ー いちご いちえ ー.
マイクを手にして数週間、
ラップの鍛練が欠かせない日課として定着してきた頃。
連絡手段を一切持たない空却との待ち合わせも、行き違いなく約束できるようになってきた。
前日のうちに一郎の仕事の予定を擦り合わせながら、おおよその時間と場所を決めて成立させている。
今日は一郎単独の仕事が前倒しで進んだため、事前に予定していた待ち合わせ時刻よりも早く到着できそうだった。
秋の夕方、気楽にどこまでも歩いていけそうな心地よい時間帯。暑さにも寒さにも苦労せず、穏やかな気候が嬉しい時期。
茜色に染まった夕焼け空を正面にむかえながら、一郎は空却との待ち合わせ場所である公園を目指す。
目的地までの道中、ビルの合間の路地裏。
一郎の背丈と同じくらいの高さで同じ色合いをした自動販売機、とその横にある小さなベンチが目に入った。
普段であれば気にも留めない、なんてことない街の一角。
それでも思わず目を留め足を止め声が出てしまったのは、待ち合わせ相手である相棒がそこに居たから。
「こんなところでなにやってんだ?空却。」
ベンチに仰向けで寝転がって分厚い雑誌を読んでいた空却は、体勢はそのままに目線だけを動かして一郎を見た。
「お?仕事おわったのか?お疲れさん。」
目が合ったのは一瞬。
一言だけ発した空却は視線を外し、再び雑誌の世界へと戻っていってしまった。
ー いちご いちえ ー
「は?」
ペースをまったく合わせようとしない様子に対し、一郎から思わず疑問の一文字が飛び出す。
そのリアクションすらお構い無しなのか、そもそも聴こえていなかったのか、空却からの反応は返ってこない。
ひとり寝転がるだけで満員になってしまうベンチに座ることもできず、一人でラップの練習をすることもできず、「なにをやってるのか」の答えを貰うことも出来ず、一郎は自販機の足元で高さ上げをしているブロック石に腰掛けた。
はじめからそうだろうとは思っていたが、空却が読んでいたのは漫画の雑誌だった。背表紙に書かれているのは来月の数字。それは紛うことなく、今週発売の最新の雑誌。
「……おまえ、また勝手に人様が買った雑誌を読んでるのか?」
「ちゃんと断りは入れた。」
「断り?」
「おー。」
「誰に。」
「雑誌に。」
空却は一切体勢を変えることなく、さらりと返事をした。
雑誌に断り?
はいスミマセン、あなたのこと読ませていただきますね、って雑誌に訊いたのか?いやいやいやそんなわけねぇだろ、と、脳内で自身にツッコミをいれつつ一郎は話を続ける。
「雑誌に話し掛けてどうすんだよ。そうじゃねぇだろ、雑誌の持ち主は居たのか?」
「居ねぇ。」
「どっかから拾ってきたのか?」
「いや、ちげぇ。」
「このベンチに、その雑誌だけが置いてあったってことだろ?」
「そう。」
「ならやっぱり勝手に読んでんじゃねーか!」
分厚い雑誌の終盤のページ
寝転がっていてはうまくめくれないとなってか、空却は体勢を変えて椅子に座り直した。
次回予告の隅々まで読み尽くす、そんな真剣さを感じる姿勢だった。そして、真顔で黄色がかった瞳を輝かせている。
これ以上ハナシを突っ込むのもほとほと面倒になった一郎は、残り数ページを読み終えるまで静かに目を閉じて待つことに決めた。
腕を組み、目を瞑り、なにも考えずにいると、周りの音だけがやけに鮮明に聴こえてくる。
道路を行き交う車の走行音。
通行人の会話や足音。
自販機のモーター音。
普段から行動も声も大きく激しい二人の間でも、こうした静けさに落ち着いた時を過ごせることがある。
互いの呼吸音でさえ環境音に溶け込むような穏やかな静寂。ひとときの安らぎでさえ得難い雑多な喧騒に満ちたこの地において、非常に貴重な無言の平穏。
突如、バタン、と勢い良く雑誌を閉じる音。
それは、本日の静寂の終了を知らせる音だった。
一郎が目を開けると、陽の陰りが進み、路地裏は暗くなっていた。まもなく日没を迎える。黄昏の空は紫と混ざりあう。
どうやら空却は、辺りが暗くなりきる前に間に合ったようだ。
「おし!読了!いま何時だ、一郎。」
「16時30分。」
「おぁ?なんだ、待ち合わせ時間までまだ30分もあんじゃねーか。」
「まぁな。」
「なら拙僧は一郎を待たせたことにはならねぇよな。」
「いや、なんでだよ。」
ケタケタと笑いながら説法を話す。
勢いの良い話しぶりとは異なり、手元の雑誌は丁寧に自身の横へと据えた。
拾ったわけでも、ましては盗んできたわけでもないのであれば、本当にこの雑誌はこの場にあったのだろう。
空却と一郎が出逢ってから数年。
マイクを手にしてラップで共闘する、その前から行動を共にしていたのだから、互いのことで分かることも自然と増えていた。
空却は時折こうして、街中で 捨てられた 雑誌や本読んでいる。
そして、決して拾ったり持ち出すことはなく、その場で読む。
万が一に持ち主が戻ってきて「勝手に読むな!その分の金を払え!」と責められた時にはどうするのかと問いただされても、
「そんなことにはならねぇよ。」
と言って笑うだけだった。
そんなヤツがいたら返り討ちに会わす、とか
そうなる前に走って巻く、とか
そういったことを言っているのではなく、
信じがたいことにおそらく本当に【そのようなことにはならない】のだろう。
今までに空却が、この類いで厄介ごとに巻き込まれることは無かった。
しかしこの理屈で説明のつかない事象に対し、一郎はイマイチ腑に落ちず、毎度毎度ツッコミを入れる。なぜだ?どうしてだ?と一郎は都度気に掛かる。
「雑誌だって、多くの人に読んでもらえるとなれば良いことじゃねぇか。今ここでの拙僧との出逢い、一期一会を大切に、ってなぁ!」
一期一会。
だからこそ大事に読みたい。
イマココで出逢えたのも、なにかの縁だ。
「もっともらしいこと言ってるようで、要は自分の金で雑誌を買えないってことだろ?」
「ぐ…お見通しか…。一郎も着実に修行積んでるな。」
「はいはい。で、今の所持金は?」
「自販機の飲み物1本は買える。」
「…1本だけかよ…。」
「そういう一郎だって、マンガ雑誌は買わねぇだろ?」
「…まあな。」
弟たちにも読ませてやりたい思いはある。しかし、雑誌となれば毎週のことになる。正直そんな余裕は到底ない。話の続きが気になって悔しい感情を抱くくらいなら、いっそはじめから知らない方が良い。
「空却は、話の続きとか、気にならねぇの?」
今週分を読んでしまったら、来週分…ともすれば過去分の話までも気になってしまわないのだろうか。
「気にはなるが、そう都合良く毎週読めるもんでもねぇからなぁ。」
「それでも、読みてぇの?」
空却の顔がパッと明るくなったのが、暗がりの中ででも良く分かった。
「それはそうだな。イマこの瞬間の話だって、知ればおもしれぇ。読めねぇ方が、それこそツマンネェ!」
空却は景気良く膝を打ち、よし、そろそろ鍛練に行こうぜ!と立ち上がった。
「逢魔が刻も過ぎたし、ちょうど良い時間になったな。おし!悪人正機、今日も拙僧がマイクを悪用するヤツらの心を鍛え直してやる!」
「さっきまで読んでたマンガ、バトルものだろ。」
「まぁな!」
茜色の空は今日も移り行く。
黄金に輝く黄昏を過ぎ、夕焼けは多色と混ざり合う。
紫、藍と深みを増し、日入りへと差し掛かればいよいよ空は色を閉じる。
今日と同じ夕景には、後生一生 出逢うことはない。
二度はない、一生に一度しかない巡り合わせ。
鮮やかな夕映えは、
いつも少年たちの背中を照らす。
明日の空は、今を生き抜く彼らに、どんな色を贈るのだろうか。
10月X日 日入り時刻 16時59分
【 一期一会 】
おしまい
2022/10/15 @ujinzuijn
ありがとうございました!