天鬼と八方子閃いた軍略を伝えるべく、天鬼は八方斎の居室へと向かっている。音もなく進む白い姿に、すれ違う者がみな畏怖したように道を開けた。
渡り廊下の中央に差し掛かったとき、奥の角から女がひとり出てきた。天鬼は一瞬立ち止まり、そして見間違いかと目を擦る。ぱちぱちと瞬きもしてみたが、それは見間違いではなかった。
顔がでかい。
妙に顔がでかいせいで、遠近感が狂ったように見える。
しずしずと品よく歩いてはいたが、その巨大な頭が異様だった。
天鬼が見えているのかいないのか、女は歩み続け、誰もが譲ったその中央を歩き天鬼とすれ違おうとした。
「そこな女」
なぜ声をかけたのか、天鬼自身にもよくわからなかった。気がついたら呼びかけていたのだが、女は二、三歩進んで静かに止まった。
「はい、なんでございましょう」
顔を伏せかしこまったその声は、天鬼の耳を混乱させた。
「おまえ、何者だ。この奥には八方斎さまの部屋しかない。……新しく入った女中か?」
訝しげな天鬼に、女は一歩下がって跪き、三つ指ついて頭を下げた。
「本日よりお仕えすることになりました、八方子と申します。どうぞお見知りおきを」
そう言って女は面を上げ、華やかに微笑んだ。
化粧をした八方斎の顔で。
からくりがわかった途端、天鬼の女への興味は煙のように消え失せた。しかし、疑問が残る。
「……何をしておいでです、八方斎さま」
「あらいやだ、八方斎さまではございません。八方子でございますよ」
笑う顔は、化粧のせいなのかなんなのかやけに美しく見え、天鬼は己の審美眼を疑った。
「は、ぽ、こ。……覚えていただけました?」
(きょうはこういう遊びをするのか。なんとくだらぬ。しかし主に応えるのが臣下の努め…)
醒めた目で八方子を見下ろし、そして一転にこやかに笑った。
その表情に目を見張ったのは八方子扮する八方斎で、土井半助を取り戻したのかとにわかに焦る。しかし、よくよく見つめた瞳の奥が冷たく冴え渡ったままなのに安堵し、そっと息を吐いた。
「……八方子とやら、きょうはこの天鬼に付き合え」
「てんき……。それではあなたさまがお噂の軍師さまなのですね。わたくしとしたことが、とんだ粗相をいたしました。ご容赦くださりませ」
(あくまでも女中の立場を崩さぬおつもりか。まあよかろうよ、……ここは退屈でしかたない)
「構わぬ。さ、こちらへ」
八方子を立たせ、もと来た道を戻っていく。その異様な組み合わせと、自らの首領の奇異な姿に、すれ違う者皆、開いた口が塞がらない。
どうやら八方子は初のお目見えだったようである。
天鬼は三歩あとをおとなしくついてくる八方子を引き連れ、領地全体を見渡せる見晴台へと向かった。
「見よ八方子。我らがドクタケの領地だ。城主竹高さまや八方斎さまの良策のおかげで、我らが領地はこのように栄えている」
八方子――八方斎はじっと天鬼を見つめていた。領地を見下ろすその瞳、氷がとけて愛しさの欠片のようなものがにじんで見える。
(民を、愛しているのか。なんとまあ滑稽な、おまえは土井半助をまことに忘れてしまったのか)
洗脳が巧くいっていることへの興奮と、己でも不思議なわずかな落胆。その視線をものともせず、天鬼は長い指でそこここを差す。
「八方子、よく見てごらん。田畑の青く繁るのを。ひとびとのよく働く様を見よ。……これらすべて我が城の恩恵あってのものなのだ」
愛しい我が子を見つめるように領地を見渡し、そして一拍置いて静かに告げる。
「励めよ。決して八方斎さまの邪魔をするな。万一に八方斎さまに仇なす者だとわかったときには、……私はおまえを斬る」
八方子を見下ろす瞳は氷のそれだった。
八方子がなにか言う前に一陣の風が吹き、天鬼の頭巾を、髪をいたずらに揺らしていく。そして八方子の緑の黒髪も。
「あっ、髪が……」
髪の乱れを気にする八方子に、天鬼はもうこれが誰でもよいと思った。
「八方子」
「……はい、なんでございましょう」
ほつれた髪を耳にかける。天鬼はものも言わずにその髪の束を指にとった。
「うつくしい髪だ」
はらはらと髪が風に舞い、八方子の元へ帰っていく。その様を眺め、天鬼は満足そうに笑った。
土井半助の笑い方とはまったく違うが、しかし彼を思い出さずにはいられない笑みだった。
「……天鬼さまさえよろしければ、八方子がお髪をとかして差し上げましょう」
半分冗談のつもりだったが、天鬼は穏やかな声でそうかと答えた。
後日、櫛を持った八方斎がいそいそと天鬼のもとへ来ては「天鬼よ、髪をといてやろう」と言うのだが、天鬼は決まってこう答えた。
「いえ、わたくしは八方子に頼んだのです。八方斎さまにそのようなことしていただくわけにはまいりません」
頑ななその言葉は天鬼なりの意趣返しではあったが、そこは八方斎のこと。すぐさま八方子に変化して、天鬼の髪に触れたとか触れないとか。