【再掲】むかしばなし「…肥えたか?」
開口一番のその言葉に、ヒュッと鋭い音を立てて棒手裏剣が飛んでくる。伝蔵がどうこうする間もなく、耳の真横、ずっしりとした柱に真っ直ぐに突き刺さった。
ビイン…と、金属の揺れる音が微かにし、帰宅早々唾を飲み込む伝蔵だった。
秘境ではまだまだ雪が残るが、外界では雪解けのはじまった頃だ。久方ぶりの我が家で目にしたのは、全体的にふっくらとした妻の姿だった。
「ややが、できたんですの」
静かに淡々と告げる妻は伝蔵をちらりとも見ない。細い指を腹にあててじっと見つめている。
「やや……誰の」
言ってからしまったとばかりに口許を押さえ、そして(ああそういうことをしたかもしれんなあ)と遠き出発前夜を思い返す。
あれからどれだけ経ったのだろう。妻に子が宿り、その子が妻の腹を押し広げるくらいには月日が経ったのだなとぼんやりと思う。
「で、ここで産むのか」
「さすがにわたくしでもそれは無茶ですわ。里に文を出したら産婆を用意してくださるらしいので、わたくしも一緒に山を降ります」
「その腹でか」
「動けるうちに」
妻は美しい顔でにこり笑う。言われてみれば家の中は妙に片づいていて、彼女はこの日を待っていたのだと実感させられた。
しかし伝蔵には父になるという感慨は浮かんでこない。薄っぺらだったはずの妻の腹。いまそこはうっすらと膨らみ丸みを帯びている。いったい何が詰まっているのだろうとただただ不思議に思うばかりだ。
けれどこうなってしまったからには仕方ない。いずれはこうなるだろうと思っていたのだから。まったくあっけらかんと頷き、伝蔵はやはり不可思議に妻の腹を見つめるのだった。
そうしてふたりは二日後に秘境を発ち、下界へ降りた。雪深い我が家のまわりとは異なり、花咲きほころびうららかな日がそそぐ光景に、妻の横顔がぱあっと色づいていた。
「きっと梅雨の頃に生まれてきますわ。名前はあなたが決めて差し上げて」
「……利吉だ」
「女だったら?」
「男に決まってるさ」
「そうね……わたくしもそう思います」
そう言って妻は柔らかく笑う。
里は一面満開の桜。風に揺られて妻の頬も薄紅色に染まっていた。
次に伝蔵が妻のもとに帰ったのはそれから三月あとだった。
妻の里へ駆け、飛び込んだ部屋のその中央に彼女はいた。その胸にはちいさな塊があり、一心に乳にしゃぶりついている。うまく飲めぬと、弱々しい、しかしはっきりと命を感じる声で泣き出す「それ」をまじまじと見て、ついで白い顔の妻を見つめ、そして伝蔵は詰めていた息を吐き出した。
「あなた、利吉です」
ふえ、ふえ、と泣き続ける子に乳を与えながら妻は言った。
利吉です、と言われたところで伝蔵にはやはり父になったという実感はない。
「家にはいつ戻る」
労いの言葉をかけることもできずにぽつりと呟く。妻は動じることなくにこりと笑って「雪が降るまでには」と答えた。
「あの家はわたくしがお守りするお約束ですから」
まだふにゃふにゃ言っているそれ――「利吉」をあやしつつふっくらとした胸を仕舞う。縦に抱いて背を何度か擦り、横にして口元を拭ってやる。そうしてそっと利吉を伝蔵に差し出した。
「……父上。利吉でございます」
差し出されるがままどうしていいかわからずに受けとる。怖い。こんなにちいさいのになんという存在感。強く抱けばたちまち潰れそうな芯のなさ。けれどちいさなからだは想像以上に重く、そしてなんと自分に不釣り合いなことかと打ちのめされた気分だった。
「あなたさまがお父上。そしてわたくしが母。ね、利吉。おまえの父上ですよ」
伝蔵の抱き方をちょいちょいと直して、繊細な指先が利吉の頬をつんとつつく。ふふふ……と笑った声が聞こえたのかそうではないのか、利吉は火がついたように泣き出した。
「お、おい、泣いたじゃないか」
焦って慌てる伝蔵に妻はあでやかに笑った。
「あやせばいいじゃありませんの」
そうして敷きっぱなしの布団に横になる。
「夜、眠れないのなんて平気だと思っていましたけど、忍びの頃とは何もかも違うようで……とにかくわたくしは寝ますから。おしめはそこに……」
目を閉じるなり妻はすうっと寝入ってしまった。
伝蔵は声をかけることも、助けを求めて腕を伸ばすこともできなかった。できたのはただ、変な汗をかきつつ、我が子らしき物体を落とさずに抱えていることだけだった。
*
その日、久しぶりに帰った我が家の軒下にちいさな子どもが突っ立っていた。
丸く赤い頬。棒切れのようなものを握りしめ、じっと庭の一画を見つめている。虫か何かでもいるのだろうか。それにしても大きくなった。立っている。前見たときは這っていたのに。
「……り、利吉」
できる限りの優しい声で利吉を呼ぶと、その子どもはまさに飛び上がって驚いた。
「利吉、父が帰っ…」
にっこり笑ったつもりだったのだが、利吉はぎゃああんと大泣きしながら家に飛び込んでいってしまった。何やら喚く声がして、ややあって妻が抱いてやってきた。
「無事のお帰り何よりでございます。利吉、父上にご挨拶なさい」
妻は促すが利吉はその首もとにぎゅうっとしがみついてちらりとも見ない。
「ひとつになったんですよ」
「……利吉がか」
「ええ。褒めてくださってよろしいんですよ。三つ指ついてわたくしにありがとうございますとおっしゃってくださっても全然構いませんのよ」
ほほ、と気丈に笑うその顔が疲れているように見えた。考えるより先にからだが動き、伝蔵は妻と子をふわりと抱いていた。
「……いま、帰った」
妻の求める労りと礼の言葉は気恥ずかしくてついぞ言えなかったが、それでも妻には通じたようだった。
「よくご無事で……」
二親の腕に抱かれた利吉は、不思議そうな目で伝蔵の髷を弄くっていた。
そのときの滞在はかなり長く、夏の盛りを三人はともに過ごした。
利吉は日を追うごとに大きくなるようで、そのうちに伝蔵のことも「家にいるひと」と認識したようだった。妻に呼ばれれば「あい」と返事をし、身振り手振りを交えながら奇怪な言語をしゃべっている。
伝蔵に判別できたのは妻を指しているだろう「はーあ」と、おそらく利吉自身を指す「ち」。そして「まんま」、言うまでもなく飯のことだが。それからいつの間にか庭に居着いた人相の悪い猫を指す「なあん」だった。伝蔵、もしくは父に相当する言語はまだ存在しないらしいと気づいたとき、妙なさみしさが胸をよぎった。
「利吉、おいで」
暇を持て余してちょいちょいと呼んでみると、利吉はすこし迷って、しかし次の瞬間には顔いっぱいの笑顔で伝蔵に飛びついてきた。
「えー」
そう言ってぐりぐりと頭を押しつけてくる。伸びはじめた髪がふわふわしていて、色あいも陽射しに透けて美しいと思う。命のかたまりを抱きながら、伝蔵はそれでもまだ父である実感に乏しい。
「え。うー、え!」
利吉は上機嫌で「う」と「え」を繰り返している。なんぞ気に入りの音かしらんと何の気なく思い、唐突に閃いた。
「おい、聞いたか! 利吉が儂を呼んだぞ」
大声で叫びながら妻のもとへ駆ける。利吉は目を丸くして伝蔵にしがみつくのに必死だ。
その頃には猫は我が物顔で部屋を闊歩していた。
「なんです、騒々しい。……あら利吉、いいわねえ。父上にだっこしていただいてるの」
ふくよかな頬をくすぐると、利吉はにっこりと笑う。そして妻に教えるように誇らしげに言うのだ。
「ち! えー」
「ち」で自分の鼻を指さして、「え」で伝蔵にぴたりと抱きつく。くふくふと笑うその顔に、妻の表情が輝くようだった。
「まあ、父上と言えるようになったの! なんて賢い子でしょう、さすがわたくしの子! さすがお父上の利吉!」
手放しで褒める妻であったが、それを言いに来たのに……と伝蔵は出番を奪われた気がしてがっくり肩を落とすのだった。
そして出立の日である。
いつもと様子の違う両親に、利吉はそわそわと落ち着かない。旅支度を終えた伝蔵の足にしがみついて離れず、妻が無理矢理に引き剥がした。
「イヤーーーー! え! えぇええ!」
ぎゃんぎゃん泣きながら伝蔵を呼ぶその姿に、はじめて父性と呼べそうな何かが芽生えた。
「さあ、お父上に行ってらっしゃいませのご挨拶をいたしますよ」
「や! イヤー! やあああん」
涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして、利吉は伝蔵に手を伸ばす。その泣き顔に、一緒に暮らしたはじめての夏が走馬灯のようによぎっては消えていく。愛しい我が子と思う自分にも気づく。
すっかり情がわいたちいさく愛らしい手を取りたかった。けれど触れたが最後、力尽くででも自分のところへ来て離れなくなることは何となく予測がついたので、泣き喚いて汗ぐっしょりの頭を撫でるに留める。それがまた癇に障ったらしくさらに号泣して苦笑いしかできない。
「留守を頼んだぞ」
うあああああ…と号泣しながら右手で伝蔵の薬指と小指を、左手で人差し指と中指をそれぞれ掴んで離さない。負けん気の強い子になるかな、と利吉の何年後かを思わず想像しようとして、しかしもやもやと霧のように散っていく。自分はまだこの子しか知らないのだ。赤ん坊がどうやって育つかだなんて、この子のことしかわからない。いまこのときしかわからない。
我が子だろうと、わからないものを夢想することのなんと難しいことか!
わからないだらけの命の塊にひとり向き合い続けた妻が眩しい。仏様のように輝いて見える。苦労をかけたなと思ったが、やはり言葉にはできなかった。
しばらくはぎゃんぎゃん泣き叫んでいた利吉だが、次第に落ち着いてきたのかすんすんと鼻をすすりながら伝蔵の手を解放した。お? と思っていると、今度は自分から妻の腕から降りようとしてもがいている。
そっと地面に下ろされた利吉は、伝蔵を見て、妻を見て、のんきに眠っている猫を見てもじもじと下を向く。ふたりしてこれからどう動くのかと見守っていると――涙のあともそのままに、膝を軽く折るようにしゃがみ、そのままちいさく頭を下げた。動くたびに顔のまわりの髪が頬にくっついていて、ただでさえ汗まみれの髪が洟でも汚れたが、利吉はそのお辞儀のようなものを二度、三度繰り返した。
伝蔵と妻は顔を見合わせ、そして同時に利吉を抱いた。別れの挨拶をしているのだと気づいたのだ。
「なんて賢い子。なんと強い子でしょう」
「……利吉、すぐに帰るから母上を頼むぞ」
両親に抱きしめられもみくちゃにされた利吉は満足げに、けれど照れたように笑い、そしてまた盛大に泣いた。
*
そして話は現在に巻き戻る。
「だからっ、たまには帰ってくださいって言ってるでしょうが!」
きょうもきょうとて、教員長屋の伝蔵の居室には利吉のがなり声が響く。脇に山のような洗濯物を携え、こめかみに青筋を浮かべる利吉を眺め、誰に似たのやらと顎髭をさすった。
「父上、聞いていらっしゃいますか」
「ん、ああ、そうだなあ……次のおまえの誕生日あたりには帰るかな」
建設的な返答に、お、と一瞬黙った利吉だったがふと気づいてまた牙を剥く。
「……半年も先じゃないですか! 母上がお怒りです。もう私じゃ無理なんですよ、お小言を聞くだけで誰かさんみたく胃が痛くて」
うーんと考えるふりをしつつ、その誰かさんに全部押しつけるか、と伝蔵は顎髭をもう一度撫でた。
「……おまえ、仕事は」
「一段落つきましたので、いまから帰るんですよ。だから、ここに、寄ったんです!」
ゆらり揺らめくどす黒い空気に、伝蔵は苦く笑った。
「わかったわかった。帰る支度をするから、その間に茶でも飲んできなさい」
「父上も一度聞いてごらんなさい、あの凄まじいお小言! ああ楽しみだ楽しみだ」
嫌味たっぷりに、しかし素直に食堂へ向かう我が子の背中を見送り、本当に誰に似たんだとひとりごちる。そしてその思考にいつの間にか父親になっていたのだなと、みたび髭を撫でつける伝蔵であった。
秘境では妻が腕組みして、仁王立ちで待っている。