いつからだっただろうか。道で犬を散歩している人とすれ違ったときに繋がれていた首輪に視線が向くようになったのは。
いつからだっただろうか。依頼人の家に訪れたときに飼われている猫を見て何よりも最初に首輪を見てしまうようになったのは。
考えたところで明確な日付までは思い出せなかったが、自分の願望には気付いてしまった。こんな自分、新橋さんと出会わなければきっと一生表に出ることはなかったに違いない。
日曜日に新橋さんの家を訪れれば今日は素直に迎えてくれた。どうやら今回は会っていない間に彼の被害妄想が自分を疑うといった方に向かわなかったらしい。それならば話を切り出しやすい。
初めて訪れた時よりも幾分か慣れた手付きで運ばれてきたコーヒーに口をつけてから一つの箱を取り出して新橋さんの目の前に置いた。特別な包装もない見た目だけなら質素と言われても否定できない箱を新橋さんは訝しそうな目を細めながら見ていた。
「……何なのですかこれは」
「先日誕生日だったでしょう。その贈り物です」
自分がそう告げれば彼は驚きから目を少しばかり見開いた。こういった類の反応をされることは想定内なので何も言わずに新橋さんの言葉を待つ。
「俺は貴様に誕生日を教えてなどいませんが?」
「島から出てあなたのことを調べているときに知りました」
警戒心を隠すことなく告げられた言葉に一切の間を空けずに答えを返した。ここで間を空けすぎると新橋さんが誤解してしまうことはさすがの自分でも学んでいたことであり、あらかじめ用意していた事実だからである。
実際に調べていたときはこうして直接祝うことが出来るような関係にまでなれるとは思っていなかったが。
「……探偵様が調べたことを勝手に漏らしてしまうとは、どうやら仕事の教育が行き届いていらっしゃらないようで」
「新橋さんのことを調べていたのは自分の独断で仕事ではありません」
仕事ではないものに守秘義務は存在しないだろう。そもそも自分が新橋さんに会うまでの過程で知り得たことは誰にも教えていないし、教えるつもりもない。
本当に、心の底からの善人ならば事故として処理された事柄に対しても罪を償うよう告げるのかもしれない。でも、新橋さんはいつだって自分を善人でいさせてくれない相手なのだ。それならば自分と彼の心の中にだけ秘めていたっていいだろう。だって自分は多分もう新橋さんが他に何を隠していたって彼を本気で咎めることは出来ない。法なんかより優先してしまう程には新橋さんを好いているという自覚がある。
それに、結局のところ自分が調べていた理由なんて一つの言葉に集約されるのだ。
「あなたに会いたいから調べていたのです。そして、あなたのことを祝いたいから調べる過程で得た情報を利用しました」
悔しいのか、嬉しいのか、どちらともつかない表情を浮かべた後に新橋さんは静かに力を抜いた。何の飾りもない自分からの贈り物に手を伸ばす。どうやら受け取ってくれるらしい。どんな問答があろうと最後には受け取ってくれると信じていたが、実際に触れてもらえると安心する。
……存外、自分は緊張していたのだろう。この状況になってようやく実感した。
「…………中身を確認しても?」
「はい、どうぞ」
中身の想像がつかないのか新橋さんが重量を確かめるみたいに箱を軽く持ち上げてから、恐る恐るといった風に箱を開けた。自分からの贈り物をその視界に入れた後、新橋さんは信じられない物を見たと言わんばかりに自分の顔を見た。
もう自分には次に何を言われるか想像がついてしまう。
「貴様はクソ馬鹿であらせられる? ああ、いえ、間違えました。疑問ではなくクソ馬鹿であらせられましたね」
「自分なりに真剣に考えて選んだのですが」
「真剣に考えてこれということがおかしいということに気付けないほど常識が欠如しているとは思いもしませんでした。そ、その……恋人への誕生日の贈り物が首輪とは何を考えていらっしゃるのです…!」
「新橋さんを自分に繋ぎ止めておける方法を考えた結果です」
「なっ、貴様は俺が他の相手に現を抜かすような人間に見えるというのですか!」
心外だと言わんばかりに新橋さんが怒りを露わにした。……何もしていないのに被害妄想でいつも疑われているのは自分の方だと思うのだが。
「見えません。新橋さんが自分以外に目を向けようものなら首輪を贈るなんて悠長なことはせずに、抵抗なんて無視してすぐに家に連れ帰って一生自分の部屋で飼って差し上げます」
「……貴様の部屋は随分と居心地が悪そうですね」
「ここと比べれば少し狭いかもしれませんが、慣れれば悪くはありませんよ」
新橋さんはそっと首輪を持ち上げた。箱と同じで飾り気はないが、彼がよく来ているシャツと同じ赤色だ。しばらく眺めていると新橋さんが急にハッとしたような顔でこちらを見てきた。顔は明らかに羞恥で赤く染まっている。
「こ、この変態! こんな物を渡すだなんて貴様はそんなに、俺を、俺との仲を見せつけたいのですか!?」
突然告げられた新橋さんの言葉を自分は理解出来なかった。新橋さんが恥ずかしがってしまうだろうからと、自分には新橋さんとの仲を誰かに見せつけるつもりは一切ないのだけれど。
自分が首を傾げると新橋さんは誤魔化すなとでも言いそうな顔を浮かべて言葉を続けた。「首輪を贈るなんて装着しろ以外のなにものでもないでしょう!? そ、それで外を歩いて見せびらかすおつもりなのですね! は、はしたない…!」
……なるほど。どうやら新橋さんの頭の中では自分は新橋さんに首輪を着けて外を一緒に歩く人物だと思われているようだ。島で彼と自分と繋いでいたときとは違って、自分はもうすでに新橋さんに一部を握られていると思っているというのに。
「ぃ、いくら貴様といえど、そこまでのことを許可した覚えは…!」
「新橋さん、誤解です」
「何が誤解だと言うのですか!」
怒っているのに首輪から手を放す素振りが見えないことに嬉しく思ってしまう。今それを告げれば手を放されることが目に見えているから口には出さないが。
「確かに自分は新橋さんに似合うだろうなと考えながらその首輪を選びました。しかし、それを着けてほしいとまでは考えていませんでした」
「…………」
新橋さんは怪訝そうな顔で続きを促すように視線だけで訴えてきた。
「新橋さんはすでに自分の大切な思い人だと自覚してほしくて贈りました」
「……なっ、何を言って」
耳まで赤く染めながら首輪を持つ手が震えている。もう一押しだ。
「その首輪から繋がる先は目に見えなくとも自分が一生握っています。例えあなたから離せと言われても離しませんし、もし自分から逃げようとしたらお望み通り新橋さんの首に着けてしっかりと紐で結びましょう。島での時とは違って今度は絶対に新橋さんでは抜け出せないようにします」
そっと片手だけ手袋を外すとそのまま新橋さんの首に触れた。いくらか普段より速くなっている脈が伝わってくる。
この人に首輪を着けることが出来るのは自分だけで、他の誰にもよそ見なんてさせない。そんな気持ちを込めながらゆるりとくすぐるように首の下を触ってから手を放した。
「…………渡すだけで満足なのですか」
言葉の真意を探るために新橋さんと目を合わせる。彼の瞳はどこか潤んでいて、それに触発された加虐心が表に出てこようとしていた。
「ほ、本当に俺のことが好きなら着けている姿も見てみたいと思うはずです。さすがに外に出ることは無理ですが、この中でくらいなら……」
新橋さんが手袋を外した方の自分の手に首輪を置いた。
「ほら、き、貴様の好きになさったらよろしい」
そう言えば顎を軽く上げて細い首を見せつけてくる新橋さんに、気付けば自分は首輪の金具を緩めていた。