星に願うなら 今日は七月七日、いわゆる七夕の日だ。それにちなんだお祭りが行われるそうで、私は神楽さんから呼び出しを受けていた。
「神楽さん、ありがとうございます」
連れてきてくれた本人にお礼を告げる。浴衣も下駄もメイクも、すべて彼が用意してくれたものだ。
「別に。お礼なんていいから、歩き方に気をつけてよね」
ネイビーブラックの髪を揺らして、神楽さんはそっぽを向いてしまう。
やっぱり、とは思いながら。細やかな気遣いに嬉しくなってしまった。
(私が言ったこと、憶えててくれたんだ)
──忙しくて、お祭りに行く余裕がなさそうなんですよね。
本当に何気ないひと言だった。ともすれば、すぐにでも忘れてしまいそうな内容。でもそれを、彼は憶えていた。
(うん、可愛い浴衣だな)
菖蒲色の地に、大ぶりの牡丹。そして、ところどころに蝶の絵が描かれている。足と手の爪には桔梗色のマニキュア。メイクも統一感があって、パープル系がメインだ。
「ちょっと、何ボサッとしてんの。人とぶつかるでしょ」
神楽さんの声にハッとしていると、腕が伸びてきた。
「え、神楽さっ」
「君がボーッとしてるのが悪いんだから」
彼に手首を掴まれたのだと、遅れて実感する。でも、その力は決して強引ではない。あくまでも私のことを考えられている強さだった。
「あ、ありがとうございます」
「ただでさえ歩きにくいんだから、気をつけなよね」
「は、はい!」
でも、ふと思う。どうして庶民的なお祭りに、わざわざ私を連れてきてくれたのか。
(私に合わせてくれた? だとしたら何で?)
カランコロンと、重なって聞こえる下駄の音。子供たちの笑い声、喧騒。私はどこか懐かしい気持ちになるけれど、神楽さんはどうなのだろうか。
「……神楽さんは、どうしてお祭りに誘ってくださったんですか」
ぴたり、と歩みが止まる。彼が纏った紺の浴衣が、温い風に揺れる。そして、掴まれていた手首が離された。
「何でって、別に。深い理由なんてないけど」
「でも私、お祭りに行く余裕がなさそうだって言いました。だからなんですか?」
畳みかけるように問えば、神楽さんは言葉に詰まる。
聞くべきではなかったのだろうか。だけど、ハッキリしないままでは頭を悩ませてしまいそうで。
(……わかってる、無謀な恋だって)
こんなお誘いに舞い上がってしまうくらいには、想いが大きくなっている。メイクを施される時、そわそわと心が落ち着かないのも。全部、恋のせいだって。
「なーんて! すみません、急に変なこと聞いてしまって。忘れてください」
へらりと笑ってみせて、何でもないと装う。私は歩き出して、屋台にめぼしいものがないかと探し始めた。
(だって、つり合わない。だって、彼には決まった人がいる)
初めから、叶わない恋だったのに。
(バカだなあ、私)
こみ上げてきそうな何かを無視して、りんご飴の屋台で足を止めた。
「あの、りんご飴ひとつください」
おじさんに声をかけて、一のジェスチャーをする。
「すみません、やっぱりそれふたつで」
ハッとするのと同時に、後ろから神楽さんが訂正した。
「か、神楽さん……⁉︎」
「何? 僕が食べたら悪いわけ」
「え、いや! 悪いとかないですけど」
じゃあいいでしょ、と言いながら。神楽さんは、おじさんから飴をふたつ受け取った。
人ごみを避けて、神社の境内までやってくる。この辺りには人の姿はまばらだった。
「うわ、何これ。恐ろしく甘いんだけど」
「あはは、りんご飴ってそういうものですよ」
笑みを浮かべながら、彼が四苦八苦しながら食べているさまを眺める。
やっぱり、育ってきた環境も、今いる環境も彼とは違うのだ。あらためて思い知らされる。
(このまま、気づかれないといい)
どうか、彼は知らないままで。私の抱いている想いになんて、気づかないで。
ふと、濃藍に染まる空を仰ぐ。そこには、白磁色を垂らしたような星が瞬いている。新暦の七月七日は天気が崩れることが多いらしいけれど、珍しく今年は天気に恵まれたようだ。
(織姫と彦星は出逢えたのかな、なんて)
らしくない乙女的思考に、首を振る。非日常な出来事に、頭が思いきり浮かれているのかもしれない。
限りなくゼロに近い、手を伸ばせば触れられるような距離。
(明日になれば、元に戻るから)
時間をたっぷりかけて、ゆっくりとりんご飴を咀嚼する。
──だから、どうかお願い。もう少しだけ、二人きりの時間を過ごさせて。
七夕の夜に、願い事をするのなら。私は迷いなくそれを選ぶから。
******
『……神楽さんは、どうしてお祭りに誘ってくださったんですか』
彼女からの問いに、僕はすぐには答えられなかった。急に現実に引き戻されたような気がして、とっさに手を離してしまった。
顔を見ていなくてもわかる。菫色の瞳が、動揺に揺れていただろうことは。
(理由なんて、わからない)
口に出せる答えを、僕はこの手に持ち合わせていないから。ただ、そう。挙げるとするならば、彼女が知っている世界を見てみたかった。
(そうだ。僕が知らない彼女を、この世界から見つけ出してみたかったんだ)
でも、わかったところで意味がない。知ったところで、現実は何も変わらない。
残り少なくなってきた、手もとの緋色のかたまりを見やる。タイムリミットはもう近いようだった。
──都合のいい夢は、いつか終わる。
そんなこと、僕が一番よくわかっている。わかっているからこそ、先延ばしにしようとするのだ。
「……少しは気分転換になった?」
「へ、」
気を抜いていたのか、泉は間の抜けた声を上げる。
「少し前まで、立て込んでたんでしょ」
「あはは、さすがはRevelですね」
彼女がりんご飴をかじる。また少し、残された時間が短くなった。
「ありがとうございます。そっか、そういうことだったんですね」
泉の中で、質問の答えが繋がったのだろう。そう解釈するなら、それでもいい。
「服は、誰かの背中を押すものだから。君が明日も前を向けるなら、それでいいんじゃない」
「はい! 明日も頑張れそうです」
ココア色の髪を揺らして、泉は無邪気に笑みをみせる。
(そんなふうに、笑わないでよ)
目を背けようとしていた感情が、引き出されてしまう。
「ふぅん、そう。まあ、頑張りすぎて転ばないでよ」
憎まれ口を叩いて、残りのりんご飴を頬張った。ここまで引き延ばした時間も終わりを告げる。
(都合のいい夢は、もうおしまい)
夜空には、星が煌めいている。七夕の伝説は自業自得な気がしてしまうけれど。今日みたいに綺麗な星を見られたら、願い事でもしてみたくなる。
(どうか、願わくは)
──彼女の記憶に、今日の出来事が残りますように。
魔法なんて使えない無力な僕は、星に願うことしかできないけれど。
La fin.