兄の横顔 遠い記憶だ。
日の落ちる一瞬前の、空が金色に染まる時刻。
わたしはモルガンの魔術工房を兼ねた小城にいて、ぼんやりと外を眺めていた。勉強の時間はすこし前に終わっていて、よかったきょうは折檻されずに済んだ――でもいまから怖く長い夜が来る……毎日同じことを考えていて、毎日同じように過ぎていく。
けれどその日は客人があったようだった。
窓からそっと見遣る。
兄だ。
白銀の鎧に身を包んだ兄がいた。グリンガレットは賢い馬だ。落ち着いた瞳で大人しく兄に寄り添っている。
兄はモルガンと話しているようだった。モルガンはあれでも我々の忌まわしき母親である。たまさかに気が乗れば母らしいことをしないでもない。ガウェインは何かを報告に来て、足早に立ち去るところなのだろう。こんなところ、一秒だっていたくはないはずだ。
いいなあ……浮かびかけた言葉を意識して沈める。
どうせモルガンからは逃れられない。そのように決まっている。十かそこらのわたしは諦観の味をよく知っていた。
夕陽がガウェインの頬を照らす。うつくしい横顔を形づくる線。すっと高い鼻梁、控えめに微笑むかたち良い唇。伏し目がちのまつげがきらきらと輝くようで――わたしは胸が引き絞られて痛くなるという体験をはじめてしたのだった。
驚いて思わずしゃがみこむ。
ドッドッドッと脈打つ心臓を押さえながら、そろそろと伸び上がる。注意深く庭を見下ろして――そこにはもう誰もいなかった。すでに馬上にあり、遠く駆けていく兄の背。遠く、遠く、遠い――兄上、兄上……!
「…………」
夜中だ。夢を見ていたのかと気づき、気づいた瞬間また眠気が意識を引っ張っていく。
カルデアに来てからずいぶんと経ったが、ガウェインはいない。まず最初に来そうなものだが、このカルデアには王の剣はいないのだ。
「……ガウェイン…………」
つぶやく声は掠れていて、空気と混じり合って消えていく。
ついでにすうっと眠気も引いていき、起きるか…と身を起こす。しんとした夜の空気。生前と違うのは、ここにはいたずらに迷惑をかけてくる妖精共がいないということ。モルガンもいない。心身の安全が脅かされることはほとんどない。
暗闇に目が慣れてきたようだが、いまのわたしに見なければいけないものはない。ぼんやりとそのあたりを眺めながら夢をなぞる。
そういう日が本当にあったのかもしれないし、なかったのかもしれない。けれどあの横顔は本当に知っている。
兄はわたしとは住む世界の違うおとぎ話のような存在だったが、あの横顔は実在したのだ。その事実がいまも私の胸の奥を熱くする。
兄上、そう呼びかけたかったのだろう。
物心つくころにはみなと引き離され、モルガンが世界のすべてだった。自分に兄がいることは知っていたが実感はなかったし、接点がなさすぎて身近になど感じることができなかった。それでも一度だけかの兄はわたしを弟と認め優しく名を呼んでくれたのだ。遠い遠い遠い昔に、たった一度。
――アグラヴェイン、元気にしていましたか。
次の瞬間にはもうモルガンに抱き上げられて言葉を返すことすら許されなかったが、あの瞬間たしかにわたしたちは血を分けた兄弟だった。
「ガウェイン……」
言葉を交わしたいなどとは思わない。理解されないままでいい。ただもう一度あのうつくしい横顔を、陽光を弾いてきらめくまつげを、穏やかで苛烈なエメラルドの瞳を見てみたいのだ。
遠くからでいいから。
「――兄上……会いたい…」