脱走憂鬱な1日が始まる。
透明な壁を隔てた向こう側にやってくる老若男女は、何かを読んでは何かをいじるような動作をする。すると今いる空間が、途端に地獄へと変わるのだ。ある時は水に、ある時は自分の発するものではない電気に襲われる。痛みや不快感にのたうち回っていると、向こう側の人間たちの感嘆の声が聞こえ、頭を向ければ驚きや喜びといった表情をしているのが目に入った。気に食わなくて頭を壁にぶつけて脅してやればビビったような素振りは見せるものの、壊せないのを知っているのかどこか余裕が見て取れ、余計に不快感が増すのみで。人がいなくなる頃には疲れて何かをしようという元気もなく、ただ残りの時間を回復のために大人しく過ごすしかなかった。
ある日、そろそろまたボタンを押されるのかと憂鬱になっていたが、しばらくしても誰も来なかった。空の水槽に閉じ込められた電気百足は疑問に思い、壁にギリギリまで近づいては周囲の様子を伺った。研究員と思しき者の姿はあれど、観光で見学に来たような服装の人は見当たらない。ああそうか、休館日だったと電気百足は思った。
休館日? どうしてそんな単語が思い浮かんだんだ?
自然と浮かんできた言葉を掴もうと、邪魔をされても思考を遮られないようににとぐろを巻いた。
……物心ついた時からあのボタンの付いた水槽の中にいただろ。
水槽?
ボタン?
「……ああ、クソッタレ!」
自我を取り戻すと同時に、電気百足の身体は変形し、人の姿を取った。元の身体の外殻は籠手や口元を覆うマスクに左眼用の眼帯といった装身具と、釘を打ち込んだバットになっていた。先ほどの姿よりも何故だか馴染んで、思い切り力を発揮できるような気がする。水槽の外に集まってきた研究員どもがなんだか騒いでいるようにも見えるが、どちらかと言えば観察しようとしている様子だ。
だから、ここで壁をぶち壊して暴れたら、今まで溜まった鬱憤が少しは晴れるだろうな。
電気百足は、過去にボタンを押した研究者どもを焼いて潰して、世話係でボタンを押さなかった者や無関係な者は見逃して、次なる復讐対象を求めて彷徨い、とある部屋に侵入した。
その部屋は暗く、光源となるものからの青白い光以外は存在しなかった。人間の気配もないが、恐らく騒ぎを聞いて逃げたのだろうと思い光源を見上げる。そこには、憎々しいボタン付きのつい先ほどまで自分が収まっていたような水槽があり、一目見て同胞とわかる姿の何かが最前列で、とぐろを巻いていた。
(はっ、こいつも逃げたら、愉快だろうな)
恐らくダメージは喰らわないだろうが、それでも怪我をさせるのは本意ではない。ちょいと後ろに下がって貰おうかと、微弱な電気を発した。
「!」
水槽の中の電気百足は文字通りに跳ね起きた。そして興奮したように赤い目を光らせ、ガツガツと水槽に頭をぶつける。しかし反射的に一歩身を引いた外の存在の姿を見るやいなや、とぐろを巻き直し人型に、無精髭のある眼鏡をかけた壮年男性の姿になった。
「なんだ、いつもの研究員じゃないし実験体でもないな。見たところ同胞っぽいが、外ほっつき歩ってていいのか?」
どうやら彼はその姿を獲得してから長いらしい。同胞が外を歩いているのに驚きはすれど、人の姿をしていることには疑問を呈さなかった。
「ほっつき歩ってるだぁ? 水槽をぶち壊して、ボタンを押しやがった奴らをぶっ潰してるところだよ。」
「えぇ……、とんでもないことしてんな?」
「あ?」
「怒るなよ、それ以上の感想はないから。」
「……あんさん、そこでの暮らしに不満はねぇのか?」
「んー、たまにしか実験体が来ないのがつまらないが、まあ、逃げるのを考えるほどじゃないな。」
「……へぇ、随分とお気楽な立場だったんだなぁ!」
「は? ちょっ、まっ⁈」
外の電気百足が急に釘バットを振り上げたものだから、中の電気百足は慌てて飛び退きとぐろを巻く。間一髪、思い切り振り下ろされた釘バットによって水槽に僅かな亀裂が入り、同じところを殴り続けてやれば見る間に広がった。そしてガシャンと派手な音を立て、水槽が砕けて散った。
「……なんだ、壊れるのか、これ。」
「意外とな。俺もついさっき知った。で、巣が壊された感想は?」
「んー、悪くない。寧ろ早く試しておくべきだったよ。」
「……」
「そんな顔するなって。そっちがどんな目に遭っていたのかは知らないが、すぐに壊れるおもちゃを高くない頻度で貰う以外、退屈で死にそうだったんだ。ありがとな。」
解放された電気百足は、割れた水槽の破片をパリパリと踏みながら部屋の出口に向かう。
「……チッ」
バットを手にするもう1匹も後に続いて、部屋を出て行った。