目が覚めた時、自分が何処にいるのか分からなかった。
ぼやけた視界で板張りの天井を暫く見上げて、ああ、と思い出す。此処は今まで暮らしていた家ではなくて、祖父母が暮らしていた古民家だ。外はまだ暗く、部屋の中は薄暗かった。
今何時なのだろうか。布団の中から手を伸ばして、スマートフォンを探る。すぐに堅い感触が指に当たる。ロック画面に表示された時刻は、午前二時を少し回ったところだった。いわゆる丑三つ時、空が白むには遠すぎる時刻。
「……寝よう」
くぁ、とあくびを一つこぼして、スマートフォンを元の位置に戻す。布団の端を持ち上げて肩までくるまり、寝返りを打った。まぶたを閉じてじっとすれば、とろとろと意識が溶けていく。微睡みに身を委ねようとした、その時だった。
――ぎしっ。
唐突に、音がした。
眠りの淵で緩く微睡んでいた意識が、ゆっくりと引き上げられていく。その音がどこから響いたのか、はっきりとは分からない、ただ、遠くではなく、すぐ近くで鳴ったような気がした。ううん、とうなり、もう一度寝返りを打った。どうせ気のせいだ、それか家鳴りだろう。長く息を吐いて、夢の世界にダイブしようと試みた、その矢先。
――ぎし、ぎしっ。
木が軋む、小さな音。板張りの床がわずかに軋む音。誰か、もしくは何かが歩くような音。それが、すぐ近くから聞こえてきた。気のせいだ、と言い切るには、あまりに音がはっきりしていた。
思わず、目を開ける。ここには隼人一人しか居ない、ネズミなどが出るとは聞いていない。誰かが訪れるような時間ではない。玄関の鍵も窓の鍵も、確かにかけた筈だ。
それでも、音は続いている。何者かが、廊下を歩いて回っている音がする。もしや、強盗だろうか。呼吸がひとつ、浅くなる。どくどくと心臓の鼓動がはやる。じわりと、冷や汗が背筋を伝う。そっと身を起こし、眼鏡をかけてスマートフォンを手に取った。画面を操作して、ライトを点ける。白い光が部屋の中をぼんやりと照らす。昨晩と何も変わらない、帰省の時から使っていた一室。
恐る恐る立ち上がり、廊下へ繋がる戸をゆっくりと開ける。スマートフォンのライトを向けると、廊下は静まりかえっていた。人の気配は、ない。
ならば、野良猫が入り込んでいたのだろうか。ほっと息を吐いた、その時、トンッ、という音が隼人の耳に届いた。バッと、音がした方を見やる。座敷の方向、襖を閉じた音だろうか。喉がひとりでに鳴る、落ち着きかけた心臓がどくりと跳ねた。やはり、何かが、居る。
廊下に足を踏み出した瞬間、肌にまとわりつく空気が変わったような気がした。湿気を拭くんだ生ぬるい空気、冷たさが少し混ざったような不思議な空気だった。
踏み出した足の先から、床板がきしりと鳴いた。スマートフォンの光は思ったよりも届かず、数歩先の輪郭を照らしていた。ほんの数時間前まで、何も不安に思わず通った廊下が、今は見知らぬ場所のように感じられた。
薄闇の中、目を凝らしても景色は変わらない。柱も、壁も、昼間に何度も目にした筈なのに、どこか違って見えた。歩いても歩いても。座敷はまだ遠い。この家の廊下は、こんなに長かっただろうか。昼間は十歩も進めば、座敷に辿り着いた筈だったのに。
「……廊下、長くないか?」
誰に聞かせるでもない独り言が、夜の静けさの中へと溶けていく。歩いても歩いても、景色が変わらない。柱の節目、壁に走る木目、そのどれもが数歩前に見たものと寸分違わずそこにある。どこからどう見ても異常事態だった。こんなことは初めてだった。
戻ろうか。そんな考えが一瞬、脳裏をよぎる。けれど、背を向けるのは嫌だった。この不可思議な現象に背中を向けて逃げたくなかったのは、生来の負けず嫌いのせいだろうか。
ゆっくりと呼吸を整えながら、もう一歩、足を前に出す。床板がまた小さく軋んだ。
もうコソコソと、相手にばれないように進むのはやめにしよう。相手が人間であったとするならば、どうにか一発蹴りを入れてしまえば良い。もし、仮に幽霊だとするならば、その時は自分の出せる最大音量で般若心経ハードコアバージョンでも熱唱してやろう。ぱんっと頬を軽く叩いて、前をしっかり見据える。ライトを消して、スマートフォンはスウェットのポケットにしまった。進んでも景色が変わらないなら、灯りはいらない。
足音を殺さず、ずんずん進む。暗がりの中突き進んでいっても、目に映るものはほとんど変わらない。それでも、何故か進んでいるという感覚はあった。このまま歩き続けることが正解のようにさえ思えた。と、その時だった。
――ひそひそ、くすくす、からから。
鈴を転がしたような、子どもの声。無邪気で、楽しげな笑い声。それが、闇の中から、あるいはすぐ傍から確かに聞こえてきた。ぞわりと背筋に鳥肌が立つ。けれど、隼人は立ち止まらなかった。さっきまで何もなかったのに、急に声が聞こえてきた。ということは、何か好転したということだろう。一歩、二歩、三歩。前を向いて、進み続けた。暫く歩き続けると、すぐ近くから再び、くすくすと笑い声が聞こえてきた。声の方に顔を向ければ、先ほどまではなかった襖がそこにあった。白地に猫柳の花穂模様が描かれた襖紙で彩られた、座敷の襖だ。
襖に指をかけ、そっと引く。音は静かで、木と紙が擦れ合うかすかな音が夜気の中へと溶けていった。かすかに開いた隙間から、畳みの匂いとほこりっぽい湿気が鼻をかすめた。
少しずつ視界が暗がりになじみ、やがて座敷の中央にいる二つの人影を捉えた。
一人は、銀にも見える白色の髪をした、赤と白の市松模様の着物を着た少女。もう一人は、黒と白のツートンカラーの髪をした白地の着物を着た少女。ぴたりと肩を寄せ合い、くすくすと笑い合っていた。囁き合う声は聞こえない、けれど、からからと、高い笑い声だけが静かな空間に反響していた。
隼人は息をひそめたまま、じっとその光景を見ていた。夜中の古びた家に、見知らぬ子どもが二人。けれど、奇妙なことに恐怖はなかった。代わりあったのは、困惑と興味が入り交じった、形の定まらない感情。不可思議な現象を起こしたのはこの二人なのだろうか、もしそうなら、どうしてか納得している自分がいた。
そっと、襖にかけた指に力を込めて、もう一寸だけ開く、その瞬間だった。
ぴたり、と笑い声が止んだ。二人が同時に、まるで合わせ加賀美のように、こちらを向く。二対の真っ赤な瞳、視線がまっすぐに隼人を捉えた。ぱち、と目が合った。
「あっ」
声がこぼれた。心臓がどくんと脈を打ち、足下がすっと冷える。額に、背中に、じっとりと冷や汗が浮かんだ。一歩後ずさったのは、無意識だった。
どうしよう、見てはならない怪異の類いだったのだろうか。中途半端な知識しかない素人一人が、どうにか出来る相手なのだろうか。やはり般若心経を歌うか。混乱した頭はろくな解決策を出してはくれない。ぎゅっと強く手を握りしめて、すぅーと息を吸い込んだ、それとほぼ同時に、ぱあぁっと、二人の顔に喜びの色が咲く。目が見開かれ、笑顔が一斉に咲く。
「加賀美くん!?」
「嘘、夜見たちのこと見えるの!?」
小さい肩がびくりと跳ねる、次の瞬間には二人して立ち上がって、ぱたぱたと隼人の方へ駆け寄ってきた。驚く間もなく、左右から小さい手がぎゅっと隼人の手をつかむ。華奢で、冷たいけれど暖かい手だった。
「嬉しいねぇあ! てっきり見えてないんだと思ってたよ!」
「ほんとだよ! 加賀美くん鈍感だからどうしようって話してところだったんだよ!」
「えっ、ちょっ……」
反射的に声を漏らしたが、抗う間もなくぐいぐいと引っ張られて座敷の奥へと連れて行かれた。拒絶する気持ちがなかったわけではない、だがそれ以上に頭が追いつかなかった。
座るように促され、困惑したまま腰を下ろす。少女二人は隼人を挟むように左右に座った。距離の近さに少しだけ警戒心が戻ってきた。二人は、じっと隼人を見上げて心底嬉しそうにニコニコと笑っている。
「大きくなったねぇあ」
「ねー。あんなに小さかったのに、立派になったね」
隼人は呆然としたまま、視線を泳がせた。どこかで聞いたことのある声のような気がする、だけど思い出せなかった。
頭の中は疑問符だらけだ。どうして自分の名前を知っている? 昔会ったことがあったのだろうか、それならば一体何年前のことだ? 彼女たちは自分よりもずっと幼く見えるのに。 疑問が波のように押し寄せる、けれど言葉にすることは出来なかった。
「夜見達が見えるってことは綺麗なまんまなんだねぇあ」
「私らが見えるのは嬉しいけどさ、夜見さん」
銀髪の少女が隼人の顔を覗き込むようにして、ふっと眉をひそめる。
「これ加賀美くん危なくない?」
「うん、危ないかも」
ぽつりと落とされたその言葉に、隼人は眉をひそめた。何がどう危ないのか、さっぱり見当が付かなかった。いつの間にか少女達の顔から笑顔は消えていた。眉をへたりと下げて不安に心配を混ぜたような表情を浮かべていた。
「……あの」
声を出すのに、喉が少しひりついた。赤い瞳がまた、隼人をまっすぐと見つめる。二人の視線が重くのしかかる中、戸惑いながら言葉を口にする。
「お二人は……一体……?」
二人はぴくりと瞬きををし、顔を見合わせる。そして、ふっと肩を落として、目を細めた。黒白の少女が、ふにゃりと表情を崩して微笑を浮かべる。
「覚えてないんだ、そっかぁ」
「そっか、まぁ、仕方ないよね。そういうもんだし」
「ね。というか、元服しても私たちのこと見えた人滅多に居なかったし」
「ね~」
うなずき合った二人は、ばっと顔を上げて隼人を見た。どちらからともなく姿勢を正し、少しだけ緊張した空気が生まれる。先に口を開いたのは、銀髪の少女だった。
「よし、それじゃ私から。……初めまして、葉加瀬冬雪です」
静かだけれど、芯のある声だった。真っ赤な瞳がきらり、と光って、にこりと綺麗に笑う。隼人は少し戸惑いながら、どうも、と小さく会釈を返した。
そのすぐ後、黒と白の髪の少女が、ぱんと手を鳴らして勢いよく名乗る。
「こんれーなー! はい!」
「こ、こんれーなー?」
初めて聞く単語をコーレスしないで欲しい。明るくて、無邪気で、勢いの良い声にたじろぎながら返した隼人に「もう一回!」と指導が飛ぶ。
「いくよー、こんれーなー! はい!」
「こん、れーなー……」
「はぁい、こんれーなー! 夜見れなだよ」
夜見はニパッと笑って、満足そうに頷いた。何を評価されたのか分からなくて、隼人は思わず苦笑する。賑やかな子だ。
「え、と、加賀美です……。今日、いや、昨日か……? 昨日から、この家で暮らすことになりました」
「うん、知ってる」
「大丈夫、この家でお話してたことはぜぇんぶ覚えてるからねぇあ」
二人の返事が早すぎて、言っている内容がいまいち掴めなくて、また一つ疑問が心の中に積み重なる。だが、それを表に出さないように隼人は努めて微笑を浮かべた。警戒が完全に解けたわけじゃない、けれど危害を加えようという気は微塵もないことは分かっていた。
「その、お二方は何故、この家に?」
隼人の問いに、二人は視線を交わしてから、また隼人を見つめた。
「えー、加賀美くんはお化けを信じますか?」
「妖怪は居るって思う?」
少し突拍子もない質問だった。でも、すぐに言葉を選びながらゆっくりと答えた。
「……見たことは、ないです。でも、居ないとは……思っていませんね」
今こうして人ならざる気配をまとった彼女たちの存在が、それを否応なしに裏付けている。目の前の現実に逆らう理由など見つからない。隼人の言葉に、少女達はぱぁっと表情を明るくした。
「うん、よかった!」
「この状況で信じてないって言われたらどうしようかと思ったねぇあ」
笑いながら言うその顔には、どこか安堵の色も滲んでいた。そして、葉加瀬と夜見は顔を見合わせて、同時に頷くと息を揃えて宣言するように口を開いた。
「では、よい子の加賀美くんに教えてあげましょう」
「私たちは、この家に憑いている座敷童子なのです」
夜見は胸を張り、葉加瀬は親指をぐっと立てて、どちらも誇らしげに言った。
「……座敷童子、ですか?」
隼人は思わず聞き返す。だが、彼女たちの言葉を思い返せば納得もしてしまう。帰省をした時に幼い隼人の姿を何度も見ていたのだろう。
「そう! 加賀美くんのおじいちゃん達が引っ越すかもって聞いた時は冷や汗ものだったけどさ」
「加賀美くんが住むって言ってくれて嬉しかったんだ~、引っ越ししなくてすんだねぇあ!」
夜見が小さく万歳をして、葉加瀬もそれに続いて手を上げる。仲良しな二人の仕草に、隼人はつられるように小さく笑った。
「でもでも、私たちが見えるとは本当に思ってなかったんだ。ね、夜見さん」
葉加瀬が小さく首を傾げながら、横目で夜見を見やる。
「ね、冬雪ぃ。悪戯したら気にしてくれるかなってお喋りしてたんだよ」
葉加瀬と視線を合わせて、夜見がにぱっと笑む。
「お喋り……じゃあ、さっき聞こえてた足音は、」
「葉加瀬たちだね」
「夜見たちだねぇあ」
あっけらかんと言う二人にどういう反応を返すのが正解なのだろうか。
にこにこ、からからと、悪戯が成功した子どものように笑い合う座敷童子達に、隼人は困り顔で微笑むしか出来なかった。
「あ、でも廊下は私たちじゃないよ」
「え? 違うんですか!?」
足音の主がこの二人なら、あの長い廊下の異変も座敷童子の不思議パワーでどうにかしたものなのだろう。そう思った矢先に否定をされ、大きな声が出た。現在時刻を思い出して、思わず口を手で覆っていると夜見が答える。
「うん、あれはねぇあ、えっと、はぐれ怪異、かな」
「はぐれ怪異」
初めて聞く単語ばかりの夜である。オウム返しする隼人に、葉加瀬が指を立てて説明を加える。
「そ、迷子の妖とか、うっかり出るべき場所を間違えちゃったやつのこと。たまに混乱して人に危害を加えるようなこともあるけど、大丈夫。変なことされる前に私たちが護ってあげるから」
さらりと出た言葉に、隼人は思わず息をのむ。先ほどから、この少女達の言動は不穏さと無垢さが高度に揺れていて、重心を何処に置いたら良いのかが分からなかった。けれど、護ってあげる、という一言には本気の気配が混ざっていた。
「……いや、それは……」
言葉を濁して、ちらりと二人を見る。どちらも背丈は小さくて、見た目はどう見ても子どもであった。
「……ちょっと抵抗がある、って顔したよね? 加賀美くん」
ぴたりと張り詰めた声に、隼人はびくりと肩を揺らす。視線を向ければ、夜見が目を細めてじりじりと距離を詰めてきていた。笑ってはいるが、どこか納得がいかないといった表情だ。
「小さい子どもに護られるの、恥ずかしいって思ったでしょ!? 言ってごらん、正直に!」
「ちょ、夜見さん、落ち着いて……!」
夜見をどうにか宥めようとしている隼人の横で、葉加瀬はじとりと赤い瞳を細め、溜め息交じりに言った。
「加賀美くん、私たち、見た目はこんなんだけど君よりもずっっっとお姉さんだからね。もしかして、見た目が幼いから頼りないって思ってる?」
「いや……ほんのちょっとだけ……」
「ちょっとだけでも思ってるんだねぇあ!?」
夜見が声をあげ、今にも拳を握りかねない勢いでぐっと近づく。たじろぎながら、どうにか言葉を探すがもはや何を言っても焼け石に水の気がしていた。
「……だって、見た目が、その……本当に子どもみたいだから……」
「子どもみたい。じゃなくて子ども扱いをしてるよね、今!?」
「だって、小さいんだもん……」
「仕方ないじゃん! 夜見たち座敷童子なんだから! 子どもの姿じゃなかったらそれはもう座敷童子じゃないんだよ!」
ぷんぷんと怒る夜見の動きに合わせて、ツートンカラーの髪が前後に揺れる。冬雪はというと、荒ぶる相方がすぐ目の前に居るからだろうか、静かに溜め息を吐きながら、じっと詰め寄られてわたわたしている隼人を見ていた。
「冬雪! これはもうお赤飯一升の刑じゃない!?」
「うん、お汁粉もつけてもらおっか」
「何でぇ……」
か細い声で言う隼人を見て、冬雪が笑った。それを見て、少し怒りが収まったのか、夜見も、全くもう、と呟きながら表情を緩めて笑う。そして、小さく伸びをしながら、再び隼人の横に腰を下ろした。
「ね、加賀美くん」
「はい……」
「今夜はこのままお話しようよ、私たち加賀美くんとお話ししたいこと山ほどあるの。ね、冬雪」
「うん。私たちのこととか、この辺にいる危ないやつのこととか教えてあげないとだもんね」
二人の視線がぐさぐさと突き刺さる、どうしようかと考えたのはほんの一瞬で。
「わかり、ました」
頷いた瞬間、二人の赤い瞳が輝いた。
「やったぁ!」
「じゃあじゃあ、厨でお茶にしようよ! 私ちょっと喉渇いちゃった」
「あの、来たばかりだからあまり物がないんですけど……」
「お水だけでも全然大丈夫、ほら、加賀美くん。行くよ」
二人に手を取られて立ち上がる。再びぐいぐい引っ張られながら、隼人は台所を目指して歩き始めた。