七海も僕を縛ればいい」
七海ならいいよと、愛を囁くように五条が言う。互いに呪って縛り合えばいいと言うのか。
「アナタ・・・・・・本当に面倒な人ですね」
「そんな僕に付き合えるおまえも、大概だと思うけどね」
「……アナタには言われたくありません」
「おまえは可愛い後輩だよ」
声を出して笑いながら五条が言う。こんな五条を、どれだけの人が知るだろう。
「後輩とこういうことをしますか?」
「七海だから」
さらっとこういうことを言えるところも、ずるい男だと思う。
「では、可愛い後輩からのお願いです」
「なに? 七海のお願いなら何でも聞いてあげるよ。別れる以外は」
「……まだお付き合いもしていないと思いますが……」
「え? もう僕たち恋人でしょ」
一回寝たくらいで恋人面するなと、どこかのドラマか映画で見たようなセリフが頭を過る。五条に言ったところで無駄かと、ため息をつく。
「え!? 何そのため息?」
「いえ・・・・・・何でも」
どこまでが五条の計算で、どこからが違うのか。五条の思惑通りに運ばされるのは腹立たしいが、それもけっきょくは許してしまう自分もいる。割れ鍋に綴じ蓋などと思いたくはないが、この人の後輩として出会った時点で仕方ないのかもしれないと思う。
「本当に・・・・・・そんないいものじゃない」
昼に話した、補助監督の彼の言葉を思い出す。「五条悟の後輩」という立場を、誰かに譲る気もないが、無邪気に羨むようなものでもない。
「アナタは、アナタのままでいてください」
五条が五条悟であり続けるなら、七海もまたその側で呪術師であるだろう。その命が尽きるまで。ああ、これも五条を縛る言葉になるのかと自嘲する。まるで神の前で誓う愛にも似た。
「七海・・・・・・七海がそれを言うのはずるいね」
「そうですか?」
「そうだよ。僕は五条悟でいることから、逃げられなくなる」
「アナタは私の先輩の五条悟ですから」
「あー! もう!」
五条が唸りながら、自分の髪を掻きまわすように掻く。
「五条さん・・・・・・?」
髪を掻きまわしていた手を止めて、ふーっと五条が深く息を吐く。
「分かった。でも、僕が五条悟でいるなら、七海は僕の側にいるってことだよね」
ならいい。それならいい。五条がそう言うと、触れるだけの口づけ。互いを縛る、呪いの完成だ。呪術師である二人らしい、醜い呪い。それでも人は、それを愛と呼ぶのだろうか。