「メルメルのことが好きなんだけど。……その、付き合いたいって意味で」
二人ともが食事を終えたタイミングで燐音は今日の主目的を口にした。
さっきまで飲んだり食べたりしていたはずなのに緊張でやけに喉が渇く。舌だって上手く回らないところを無理矢理にでも動かして言葉にする。声も震えないよう必死で格好付けていた。テーブルの下で握りしめている手の中は汗をかいていてこんなの絶対に見せられないなと思う。
そんな状態になりながらも決死の覚悟を持って燐音はHiMERUに告白をした。
勝算の低い賭けは嫌いじゃないが、いくら燐音でも勝算がゼロなのに勝負しようとは思わない。だから告白したのだって一応勝算はあったのだ。これから先も同じユニットで一緒にアイドルを続けていく相手に振られることを前提で告白は無理だろう。HiMERUならファンやカメラの前で上手く振る舞えるだろうが、そんなことはさせたくない。
とはいえ、燐音だってHiMERUのことを好きだなと自覚してもしばらくは特に何もしなかった。一生誰にも言わずに秘めておくつもりだったのである。
でも、燐音が突然肩を組んでもため息を吐くくらいで振り払われなくなった。車を運転するときに後部座席も空いているのに先に助手席に乗ってくるようになった。麻雀を打っているときに燐音がまだ続けたそうな顔をしていると、しょうがないなと顔に出しながらも次の勝負の準備をしてくれるようになった。
少しずつ、本当に少しずつではあったがHiMERUが許してくれていることを感じていたのだ。だから、一生言わないつもりだった感情から欲が生まれるのは時間の問題だった。燐音が自分の欲を死ぬまで封じ込めておける人間であればそもそも故郷から抜け出すなどしていないだろう。
どこまでなら許容してくれるのか。HiMERUはカメラの前だとポーズで嫌がることもあるから偶然二人きりになったタイミングで色々試してみたいと考えてしまった。本心で嫌がられるようなら、今度こそ燐音は自分の中に生まれた欲を無理矢理にでも押し殺すことを同時に決意して。
ある日は、前乗りのために泊まったホテルでの部屋割りを決めるときに「メルメルと同じ部屋がいい!」とその場のノリだけで言ったと聞こえる風に腕を組みながら言った。そうすればこはくが面倒くさいといった顔を隠さずにHiMERUから燐音を引き剥がしてあげようとした。そんなこはくの手が燐音に届く直前に「天城の面倒はHiMERUが見ますので桜河と椎名は明日のために休んでおいてください」と言ったのだ。自分から腕を組んだのに驚いてHiMERUの顔を直視してしまったことを覚えている。
部屋に備え付けの風呂から出て体を拭いた後に数秒だけ悩んで名前を呼んで髪を乾かしてほしいとおねだりもした。面倒を見ると言ってはくれたが、さすがに適当に断られるだろう。そう思った燐音を裏切ってHiMERUはベッドから立ち上がるとこちらに向かってきたのだ。ドライヤーを片手に持ったまま妙な体勢で固まった燐音を椅子に座らせるとドライヤーを奪い、気が付けばスイッチを入れられていた。混乱していたから実際どういう風に髪を乾かしてもらったかは覚えていない。ただ、しっかりと乾いていたことだけは確実だった。
次の日の朝起きたとき、先に起きていたHiMERUが燐音の分の珈琲も準備していたときは前日に起きたことも相まって熱があるのかと疑ったレベルだ。実際は普段と変わらなくてむしろ燐音の方が熱でもあるのかと言われた。あの件は今でも解せないなと思っている。
他にもメッセージで他愛のないことをユニットのグループとHiMERU個人の両方に同じ内容を送ってみたこともある。何か突っ込まれたら他のヤツに送るつもりだったものを間違えたと言い張るつもりだった。結果は、個人で送った方にだけ返信がきた。ユニットの方は三人とも返信しなかったというのに。
……まだ色々とあるが、こうして並べてみるとラインを探ろうとする前にHiMERUの方からそれを越えてきた気がしなくもない。
とにかく! どれか一つだけならまだしもここまで重なると実際の恋愛経験に疎い燐音でもHiMERUが自分に対して少しくらいは気があるんじゃと思ってしまう。……まあ、それでも目に見えて贔屓しているのはこはくだし、意外と親しくなった相手にはここまで距離を詰めるタイプだったという可能性もなくはない。
その可能性だって燐音はもちろん無視はしていない。だから今こうして意を決して告白をしているのだって絶対に受け入れてもらえるとは思っていないのだ。告白が成功するのは高く見積もっても六割がいいところだろう。
実際、今日に至るまでは散々悩んだ。告白が成功すればいいものの、断られてしまえばどうしたって関係が変化してしまうことは分かっていた。でも、それでも、変化を恐れて停滞に甘んじてしまうのはダメだと思ってしまったのだ。成功しても失敗しても今後のことはその時に考えると決めている。
決めてはいるが、万が一HiMERUにフォローが必要そうであればこはくに頼むつもりでもいる。その時は事後報告だから怒られるとは思うけどしょうがない。HiMERUには何の非もないのだから頼み込めば承諾してくれるだろう。
とはいえ、燐音だって色々と考えて今日告白することに決めたのだ。
まずスケジュールを確認して翌日はHiMERUが休みの日にした。そもそも告白を保留にされることだって有り得る。その時にすぐ翌日が仕事だとHiMERUだってさすがに接し方に戸惑うかもしれない。
告白する場所だって燐音にはあまり似合わないと自覚しながら、個室の結構ちゃんとした店を選んだのだ。よく行く店はまずほぼ個室がないし単純に騒々しすぎる。だから色々と調べたり人に訊いたりもしてこの店に決めた。
下見として日和にも付き合ってもらっている。最初はニキに頼むつもりだった。でも、普段は言わないと分からないくせに変なところで勘が働くからHiMERUを好きなことがバレそうでやめた。バレたところで何が困るというわけではないのだけれど、HiMERUに絡みに行く度に「へ~」みたいな顔をされそうで嫌だからという理由に尽きる。
その点、日和なら少なくとも相手が誰かはバレていないと思う。それだけじゃなく料理も店の雰囲気も客観的に判断してくれたから言うことは何もない。……まあ、日和は最優先事項が自分自身のように見えて実はそうじゃないし、結構人のこと見てるから内心少し焦ってはいたが。でも日和とHiMERUにそこまで接点がないから気付いていないはずだ。燐音が誰か誘いたい相手がいるくらいは察していたみたいだったけど。
燐音なりに告白が成功するよう考えて日付も場所も決めた。ニキもこはくもいない二人きりの時点でHiMERUが誘いに乗ってくれるかが最初の難関だったが結果として今目の前にいる。後は返事を待つだけ。
しかし、告白を受けたはずのHiMERUからは時が止まったみたいに何の反応もない。この距離で聞き逃すことは有り得なくて、仮に聞き逃していたのなら確実に聞き返してくる。だから、うん。聞こえた上でこの状況なのだ。
自分の心臓の音がやけに大きく燐音の身体の中で響いている。一秒また一秒と時が進む度に冗談だと言ってこの空気を霧散させたくなってしまう。でもHiMERUに告白すると決めた時点でそれをすることは止めようと決めていた。……まあ、ここまで無言の時点ですでに本心だと受け取られているとは思うのだが。
「……天城」
「…………なに」
その先を知りたい気持ちと今すぐ耳を塞いでしまいたい気持ちに襲われる。目の前の男の表情は何も変わらなくて言葉の先が何も予想できない。
「俺は、HiMERUは、天城の気持ちに応えることはできません」
HiMERUが燐音に告白されて、断って、一週間ほどの時間が経った。
今でも断った直後の燐音の表情を鮮明に思い出せる。自分に告げられた言葉を理解した瞬間、傷付いたような納得をしたような顔をしてそれをごまかすように一瞬だけ下に視線をやって、それもごまかそうと無理矢理笑顔を作っていた。あんなに誰が見ても口角を上げただけの作り笑顔だと分かる顔をした燐音は初めて見た。誰のせいかなんて、そんなのどこの誰よりもHiMERUが一番分かっている。
少しの間、無言の時間が流れた後に燐音に謝られた。燐音は何も悪くないのに。でも、悪くないと言うのは違う気がして「いえ……」としか返せなかったことをHiMERUは後悔している。他に何か言葉があったんじゃないのかと。それは今になっても答えが出ていないのだけれど。
燐音に店に呼び出されたのは夜で、帰る場所も一緒なのだからわざわざ別々で帰ることも出来なくて、結局店を出てから寮にたどり着くまで一言も話さなかった。別にHiMERUは人といて無言だろうと本来は気にしないタイプではある。仕事現場なら表面上の会話を振ることはあるが。でもあの日だけは空気が重くて必死に会話を探していた。ただ、どんなに頭を回転させても告白を断った自分が言えることなんて何一つ思い浮かびはしなかった。こんなに会話が思い付かないものかとHiMERUは絶望感を覚えていたのだ。
告白の翌日が休みで燐音と顔を合わせる必要がなかったのは正直助かったことを覚えている。さすがに一日とおかず燐音と顔を合わせるのは、いくら何でも上手く取り繕える自信はない。
そして、こはくとニキに喧嘩をしたとでも誤解されて燐音が疑われることも避けたかった。普段であれば、こういう時の矛先は一旦燐音に向くし、それが当たっているかはさておき燐音も悲しむ振りをするのを楽しんでいるようではあった。……でも、こはくとニキが何も知らなくてもそんな事態は避けたかったのである。
結果として一日空いたことでどうにかお互い普通に振る舞えていたように思う。この一週間、何かを訊かれたりしていないことが答えと言えるだろう。もしかしたら燐音が翌日が休みであることを見越して指定したのかもしれないが、その答えを知る日は来ないに違いない。
HiMERUはあの日からずっと燐音のことが頭から離れない。ああ、でも、思い返してみれば告白をされる前から燐音のことを考える時間は多かった。
……断っておいて何を今更と思われるだろうが燐音のことはHiMERUも好きだ。ただ、それは燐音が言っていた「付き合いたいって意味」とは別のものである。人間として仲間として好感は抱いている。最初はあんなにどうしようもない人間だと思っていたのに、気が付けば好きになっていた。
燐音であれば『HiMERU』の居場所を預けるに信頼出来る相手だ。それだけでなく、燐音と過ごすのは楽しかった。支えてやりたいし、悪巧みをするのなら積極的に手を貸してやりたいと願ってしまうほどには。
HiMERUとしても、その仮面の向こうにいる男としても天城燐音のことが好きなのは事実といって相違は無い。だから燐音と過ごす時間が楽しくて浮かれていた。そう。HiMERUは間違いなく浮かれてしまっていたのだ。距離感が分からなくなるほどに。
断ったときの燐音の顔を思い出すだけで浮かれていた過去の自分を刺してやりたくなる。お前が適切な距離を守らないからこんなことになってしまったのだと詰って胸にナイフを突き刺してやりたい。
だって、HiMERUとして適切な距離を保てていれば燐音が告白してくれることはなかったと思う。いくら賭け事が好きな燐音といえど、どうしたってユニット内の関係に変化が起こることをギャンブル感覚ではやらないだろう。……本当にギャンブル感覚であれば燐音があんな顔を浮かべることはなかったに違いない。財布の中身を全部スッたときの方が比べられないほど元気だった。
冷静になればなるほど燐音への距離感はどう考えたって誤解させても仕方のないものだった。あれで何とも思わなければ燐音の認識に鈍感を付け加えなければいけないほどに。そんな、少し落ち着いて考えれば分かることに気付けないほどHiMERUは自我を出してしまうくらいに浮かれていた。一緒に過ごすのが楽しすぎて視野が狭くなっていた。
過去の自分に忠告してやりたいというどうにも出来ない気持ちをHiMERUは奥歯を噛み締めることでごまかす。時間はどうやっても過去に戻れないことは痛いほど知っている。戻れるならば『HiMERU』をやる日なんて絶対に訪れなかったのだから。
「……HiMERUは古いタイプのアイドルなのです」
だから彼女なんているわけがないと、あの日燐音に告げている。燐音が相手な今の状況では彼氏や恋人といった発言が適切ではあるのだろうけれど。
アイドルになってからいくらかアップデートは繰り返している。でも、それでも、アイドルとして『HiMERU』として恋人は作れない。そもそも燐音のことは好きだが信愛の範囲内だろう。
それが、燐音からの告白を断った理由。どこまでも利己的で、自分から燐音との距離を詰めたくせに断って、きっと燐音を傷つけてしまったくだらない男の理由だった。
「…………ははっ」
乾いた笑いが漏れると同時にHiMERUはベッドに倒れ込んだ。同室の二人が不在で助かった。こんな声を聞かれてしまっては何かあったのではと心配されてしまう未来が容易に想像出来たからだ。
「天城、俺はね、お前にあんな顔をさせたことを後悔しているのに、告白を断ったことは間違っていないと思ってるんだよ」
ツンと熱くなった瞳の奥を無視するように強く目を閉じた。ずるいとは思っているが、このまま時が経てば告白される前のような関係に戻れるよう願いながら。
こはくには最近どうも燐音とHiMERUがギクシャクしているように見えてしょうがなかった。前まではツッコミを入れることを我慢しなければならないほどやけに距離が近かったというのに。こはくやニキ以外がいるときはそれなりに距離を保っていても、四人だけになったら自然と二人が近くにいることが多かった。
最初の頃はわざとかと疑ったこともある。ただ、燐音だけならともかくHiMERUが特に拒否していないところを見ると、わざとだとしても口を出すことじゃないと思ったのだ。後でニキと話しているときに下手に突っ込んで巻き込まれても困ると言われて、こはくもなるほどと納得したのも関係しているが。
それが今ではどうだ。せっかくレッスンの休憩時間だというのに燐音もHiMERUも変に距離を取っていた。いつもは適当にその辺にあるペットボトルを取っている燐音がしっかり誰の物か確認してから飲んでいる。自分の物を勝手に飲まれるとこはくは怒っていたけれど、ちゃんと確認されるとそれはそれで落ち着かない。
HiMERUもHiMERUで、いつもなら燐音の近くに行って振り付けの話や客席からどう見えるかといった真面目な話を肩が当たる距離で話していたのに。顔がぶつかりそうだと思ったこともこはくにとっては一度や二度じゃなかった。
まあ、毎回ではないけれど。そうじゃない時はほとんどこはくやニキに振りの指摘をしている時ばかりだ。でも今日は違う。休憩に入る前の前半はすでに何回も披露している曲を通しで合わせて、後半から新曲のレッスンに集中する予定なのだ。二人が何も言ってこない時点でこはくもニキと一緒に合格ラインは超えているはず。
……そうなるまでに燐音にひたすらしごかれたことをこはくは忘れてないけど。でも頭から振りが飛んでしまっても身体が勝手に動くレベルまで教えてもらったことは感謝していた。そっちの方が向いているとこはく自身理解していたのだから。
違う違う。考えが別の方に行きそうになってこはくは頭を振って元に戻す。近くでニキが首を傾げたような気もするが気のせいだと思い込むことにした。
これじゃあユニットを結成したころに逆戻りじゃないか。決して楽だったとは言えないし、振り回されたことも片手じゃ足りない道だったけれど、それでも理由も分からず二人がギクシャクしているのはこはくは嫌だった。
とはいえ、こはくには今の状況になっていることの心当たりが全くない。こういう時は燐音が原因であることが多いけど、それにしては燐音が謝ったりHiMERUを気にかけている素振りがない。二人に「メルメルってまだ怒ってる?」みたいに訊きにきてもいない。どちらかというとわざとHiMERUを意識の外に置いているような気さえする。
頭で考えるのはわしの分野やあらへんのになぁ。
こはくがどれだけ頭を動かしても分からないものは分からないのだ。それならばいっそのこと問い詰めた方が早い。でも、さすがにこの場で「喧嘩でもしたん?」と訊こうものならごまかされることが分かるくらいには一緒に過ごしてきた。だって、休憩を早めに切り上げてレッスンを始めるとでも言われてしまえばそれに逆らえない。この部屋を借りた目的はレッスンなのだから。
顔を上げてレッスンルームの時計を確認すれば休憩が終わるまでにはまだ時間がある。よし。こはくは一人頷いて立ち上がった。
「わしちょっとレスティングルームに行ってくるけどニキはんも行く?」
「もちろんっす!」
こうやって誘えばニキはほぼ確実に一緒に来てくれる。単純に何かをつまみに行きたいのか、二人の妙に近い空気に耐えられなかった最初の頃にこはくはよくニキを誘って外に出ていたことを覚えてくれているのかは分からないけど。
レッスンルームに着いて適当に飲み物を選ぶ。ニキも何かを紙コップに注いでいた。
「……あの、ニキはん」
「んぃ?」
「燐音はんとHiMERUはんに何があったか訊いてへん?」
「あ~、やっぱりこはくちゃんも気付いてた? でも僕は何にも知らないっす。燐音くんに訊いたところで答えてくれるとは思えないし、HiMERUくんも話してくれないんじゃないっすかね~」
どうやらニキも詳細は知らないらしい。こはくも何も知らないから情報量としては変わらないのだろう。
実際二人のことに気付いたのだって日々の違和感が偶然じゃないレベルに積み上がっていったからだ。一回や二回程度ならそんな日もあるだろうで流していたと思う。人間である以上どうしたって調子のいい日や悪い日はある。ちょっと調子の悪い日が続いてるのだと思っていた。ギャンブルで負けたとか、最近買った本が趣味に合わなかったとかそういうのが重なったとか。燐音は特に気分や体調によるコンディションの差を見せないようにはしているが。
「二人とも変に自分だけで解決しようとするところあるんすから」
「分かるわ」
こはくは即答して頷いた。何でもかんでも頼れとは言わない。実際頼られたら燐音に関しては鬱陶しいことこの上ないと確信出来るからだ。実際にはどれだけの期間悩んでいるか分からないが、何日も一人で抱えてギクシャクするくらいなら話してほしい。
……あと、これは本人には言えないが、HiMERUがこはくから見て明らかに燐音に心を許していっているのを見るのは少しだけ面白かったのだ。あんなに結成した頃は合わなさそうだったのに。
「ニキはん、このまま放っておいて二人の関係って改善するっち思う? わしは思わんのやけど」
「ん~数ヶ月くらい放っておいたら元通りとはいかなくても燐音くんの方は普通に戻るんじゃないっすかね」
「そこまで我慢できんわ」
「なはは。こはくちゃんならそう言うと思ったっす」
Crazy:Bは自分がやりたいことをやるユニットだと燐音が言っていた。それならそうさせてもらおうじゃないか。二人はこはくが首を突っ込むと嫌な顔をしそうな気もするが、これが今やりたいことなのだ。
「ニキはんには申し訳ないけどちょっち付き合ってもらえる?」
「全然オッケーっすよ!」
無事に了承をもらえたことでこはくは作戦を考えようとした。したけれど、正直作戦を立てることで二人を上回れるとは思えない。むしろ作戦を立てた方が裏を読まれて煙に巻かれそうな気さえする。
それなら直球勝負しかないか。裏の方がこはくには馴染んでいてもアイドルとして表舞台に立ってきたのだ。真っ当なやり方だって出来る。
「わしが燐音はんから頑張って理由を聞き出すから、ニキはんはHiMERUはんから聞き出してもろてもええ?」
「僕が燐音くんじゃなくて大丈夫っすか?」
「ニキはんやと燐音はんが本気で逃げたとき捕まえられへんやろ」
「それはそうっすね~」
ニキが納得したように頷いている。こはくの場合はHiMERUに訊いたらいい感じにごまかされて終わりそうなのも理由の一つではあった。その点、燐音なら口先だけで逃げられそうになっても手が出せる。今回は本当に逃げようとしなければ出さないようにはしようと思っているが。
「HiMERUくんから聞き出せるかは自信ないっすけど、今回はちょっと頑張ってみるっすよ! 僕だって二人がイチャイチャしてくれてた方が落ち着いてご飯も食べられるんすから!」
「よし、タイミングはニキはんに任せるわ。わしもわしで頑張ってみるな」
時計を見ればそろそろレッスンルームに戻らないといけない時間になっていた。紙コップに残っていた飲み物を一気に飲むとこはくはニキと一緒に戻ることにした。
これで戻って前みたいに距離が近い二人に戻っていたら考えすぎで終わるのにとこはくは思いながら。
「……こはくちゃん? これは一体どういうつもりっしょ」
まんまと誘いこまれてしまったなと思いながら燐音はこはくに問いかける。こんなことをされる心当たりは複数あったが、わざわざ自分を誘い出してまでやることではない。カメラが回っていたり藍良が近くにいたら話は別だけれど、そうでなければこはくは割と言いたいことをすぐに言う。こんな、燐音を問い詰めるような状況なら尚更だ。
燐音の目の前にいる愛しいユニットの末っ子はこれから楽しいことでも始まるかのように目を細めて笑った。
「大丈夫やで。わしが燐音はんでも分かるように何も隠さず一から説明したるから」
あ、怒ってるな。
燐音はそう察したが唯一の出入り口の前にはこはくが陣取っていた。逃げに徹すれば多分部屋から脱出することは出来る。しかしこはく相手ならお互い無傷では済まないだろうしアイドルに怪我なんて御法度だ。そもそも鍵だってかかっている。
何より燐音が本気で追い詰められてもいないのにこはくに怪我を負わせるなんて出来るはずもないのだが。そこまで考えてのこの陣形なら燐音に打つ手はない。大人しくこはくの言う説明とやらを聞くしかないのだ。
燐音は降参だという風に両手を挙げた。
「学校行ってない俺っちにも優しく説明してくれよ?」
「アホか。学歴ならわしとそう変わらんやろ」
呆れたようにこはくがため息を吐く。そうしている間も隙がないのだからさすがだと燐音は思ってしまう。罠に自ら飛び込んだ自覚がある時点で逃げようとは思っていないけれど。
「とりあえず燐音はんをここに呼んだ理由からやな」
そう。ここは寮のこはくとジュンの部屋だった。
今日は仕事もなく休みだから燐音が二度寝をしていたりと自分の部屋でゆっくり過ごしていたときにジュンがやってきたのだ。どうやら日和が呼んでいたらしく、仕事なのか休日にどこかに行くのかは知らないがとにかくジュンが日和を迎えにきたことだけは確からしい。
その姿に大変だなあとは思いつつも、ジュン本人が本気で嫌がってはいないのだから燐音に言うことは何もない。軽く言葉を交わして二人を見送ろうとした時にジュンが声をかけてきたのである。
「あ、そうだ。燐音先輩」
「ン?」
「サクラくんが話したいことがあるから部屋に来てほしいって言ってましたよ」
「……こはくちゃんが?」
「はい。来ないと絞めるとも言ってましたねぇ」
二人が出て行ったら再び微睡もうと思っていた燐音にとっては何ともタイミングが悪い。ジュンを介している時点で急ぎの用事でないことは明白だが「絞める」と言われてスルーするとこはくは本当に絞めてくる。それも容赦なく。
「じゃあオレは伝えましたからねぇ~」
ジュンが日和と共に部屋を出て行く後ろ姿を見送りながら燐音は悩む、素振りをした。仕事も用事もない時点でこはくから呼ばれて断る選択肢なんて燐音には基本的にない。ただ、警戒はしてしまうのだ。
というよりも嫌な予感がする。ここで行くと行かないと燐音の今後に影響が及ぶような予感がしている。
しかし燐音に嫌な予感に対する明確な心当たりがないことも事実であった。こうなれば当たって砕けた方が早いか。燐音はふらりと立ち上がると奏汰に出て行くことを告げた。
「こはくちゃ~ん? 頼れるリーダーの燐音くんが遊びに来てやったけどォ?」
燐音はノックと同時にそう声をかけるが、待ってみても部屋の中から何の応答もない。ジュンに騙されたか?と一瞬考えてしまう。でも、部屋に向かったけど誰もいませんでした、じゃあ騙すにしてもお粗末すぎる。何よりジュンはこういうことに向いていないだろう。というかどこぞの副所長の方が向いているよなと燐音は思う。
燐音は少し悩んでスマホを取り出すとこはくに電話をかけた。こはくが本当にこの件に関係なかった場合、ホールハンズでメッセージを送るよりは電話の方が早く確認できるからだ。
すると部屋の中から薄らと着信音が聞こえてきた。そのまま電話をかけ続ける。たっぷりと間を取ってから誰も出ないことを確認して電話を切れば中の着信音も同時に止まった。これは少なくともこはくのスマホは室内にある。
燐音がそっとドアノブに手をかければ何の抵抗もなく動いた。鍵がかかっていない。
……ほぼ確実に罠だな。獲物を呼び出しておいて奥まで誘い込む魂胆だろう。声をかけても電話をしても反応がないと言い訳すれば、このまま燐音が帰ってもこはくには燐音を責め切れないはずだ。ジュンに言伝を頼んでいて履歴という証拠が残っている以上、ノコノコと狩り場に入るか賢く帰るかの選択は燐音に委ねられている。
これが仕事やアイドルとしての生活に関わることなら燐音だって見え見えすぎる罠には引っかからない。むしろ今後のために罠に嵌めようとしたヤツを見つけ出すだろう。
でも燐音を呼び出した相手がこはくであるのなら罠にかかってみるのも一興だ。万が一にもこはくが中で倒れでもしていたら困るし。
燐音は途中まで手をかけていたドアノブを最後まで回した。
「こはくちゃん? 俺っち勝手に入っちまうからなァ?」
中に一歩入る。今のところこはくの気配は感じない。この時点でこはくが中で倒れているという可能性は消えた。本当にいないか、燐音でも察知できないレベルで気配を消すことに集中しているかのどちらかだ。
何を考えているか分からないがドアは閉めておいた方がいいだろう。隙間から誰かに見られて誤解されても困る。別に燐音は自分が悪く見られることは大丈夫だけれど、こはくのスイッチが入ってしまうと自分が悪いと弁解するのも無理がある。
後ろ手にドアを閉めて念のために鍵もかけた。ジュンは日和と出て行った時点で早々には帰ってこない。これで余程大きな音さえ立てなければ誰にも見つからない密室の完成である。
わざと周囲を見渡すことさえせずに燐音は部屋の中心に向かって歩を進めた。そうしてドアからある程度距離を取ったところで急に背後に気配を感じる。殺気の一歩手前にも似たその気配に燐音はとっさに身体を捩って右側に飛んだ。
急いで背後を確認すればドアを背にしてこはくが立っていた。
見事に罠にかかっちまったなァ。燐音がここにやってきた理由を思い出しながら口元だけで笑えば、こはくが怒った顔をしながら腰を下ろすように目だけで合図をした。普段であれば燐音も首が疲れるのかとからかうところだったが、大人しく腰を下ろした。すでに火の中にいるのに油を注ぐ必要なんてない。
「で? 襲いかかってくるくらい熱烈なこはくちゃんが俺っちをここに呼んだ理由は?」
「人聞きの悪い言い方すんなや」
「こはくちゃん以外に聞く人もいねェんだからいいだろ」
「ま、ええか。ぬしはんに口の利き方を指摘したところで治るとも思ってへんしな」
「こはくちゃんも相当お口が悪いと思いま~す」
「うっさいわ。こっちは燐音はんと違って相手選んどるんよ」
火に注ぐ油にもならないような会話をしながら燐音は会話の温度感を見ていた。怒ってはいるが、その怒りが燐音に向けていいものかギリギリのところで悩んでいるようにも思う。半分以上の確率で燐音に非があると思っていても、一応残りの半分以下を確認してから怒ろうという時のこはくだ。
「わしはぬしはんらと違って難しいこと考えるんが苦手やから直球で言うけど」
ぬしはんらと複数形なことが妙に引っかかった。この罠にかかったのは浅慮だったかもしれないと燐音の頭を不安がよぎる。
「燐音はん、HiMERUはんと何かあったやろ」
「こ、」
「見てて気付くくらいには一緒に過ごしてきたん知っとるやろ。ちなみにニキはんも異変に気付いとるし、煽っても無駄やで」
こはくちゃんってば何言ってるんでちゅか~と怒らせて矛先を逸らそうと思った燐音の思考はバレていたらしい。こはくは悪だくみや作戦といった意味での難しいことを考えるのは苦手でも、燐音の行動は読めてしまう。
年々扱いにくくなるなと思いながらも、そうなっていくこはくが燐音には愛おしかった。扱いにくいということは自分で考えて動いていることの証左である。まあ、今回は話題が話題であることから燐音も素直に喜べないのだが。
さて、この育ってきたかわいい末っ子にどう相手するべきか。
「……まァ、確かにメルメルと何かはあったっしょ」
何かあったことは認める。こはくはその部分に確信を持っていて、燐音でもそこから話を逸らすのは容易ではない。二人きりでさえなければ第三者を巻き込んで話をうやむやに出来るのだが、今の状況では不可能だ。こはくは多分、燐音が逃げないように今の状況を選んだだけでそこまで考えてはいないだろう。
目の前のこはくが話の続きを待つように唾を飲み込むのが見えた。
「でもそれをこはくちゃんに話す必要はねェな」
「はあ!?」
こはくが怒って立ち上がっても燐音は少しも動じない。わざと突き放す言い方を選んでいるのは燐音なのだから。
「俺っちがメルメルと個人的なことでちょーっと色々あって気を遣わせちまったのは悪いとは思ってるけどさァ……。仕事には関係ないプライベートなことなンだからこはくちゃんには言えねェ」
「………………」
「もちろん仕事やレッスンには影響出さねェからさ。もうちっとだけ我慢してくれると燐音くんもうれし……」
燐音のその言葉は最後まで紡がれることはなかった。立ち上がったこはくがそのまま燐音の胸ぐらを掴んだからである。
「こはくちゃん、なに?」
掴まれたところで燐音は普段の余裕を崩さない。今まで散々自分で考えろと言って突き放してくる燐音をムカつきつつもこはくは好きだったが、今みたいにこういう時だけどこか年上ぶって突き放してくる燐音が嫌いだった。
口で色々言ったところで染み付いた性格は早々に変わらない。燐音と本気でやり合った場合にどちらが勝つかという点に興味はある。でもそれをやったらお互いに無傷じゃ済まないだろう。アイドルとして私闘で怪我なんてちょっと怒られるくらいで終わらないことはこはくにだって分かる。
燐音もそれを分かっているから余裕なのだろう。そしてこはくはその余裕を崩したかった。話を聞き出すためがほとんどだけれど、今日の会話で鬱憤が溜まっていたのも少しはある。
こはくは静かに息を吸って身体を後ろに軽く反った。燐音がその行動の意味を理解する前に思いっきり頭を燐音の額の近くにぶつけた。簡単に言ってしまえば、こはくは頭突きをしたのである。
「いっ………………てェ~~~~~!!!!!」
パッと胸ぐらを掴んでいたこはくの手が離され燐音が少しばかり後ろに倒れながら両手で自らの額を押さえている。こはくの頭だってそれなりに痛いが、目の前の燐音の姿を見ればこの痛みの価値はある行動だと思えた。ヘアバンドの下が少し赤くなっているだろうが時間が経てば消える程度の赤みだろう。これならば怒られないとこはくが考えた結果だ。
こはくを睨みつける燐音の目に薄らと涙が見えた気がした。
「何すンだよ!」
「燐音はんが言うこと聞かんから実力行使?」
「首傾げながら言っても今は全然かわいくねェからな!?」
「ああでも、ヘアバンドのせいでちょっち痛みが軽減されてる気がするのだけが不服やな」
「うるせェ! これなかったら絶対血出てただろ……」
燐音はヘアバンドを外すと本当に血が出ていないか触って確認していた。こはくだってさすがに血が出ないくらいの手加減はしている。……まあ、相手が燐音だからあまり加減をしなかったところはあるかもしれないが。
こはくは再び燐音に近付くとしっかり目を合わせた。
「HiMERUはんと何があったん?」
「…………黙秘」
痛みで目に涙をにじませながらも燐音に意見を変える気はないらしい。燐音が本気で口を割らないつもりなら拷問をしたところで難しいだろう。ただ、燐音は……燐音だけでなくHiMERUやニキもそうだが、どこかこはくには甘いところがある。使える武器は全て使えと家で言われているのだ。今日のこはくに引くつもりはなかった。今の流れを掴めているうちに押し切りたい。
「さっき、仕事とは関係ないプライベートなことって言ってたん忘れてないで」
「それがどうしたって?」
「仕事やったら例えメンバーが相手にだって話せへんことがあるのは分かっとる。でも、プライベートなら関係あらへんよなあ?」
「……人の秘密を暴こうとするとモテねェぞ?」
「それ、そっくりそのままHiMERUはんに言ったらええんちゃう」
HiMERUが燐音と探偵ごっこをしていることを割と気に入っているとこはくは思っていた。今そのことは関係ないけれど。
目を合わせたまま、こはくは燐音の胸ぐらをもう一度掴んだ。燐音は逃げないし、こはくの手を振り払おうともしない。暗に言わないならもう一度頭突きをすると告げているのに逃げようとしないのだ。
「力で脅すのは姉はんらから叩き込まれとるんやで?」
「怖ェな」
「せっかくのヘアバンドを外してしもとるし今度はホンマに血が出るかもしれへんな」
「…………」
こはくの瞳から本当にやる気だと伝わってきた。髪で隠すことは可能かもしれないが、燐音は傷を負いたくはない。それに自分だけでなくこはくの額まで傷つけてしまうかもしれないのだ。燐音は自分が振られた事実を告げることと今から起こるであろう事柄を天秤にかければ、綺麗に片方に傾いていった。
嘘を吐いたっていいけれど、それはさすがに往生際が悪すぎるだろう。今は別に悪巧みの最中ではないのだ。
「あー! 分かった分かった! 俺っちの負け! メルメルと何があったか言ってやるからその手を離してくれねェ?」
燐音は両手を挙げて負けを宣言した。こはくの手がそれに従ってゆっくりと離れていく。これでこはくが隙を見せたら逃げてやろうかとも一瞬考えていたが、見事に隙が見えなかったので燐音は本当に負けたと心の中でだけで息を吐いた。
「……あ~一応先に言っておくけど話を聞いても笑うなよ?」
「ぬしはんが嘘を吐かん限り笑わへんって」
何が悲しくて振られた話を末っ子にしなければいけないのか。いや、普段通りに振る舞いきれなかったからバレたんだけど。燐音はのこのこと部屋にやってきたことを後悔しながら口を開いた。
「燐音くんがメルメルに告白して、見事に振られましたァ~」
「…………は?」
思いもよらない言葉を受けてこはくは開いた口が塞がらない。
「……えっと、嘘、やなさそうやね?」
「嘘吐くならもっとマシな嘘吐くっての」
燐音の言葉にごもっともだと思ってしまった。内容もそうだが、こんな嘘かと訊かれて投げやりに返すやり方はこはくの知っている燐音らしくない。だからこそ今の反応が何よりも燐音の言ったことが真実であると告げていた。
ど、どうしたらええんやろか。こはくは静かに混乱していた。
正直に言ってしまえば二人が喧嘩でもしているとこはくは考えていたのだ。燐音が悪いのか、可能性は低くともHiMERUに原因があるのかは分からなかったが、喧嘩だと思っていたのである。
燐音がHiMERUに告白をするという意味で好きだとは気付いていなかった。その上、こはくが知らない間に振られていたらしい。
いや、そらギクシャクもするやろ!
こはくにとって恋愛は他人事かフィクションの世界の中の話であって、こんな身近な人間から聞く出来事ではなかった。それでも振られたらショックを受けるということは分かる。その相手がどうやったって距離を置くことが出来ない相手なら尚更だろう。
考えれば考えるほど無理矢理に引き出すような内容の話ではなかった。恋愛の経験はないが、こはくが燐音から逆のことをされたら多分本気で手が出る。時間が解決するまで待ってくれと言いながら殴ってしまうと思う。
「……きゃはっ」
見るからに動揺と混乱をしていますとこはくの顔に出ていたのだろう。燐音はつい笑ってしまった。確かにプライベートの出来事ではあるけれど、隠しきれなかったのは燐音の方なのだ。更に言えばこはくが脅してきたとはいえ話すと決めたのも燐音である。こはくが気に病む必要なんて燐音からしたらこれっぽっちもない。
当のこはくといえば燐音がどうして今の状況で笑っているのか分からず混乱を強めていた。その姿を見て燐音は笑いながらこはくの肩に腕を回した。普段なら鬱陶しいと言われるそれをこはくは振り払いもしない。混乱しているから当然だった。これ幸いと燐音は二人きりの空間でこはくの耳に口を寄せた。
「俺っちが墓にまで持って行くつもりだった秘密を暴いたンだからこはくちゃんには責任取ってもらわねェと」
「は!?」
燐音はニヤリとまた何かを企んでいそうな笑みを浮かべていた。
「それはHiMERUはんが思わせ振りにも程があるやろ!」
「やっぱりこはくちゃんもそう思う!? 俺っちが勘違いしすぎたとかだけじゃねェよな!」
「だってわしでもHiMERUはんにそこまでされたことないし」
「だよな! こはくちゃんにすらやってねェなら俺っちだけ特別扱いかと思うだろ!」
「HiMERUはんはたまに行動がズレることがあるお人やし、わしは恋愛とか詳しくあらへんけど、それで燐音はんを口説いてなかったんやね?」
「そう! メルメルってば罪作りすぎっしょ……」
こはくが抱いてしまった罪悪感を軽減させるためと、誰にも話せなかったHiMERUとの経緯を話せる機会を得た燐音は自分がHiMERUに告白するに至ったきっかけ達を話していた。本当はずっと誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれないと思うくらいには燐音の口から話が止まることはなかった。そして話がHiMERUに告白をしたあの日にたどり着いてからのこはくの第一声がこれである。
同意をもらえて燐音の心は少しだけ軽くなったのだ。もしかしたらこはくには失恋した燐音を慰めてやろうという気持ちもあったかもしれないが、それでも燐音の心が軽くなったことは事実だ。
「あ~、こはくちゃんに話したらちょっと楽になったわ。ありがとな」
燐音としては珍しく本心から告げた感謝の言葉であった。
「いや、えっと、それなら良かったんやけどな」
それなのに、どうしてかこはくの言葉の切れが悪い。燐音から真実を告げられたときは気まずそうな表情はしていたけれど、今悩んでいるみたいな顔をしているのは意味が分からない。燐音が無意識に首を傾げるとこはくは目を泳がせながら口を開いた。
「つまり燐音はんはHiMERUはんへの恋を諦めたっちこと?」
「……えーっと、そう、なるのか?」
「振られて愚痴って楽になったんならそういうことやないの?」
どうなのだろうか。なにぶん燐音にとって恋自体が初めてなのだ。失恋したとは自覚しているが、これは諦めたということになってしまうのだろうか。
出目が当たりになるまで挑戦し続けることも嫌いではないけれど、こと恋愛においてそれは悪手になり得るだろう。相手によってはそれが正解のことがあることも理解している。しかし相手はHiMERUなのだ。はっきりと目を見て応えられないと言われたことを燐音は明瞭に思い出せる。
そんな相手に挑戦を続ける気力はさすがに燐音といえども存在しない。断られることも視野に入れて臨んだはずだったのに、思ったよりショックを受けてしまった自分に一番驚いたのだから。
本当は告白した日の帰り道にずっと無言を貫いてしまったことも失敗だと思っていた。あんな態度を取ればHiMERUだって気にするだろう。燐音を振ったHiMERUに対して全く気にするなということは無理があっても、その気にする時間を出来る限り減らせる態度くらいは取れたはずなのだ。それが出来ない程あの帰り道の燐音は頭が働いていなかったのだけれど。
ただ、諦めたのかと訊かれると即答は出来なかった。そのうち胸の奥深くに封印したいとは考えているが、少なくとも今はHiMERUへの恋心を完全にゼロにすることは不可能だと思っている。
別にもう成就を望んでいるわけではない。わけではないが、それでも捨てきれないものが存在していたっていいだろう。
「…………諦めてはねェと思う。多分」
「多分?」
「こはくちゃんから見たら俺っちは格好良くて頭が良くて歌が上手くてダンスもキレキレで何でも出来る完璧お兄さんだろうけど、それでも分からねェことはあンの」
「途中まで何言うてはるのか分からんかったけど、燐音はんは今すぐ諦める気はないっちことやな?」
「そーいうこと。次からはこはくちゃんが心配するような距離を取らねェから安心しろよ」
「いや、理由が分かったからそこは無理せんでもええんやけど」
メンバー以外の人間にバレるようなことはしないだろうといった言葉を続けようとしてこはくは飲み込んだ。そもそもこはくが気付けたのだって四人でしかいない空間での出来事だったのだからわざわざ言う必要がない。燐音もHiMERUもその辺はこはくより何倍も上手くやるのだから。
「……こはくちゃん」
「ん?」
「あーいや、やっぱいい。話聞いてくれてありがとな」
「さっきも思ったけど燐音はんが素直やとそれはそれで気持ち悪いな」
「ンだと!」
「あっ、ちょっ、止めろや!」
燐音がぐしゃぐしゃとこはくの髪を両手でかき回す。本気で振り払ってこないのは無理矢理聞き出した罪悪感がまだ少しは残っているのだろうか。話をそろそろ切り上げたかったから今回の燐音はそこに甘えさせてもらった。
どうして燐音が恋心を諦めたかどうか確認してきたのかを訊こうと思って燐音は止めたのだ。万が一にも再び挑戦するなら応援するとか言われたら燐音はどうすればいいか分からなくなってしまうからである。
諦めきれていなくとも、ほとんど終わったものを応援されたって困るだけなのだから。
ニキから届いていたホールハンズのメッセージを見てHiMERUは首を傾げていた。内容は明日の指定した時間にシナモンに来てほしいという珍しくも何ともないものである。ただ一つ、明日がシナモンの休業日であるということだけを除けば。
シナモンでなくとも飲食店の営業日をニキが勘違いすることは考えにくい。しかもシナモンにいたってはニキ本人が働いているのだ。HiMERUは少し悩んで「明日は休業日だと言っていませんでしたか」と送った。どれだけ考えにくい事柄であっても、直接訊いてしまえば早い。メッセージの送り主が燐音であれば企みを疑ってもニキ相手にその心配はしていなかった。
少し時間をおいて送られてきた返信にはこう書かれていた。
「店長に頼んでちょっとの時間なら開けてもらえたんで気にしなくて大丈夫っすよ~」
何が大丈夫なのかHiMERUには分からない。しかし丁度良くニキが指定してきた時間は空いているのだ。まあいいかとHiMERUは誘いに対して了承する返事を送った。
「あ、HiMERUくんいらっしゃ~い」
どこからどう見ても営業時間ではないシナモンの中に入ろうとすればちゃんと鍵が開いていた。ニキがカウンター越しにHiMERUに向かって手招きをしている。席に座れということだろう。軽く店内を見回して誰もいないことを確かめてからHiMERUは席に座った。
「注文どうするっすか?」
「……では珈琲をお願いします」
了承の言葉と共に珈琲が注がれていくのをHiMERUはただ見ていた。少なくともHiMERUが観察する限りニキは普段と特に変わらないように見える。隠し事をしようと思って隠せるタイプではないと知っているが、さすがにメッセージの文面だけでは把握することは出来ない。
だからHiMERUもニキが何を考えているか知るためここにやってきたのだが、杞憂だったのかもしれない。例えば、燐音やこはくには言いにくい話があるのではないかと想像していたのだけれど。カウンター越しで鼻歌を歌っているニキの姿に深刻な話ではなさそうだとHiMERUは少し力を抜いた。
「はい、HiMERUくんお待たせしたっす~」
「ありがとうございます」
目の前に置かれた珈琲を口に運び、普段と変わらない美味しさにHiMERUは息を吐いた。特にこの後用事が入っているわけではないが、本題が分からないと気になってしょうがないのだ。HiMERUは話を促すために言葉を発した。
「それで? 椎名はHiMERUに何か用事があったのですか?」
「え~っと、こはくちゃんからの頼みでもあるから僕なりに色々考えてたんすけど、やっぱり難しいこと考えるのは苦手だったんすよね~」
こはくからの頼み? 相談などではなく頼みという言葉にHiMERUの頭の中には疑問符が浮かんでいた。こはくからの頼みであれば出来る限り応えてやりたいとは思っているが果たして。
「だから直球で訊いちゃうっす」
「……一体何でしょうか」
「HiMERUくんって燐音くんと何かあったっすか?」
時が止まったみたいとはこういう感覚のことを言うのだろうか。HiMERUにとって予想しなかったニキの言葉に一瞬他の音が何も聞こえなくなったかのような錯覚を起こした。
ちょっと、待ってほしい。先程こはくからの頼みと言っていた。つまりHiMERUが燐音と付き合い方や距離の取り方をどうにも図りかねていることを気付いているのはニキだけではない?
「あっ! この言い方だとちょっと違うっすね。僕としては燐音くんはなんだかんだ大丈夫になってきていると思ったっすけど、HiMERUくんは大丈夫っすか?」
HiMERUの背中を汗が流れた気がした。ニキはたまにとてつもないほどの直感と偶然の手助けを得て正解を引き当てることがあると理解していたつもりだったのに、今の今まで本当の意味では理解出来ていなかったらしい。これを燐音に話せば笑われてしまうなと、どこか脳の遠い場所で考えがよぎった。
「……HiMERUは、大丈夫ですよ」
『HiMERU』は大丈夫だ。完璧なアイドルなのだから大丈夫ではない時などあってはならない。実際、仕事はしっかりこなせていると思っている。少なくとも燐音や茨にわざわざ指摘されるようなことはおこしていない。
だからニキへの返答としてはこれが正解だ。HiMERUと燐音に何かがあったとしても『HiMERU』はいつだって大丈夫なのだから。
「う~ん、本当っすか?」
「ええ。それとも椎名はHiMERUの発言が間違っているという根拠でも?」
「根拠とか難しいことは分からないっすけど、この前から燐音くんもHiMERUくんも匂いがいつもと違ってて……」
そこで一度言葉を区切ってニキは何かを思い出すように頭を捻っていた。
「僕ぁ普通の人より鼻には自信あるし、こはくちゃんも二人の様子がおかしいって言ってたから間違っているとかじゃなくて、HiMERUくんからずっと苦い匂いがしているから気になってるっす」
「苦い匂い?」
ニキが言う匂いの感覚はHiMERUには把握しきれない。きっと自分にとって都合のいい答えが返ってこないことは分かっていても、HiMERUはつい疑問を口にしてしまった。
「燐音くんとHiMERUくんが一緒にいるといつもたっぷりの砂糖を使ったジャムみたいなキラキラしてとろけた甘い匂いがしてたんすけど、この前から二人とも僕でも修正出来ないくらい真っ黒に焦がしちゃった料理みたいな苦い匂いに変わってるっす」
この前、というのはニキに詳しい時期を問うまでもなくHiMERUが燐音を振った時だということは容易に想像出来た。
……いや、というかニキは自分達からそんな甘い匂いがしていたのにずっと触れないでいたのか。その事実に気付いたHiMERUはニキに感謝するべきか、さっさと何か言ってくれていたら良かったのにと思うべきか悩んでしまった。もしニキが何かを言ってHiMERUが燐音との距離感をもっと早くに修正出来ていたら燐音にあんな顔をさせることもなかったのにと、もうどうしようも出来ない過去が頭をよぎった。こぼれた水はもう二度と戻らないというのに。
「ただ、燐音くんに今朝会ったときはちょっと焦げの量が減った匂いがしたんすよね」
ニキは一旦口を閉じた。そしてHiMERUの顔色をうかがうような視線を向けてきた。シナモンに入ったときからHiMERUは極力表情を変化させていないつもりでいたが、本当にそれが出来ているかは分からない。会話の内容が内容だったため、HiMERUの脳内にはずっと告白を断ったときの燐音の表情がチラついていたのだから。
でも、ニキの言葉を全て信じるのならHiMERUが傷つけてしまった燐音が少しは回復していることになる。それならば、そっちの方が良いに決まっている。胸の奥に生まれかけた名称不明の気持ちを無視するようにHiMERUはそう思い込もうとしていた。
先程からHiMERUの顔色をうかがっていたニキが意を決して口を開く。HiMERUのまとっている匂いが今この瞬間にも強くなったと気付いたからだ。
「……でもHiMERUくんは燐音くんと比べものにならないくらい会う度に焦げが強くなっていっているっすよ。最初は僕もHiMERUくんのことだしそのうち勝手に元通りになると思ってたっすけど、そんな匂いさせてちゃさすがに放っておけないっす」
「………………」
ニキが言っている焦げた匂いの正体が「HiMERUが燐音の告白を断ったことに後悔はしていないのに、時が経てば経つほど燐音の表情がチラついて引きずってしまう自分への苛立ち」であるならば、強くなっていっているのは正解としかいえない。
結局のところどこまでいっても他人である燐音にここまでの感情を抱けることにHiMERUが一番驚いているのだ。断る以外に選択肢なんて存在しないはずなのに、過去の自分に苛立って、苛立って、しょうがなくなる。とんだピエロだと自嘲した笑いを浮かべたくなるくらいにはHiMERUは自らの感情をあの日からずっと整理することも受け入れることも出来ていない。
解決策を時間に頼るにはまだ時間が足りなすぎるし、燐音とはどうしたって顔を合わせるのだから忘れることも出来やしない。
HiMERUは抱いている気持ちを処理する方法をずっと探していたのだ。ニキはそんな複雑な感情には気付かずに言葉を続ける。
「だから多分こはくちゃんに言われなくても僕はHiMERUくんに声はかけてたっすよ」
「…………椎名」
「僕だったら美味しい物を食べられたらそれ以外の悩みなんて吹き飛んじゃうっすけど、HiMERUくんは多分そうもいかないっすよね?」
「……そう、ですね。椎名の料理スキルを認めていますが、今回はその、だいぶ難しいかと」
HiMERUの言葉にニキは少し目を丸くする。普段であれば「椎名と同じにしないでください」辺りは言われてもおかしくないと発言した後にニキは思ったというのに。HiMERUはカップに視線を落としながら素直に言葉を発した。
これはニキが思っていたより更に深刻な悩みなのかもしれない。どうにか解決してあげられないだろうか。考えようとしてニキは自分のお腹が空き始めていることに気付いた。
……あ、ダメだ。空腹感を我慢出来ないことはニキ本人が誰よりも強く分かっている。それと同時にHiMERUくんがこんなに悩んでいる目の前でという考えが頭をよぎった。
どうしよう…………。ニキの視界が急速に回り出す。
「椎名、HiMERUのことは気にしなくていいですからさっさと何かを食べた方がいいと思うのです」
「ちょ、ちょっと食べてくるっす!」
HiMERUのその言葉がニキに届いたと同時に厨房の方に駆け込んでいった。あの様子ではHiMERUの言葉を正しく理解していたかは怪しいが、お腹が満たされたら戻ってくるだろう。HiMERUを気にしなくてもいいと言ったのは別に目の前で食べても構わないという意味でもあったのだけれど、ニキには回りくどくいっても伝わらないことを失念していた。
どうやらそんなことにも気付くまで時間が必要なほど参っていることにHiMERUは自分自身に呆れてしまう。
ボロを出さないよう立ち回っていたつもりだった。燐音はともかく、彼を振った自分が参っている姿など絶対に見せられないと燐音がいる場所では特に気を張っていた。
ただ、この場所に燐音はいない。基本的に余裕がある姿だけを見せていたいこはくもいない。ニキ以外に誰もいないこの空間のせいで自分でも気付けない間に気が抜けてしまっていたのかもしれない。何よりニキはHiMERUと燐音に何かあったと気付いているのだ。もう今更HiMERUが否定したところでさすがに信じてはくれないと確信出来る。
あのニキが目の前で食事をすることに躊躇いを覚える程には見るからにHiMERUは弱っているのだろう。もしかしたら見た目より匂いの方かもしれないが、隠せないレベルであることは間違いない。
とはいえ、燐音に告白されて断りましたなんて例えニキが相手でも言えるわけがなかった。反応が想像出来ないということもあるが、HiMERUの行動を受け入れられても非難されてもきっと自分は燐音の表情を思い出して傷付くと本能で理解出来てしまっているから。
厨房の方で食事を済ませてきたのだろう。先程の調子の悪そうな表情とは違って満足した顔でニキが戻ってきた。
「ふ~、HiMERUくんお待たせしたっす」
「別にHiMERUの前で食べても良かったのですよ」
「限界だったら我慢出来てなかったと思うっすけど、そんな苦しそうにしてる人の前では食べられないっすよ」
「苦しそう、ですか」
「そうっす! HiMERUくんったら燐音くんと一緒でかっこつけだから愚痴でも何でも言ってスッキリしろって言っても無理っすよね~。こはくちゃんが脅したら言うかもしれないっすけど」
「天城と一緒にしないでください」
「え~結構似てると思うっすよ?」
ニキの的を射ていない発言は否定しておく。ニキは納得していないようだが、黙っていて同意したと思われるよりはマシである。
そしてこはくに脅される自分を想像しようとして、HiMERUには上手く想像出来なかった。相手が燐音ならばこはくも容赦なく脅せるだろう。でも相手がHiMERUとなると多少は手加減してくれる気もする。まあ、そもそもHiMERUはこはくに脅されることはしないし、怒られるような言い方はしていないつもりだけれど。
「……HiMERUくんが燐音くんと何があったか訊いてもいいっすか?」
「すみません。それは言えないのです」
多分言ってはくれないだろうなと思いながら投げかけた問いに予想通りの答えが返ってきてニキはつい笑ってしまった。申し訳なさそうに断っていたHiMERUがそんなニキの表情を見て不思議なものを見た顔をする。
さて、どうしたらいいっすかね。
ニキとしてはHiMERUのことは心配していたが、今日実際に二人で話すまではなんだかんだ軽く背中を押せば燐音とも元の仲に戻ると思っていたのだ。理由は単純で燐音が匂いから判断しても少しずつ元気になっていっていると分かっていたからである。燐音が大丈夫なようならHiMERUもきっと大丈夫だろう。そう、思っていたのに。
燐音が前を向けるようになれたのはこはくとの会話がきっかけなのだが、それをニキは知らない。こはくもニキもお互いの動くタイミングは完全に相手に任せていたからだ。だからニキは今まで自分の知らないところで燐音とHiMERUが仲直りをしたと考えていた。ご飯を食べている間にようやくそれが勘違いだったのではという思考が頭をよぎったのである。
HiMERUからの匂いはずっと焦げていて、苦くて、苦しそうだ。
燐音は確かに暴君でニキはずっと振り回され続けているけれど、HiMERUが苦しんでいると知っていて自分だけが元気になれる人間ではないことは知っている。だから多分燐音はHiMERUの現状を知らない。ニキだって自分の鼻がなければHiMERUの状態に気付くことはなかっただろう。
どうにかしてあげたい。ニキのその思いは本物であったが、昔から考えることは苦手であった。考えたらお腹が空いて考えていたことも忘れてしまう。どうにか出来るならそうした方がいいことくらいは分かっている。でも、燐音とHiMERUがいれば難しいことは考えてくれるのだ。それで怒られたことはあっても向いていることをやればいいとニキは思っていた。
でも、今苦しんでいるのはそのHiMERUなのだ。HiMERUには頼れないし、燐音にだって頼れない。二人の間に何があったかは知らなくても、あのリーダーはHiMERUが苦しんでいると知ったら間違いなく勝手に背負おうとするのだ。
「…………椎名」
「んぃ?」
名前を呼ばれてニキはいつの間にか俯いていた顔を上げた。HiMERUの表情だけは笑っていた。ここ最近はずっと、心の中の苦しさなんて微塵も感じさせない表情で笑っている。
「珈琲、ありがとうございました。美味しかったです」
「そ、それはどうもっす…?」
「それにHiMERUを気にかけてくれてありがとうございます。『HiMERU』は大丈夫ですからもう気にしないでください」
それは緩やかな拒絶の言葉だった。『HiMERU』を気にかけてくれたことが嬉しいのは彼の本音ではある。ニキに感謝の気持ちもあるし、心配させすぎて申し訳ないという気持ちだってある。ただ、HiMERUではない男のことを何も知らないニキにこれ以上は言えないのだ。
だって燐音に告白されたのは『HiMERU』だけではなく、それを演じている男も内包しているはずなのだから。少なくとも『HiMERU』という仮面を被ったままで、伝えられる内容ではない。
そんなことを考えている男に誤算があったとすれば、ニキは男の言葉に含まれた拒絶の感情に気付かなかったことだろう。もっと厳しく言えば分かりやすく伝わったはずなのに、さすがに今は強く出られなかったのがきっと敗因だったのだ。
「な~にが大丈夫なんすか! そんな匂いをされて言われてもこれっぽっちも説得力なんてないっすからね!」
「し、椎名?」
「HiMERUくんって本当燐音くんの悪いところばっかり似てきてて! 困る僕の身にもなってくださいっす! 苦しいことがあったらそれ以上の嬉しいことで上書きしちゃえばいいんすよ! 僕の食事みたいに!」
自分で発言した後に良いことを言ったなという風にニキが頷いた。そうだ。HiMERUが苦しんでいる内容をニキに話してくれないのならそれを上書きしてしまえばいいだけである。別に燐音もHiMERUも何かがあっただけで決定的に仲違いをしたわけではないはずだ。
ニキが満足げに複数回頷いているのを見てHiMERUはどうすればいいか分からなかった。天城とは似ていないと否定するべき場面なのに、そんなことも言えなかった。
「HiMERUくん、燐音くんに告白しちゃえばいいんすよ!」
「……………………は?」
HiMERUの口がぽかりと開いたまま塞がらない。しかし、自分が拒絶したことは伝わっていなかったと上手く目の前の出来事を処理出来ていない頭でもそれだけは理解出来たのである。
「……椎名? 詳しく説明してもらっても?」
ニコニコと名案だと言わんばかりに笑顔のニキを前にして、少しの空白の後にどうにか平静を取り戻したHiMERUが問いかける。
もしかしてニキは最初から全て知っていた上で知らない振りをして自分と話をしていたのだろうか。なんて、普段のHiMERUであれば一蹴に伏すようなことが頭をよぎってしまう。だって燐音に告白しろだなんて全てを知っていないと出てこない台詞じゃないか。
燐音がこのことを人に話すとは思っていない。でも、ニキが相手なら話すことだってあるかもしれない。ああ、でも、ニキはこはくからの頼みだとも言っていた気がする。HiMERUにはニキの考えていることが何も分からない。燐音と違ってニキは意図的に隠し事をしないはずなのに、HiMERUでは本当に今のニキの思考が何一つ想像出来なかった。
「詳しくって言われても……だからHiMERUくんが燐音くんに告白すれば全部丸く収まるっすよね?」
「ええと、まずHiMERUには何故告白という選択肢が椎名から出てきたのか分からないのです」
HiMERUがニキの意図を理解するにはまず言葉を分解して順序立てて話を聞く必要がある。そのためには動揺を顔に出さないようにして、冷や汗が流れてしまいそうなことも気付かれずに質問を投げかけなければならない。ニキの意図を理解する前にHiMERUが自ら墓穴を掘ってしまうことだけは避けたいのだから。
「え、だって、HiMERUくんと燐音くんってどう見ても両思いじゃないっすか?」
「…………」
HiMERUの開いた口が塞がらなくなったのは今日だけでもう何回目だろう。
「あっ! もしかして僕に内緒でもう付き合ってたとか!? それなら僕だって一応気を遣うんだから言ってほしかったっす~。じゃあ違う方法考えないと……」
「椎名待って。ちょっと待ってください」
勝手に話を進めようとしているニキをHiMERUが手を前に出しながら止めた。多分、いや、確実に背中に嫌な汗をかいていることをHiMERUは自覚せずにはいられなかった。
「……HiMERUと天城が両思いだとそう言いましたか?」
そう。HiMERUにとって一番の問題はそこである。
確かに燐音に告白された後に自分の行動を振り返ってみれば、燐音がHiMERUは自分のことを好きだと誤解してもおかしくない状況であったことは自覚した。
だが、そういった行動も基本的には燐音と二人きりのときだったとHiMERUは記憶している。もちろん告白されてから距離の近さに自覚したのだからそれよりも前にユニットで揃っている時に何もしていなかったとは言い切れない。しかし、ニキにここまで断言されるほどの行動をしていたとはHiMERUには到底思えないのだ。
「言ったっすけど……。え? まさか僕の勘違い? 嘘!? えっ、じゃあ僕が燐音くんの片思いを勝手にバラしちゃったってことっすか!?」
このことが燐音にバレたときの報復を想像しているのかニキの顔が薄らと青くなる。HiMERUが言わなければバレないとも思うが、ニキであれば自分から口を滑らせる可能性もなくはない。とにかくニキは少なくとも燐音の気持ちに関しては絶対と言えるほどの確信を持っているらしかった。
ここで受け答えを間違えてはいけない。喋った内容がニキから燐音へと伝わってしまう可能性を考慮しながら、HiMERUは今まで以上に慎重に言葉を選んだ。
「その、椎名はどうしてHiMERUが天城のことを好きだと思ったのですか?」
「え、え~っと、僕の勘違いをHiMERUくん本人を目の前にして言うのはちょっと……」
「聞かせてくれたら駅前に新しく出来た定食屋のクーポンを差し上げます。デザートもセットで付いてくるみたいですね」
「怒らないって約束してくれるなら言うっす!」
「交渉成立ですね」
今日会う前から別れ際にでもニキに渡すつもりだったクーポンをチラつかせたら即答が返ってきた。ニキが食事に関することになると一気にチョロくなってしまうことは知っているし、実際にその手を使った状況で考えることではないが、さすがにHiMERUも少し心配になる。
ニキ本人曰く、知らない相手からは断るらしいがどこまで本当か疑わしい。まあ、そういう話ならHiMERUよりも燐音が口を酸っぱくして言っているだろう。
とにかくニキが混乱して少しでも主導権を握れている間に話を聞き出そうとHiMERUはニキの言葉を待った。
「二人ってたまに僕とこはくちゃんを置いて話が盛り上がるじゃないっすか」
「特に置いていこうとしたわけではありませんが、まあそうですね」
完全に同レベルとまではいかなくても、もう少し考えて話に入ってきてもいいとHiMERUはニキとこはくに対して考えている。今それを指摘すれば話が別方向に逸れるから我慢しているけれど。だって今日は話が逸れたって修正してくれる我らがリーダーはいないのだから。
「そういう時って僕はこはくちゃんと一緒にご飯食べたりしてるんすけど、いつだったかな~? こはくちゃんに電話がかかってきて帰ってくるまで僕が燐音くんとHiMERUくんをボーッと眺めてたときがあったんすよ」
いつだったか思い出そうとしたけどHiMERUの記憶にはなかった。おそらく電話の内容も重要なものではなく、ただの日常の一部として流れていった日だったのだろう。というか眺めていたところで別に楽しくも面白くも何ともなかったと思う。
「その時のHiMERUくんが見たことないくらい楽しそうな顔してて、ビックリしちゃったっす。燐音くん以外に目に入ってないってああいう時のことを言うんすかね? 僕ぁ本当に驚いちゃってこはくちゃんが帰ってくるまでHiMERUくんから目が離せなかったっすもん」
そんなことないと返そうとして口を開いたが、HiMERUの口からはどうしてもその言葉が出ず再び閉じてしまった。確かに燐音と会話をすることは楽しい。それ自体は告白される前からさすがに気付いていた。でも、だからといってニキからここまで言われるほど感情が表に出ていたことに驚きを隠しきれない。
他人よりは感情を顔に出さないことが得意だとHiMERUは自負していたからこそ軽くショックさえ受けていた。ニキが気付くレベルなのだ。燐音だって確証こそなくとも察していたに違いない。それこそ自分を告白という賭けのテーブルに乗せる大勝負をしてしまうくらいには。
ああ、でも、燐音と会話することを楽しいとしか思っていなかったから隠そうとも思わなかったのだろう。別に楽しいという感情自体は積極的に隠すものではない。これが他にも人がいる状態だったらHiMERUも普通に過ごせていたかもしれないが、きっとニキが話している状況では四人以外に誰もいない空間だったはずだ。せめてそうだと仮定しなければHiMERUが受けたショックが大きすぎて必要以上に引きずってしまいそうになる。
「……椎名はそのHiMERUの表情を見て天城を好きだと思ったのですね」
「そうっす! 僕が見たのはその一回だけっすけど、あれ以上に楽しそうなHiMERUくんは見たことないし結構燐音くんと隣にいるから好きなんだな~って……」
「隣にいる?」
ニキの言葉にHiMERUはまた嫌な汗をかいた。HiMERUがまだ自覚していなかった燐音への感情を一切の遠慮なく引っ張り出されているような感覚になる。そもそもニキに話を振ったのはHiMERUで、怒らないと約束したのだからどこにもぶつけられない感情がHiMERUの中でぐるぐると渦巻いていった。
「前までは適当というかその場のノリ?で席を選んでたと思うっすけどHiMERUくんってば最近ずっと燐音くんの隣ばっかり座ってるじゃないっすか~。ご飯食べてる時も車で移動するときも楽屋とかも! 僕としてはこはくちゃんの隣の方が安心して過ごせるからむしろHiMERUくんに感謝してるくらいで……HiMERUくん?」
HiMERUが自らの記憶を振り返る。ここ最近は意図的に距離を置いてしまっていたから別としても、告白をされる前の隣には確かに燐音がいた。いつも、いつだってすぐ側の手が届く距離にいたのは燐音だった。
気付いてしまったことの大きさにHiMERUは咄嗟に手で口元を押さえた。
燐音の告白を断ったことは今でも間違いだとは思っていない。『HiMERU』としては最善の選択であり、ただ一つしか存在していない選択でもあった。『HiMERU』に恋人などと言う相手がいてはならないのだ。それが例え天城燐音であっても許されないものは許されない。
トップアイドルになる『HiMERU』に恋人がいるなんて許されない。もちろん妻子の存在を明らかにしながらも揺るがない人気を得ているアイドルがいることは知っている。昔と今ではファンがアイドルを見る空気が変わってきていることも察している。昔とは比べられないほどアイドルだって増えているのだ。週刊誌とかで変にスクープ扱いされてスキャンダルにさえならなければ、恋人がいたところで個性の一つになる可能性は低くないだろう。
そう、頭では理解していてもダメだった。『HiMERU』に恋人がいることを誰よりも許せないのはずっと完璧なアイドルを目指して彼を演じ続けている一人の男なのだから。
他の誰が何をどう言おうとも、どれだけ世間が変わろうとも、男の中で認められないことの一つが『HiMERU』に恋人がいることであった。その感情が何に起因しているかなんて、男の父親と要の母親以外に存在はしない。これだけは何があっても誰にも言うことはないだろうけれど。
そこまで考えて初めて男は自分が燐音に対して未練を抱いている事実に思い至ってしまった。断ったことを間違いだとは思っていなくとも、燐音の告白に首を縦に振った未来を夢見てしまう。未練は心の中にずっと留まり続けており、無言の帰り道を一緒に歩いたときからじわじわと大きくなっていたのだ。
『HiMERU』に恋人が存在してはならないが、男は大きくなり続ける未練を抱えてしまう程には燐音のことが好きであった。その矛盾を無視してHiMERUを続けていたことから出た綻びがニキが言っていた焦げた匂いの本当の正体だ。
急に顔が青ざめていったHiMERUを見てニキは心配して慌てて声をかけた。
「HiMERUくん大丈夫っすか!? 僕送っていくんで早く寮に戻った方がいいっすよ! 急いで片付けと戸締まりの準備してくるんで待ってて!」
「し、椎名……HiMERUは大丈夫ですから」
その言葉を告げるよりも先にニキは行動を開始しており、言葉が届くことはなかった。
結局、片付けを終えて戻ってきたニキに何を言っても聞いてもらえず、HiMERUは部屋に戻って休むことになってしまった。
部屋に戻れば同室の二人に心配され、ニキが急いで作ったおかゆを食べた後にHiMERUは寝ると言って潜り込むようにベッドで横になっていた。今の状況では起きていたって心配されるだけなのだから例え寝たふりになるとしても横になった方がいいという考えからである。
HiMERUを気遣って嵐と鉄虎が小声で会話したり出来る限り物音を立てないように動いていることに申し訳ないやら情けないやらの気持ちに襲われた。『HiMERU』は完璧なアイドルなのだから体調管理だってしっかりやっているのに。
HiMERU自身に体調が悪いという自覚がなくとも、潜り込む前に鏡を確認すれば確かに顔色が悪い気がしたのは事実だった。客観的に考えて他人がこのような顔色をしていたら休むよう言ってしまうぐらいには。だから現状を受け入れてしっかり休むべきだと頭では理解している。
ただ、HiMERUを演じている男の精神状態は不安定にも程があった。ニキとの会話で燐音の告白を断ったことにずっと未練を抱いていたことを嫌でも自覚してしまったのが原因だ。
自分の無自覚で不用意な行動や言動で燐音を勘違いさせた。
その上、燐音なりに勇気やら何やらを振り絞ったであろう告白を断って傷つけた。告白を断ったHiMERUが何を言ったところで慰めにすらならなかったことは想像に難くないけれど、無理をして笑っていた燐音に何も言えなかった。
あの笑顔を思い出すだけで胸をかきむしりたくなる衝動に駆られるのだ。もし、今目の前にあの時燐音の告白を断った男が現れたとしたらうっかり殺してしまいそうになる程に。その男は自分で、今は『HiMERU』を演じている人間なのだから殺すことは出来ないのだけれど。それほどの殺意を過去の自分に抱いていた。
HiMERUがどう考えたところで悪いのは自分しかいなかった。燐音のことだから恨んではいないだろうが、だからこそ自分が自分を許せる気がこれっぽっちもしていない。
そんな自分が未練を抱いているだなんて笑い話にすらなりはしない。
ずっとHiMERUとして断ったことに後悔はしていなくとも、燐音を傷つけてしまったことを引きずっていると思っていた。仕事に集中している時は大丈夫でも、少し集中が切れると燐音のことが頭をよぎっていた。今回ばかりは自分が動いたってどうにもならないから時間での解決を願うことで自分の本心を閉じ込めていただけだったのである。
『HiMERU』ではない男の本心はぐちゃぐちゃで何も整理できていなくて告白に対してどうして首を縦に振れなかったのかという気持ちが生まれていた。それがついに未練という名前を得て、HiMERUの中で無視できない大きさになっている。時間経過によって小さくなることを望めないくらい胸中を占めていた。
仮面を、HiMERUという名前の仮面を被っている時はまだ大丈夫だ。でも、こうして布団を被って誰からも見えない状況になるとその仮面が勝手に剥がれていく。目を閉じて見えない振りをしようとすればするほど未練がしっかりとして輪郭を持って心の中に居座っていることが分かってしまう。
男は自分でもどうすればいいか分からないまま強く目を閉じているうちに眠りに落ちていった。
一体どれくらいの間眠っていたのだろうか。男の意識が目覚めると時間を確認するために枕元に置いておいたスマホを手探りで引き寄せる。……まだ、本格的に眠るには早い時間だ。部屋の電気だって点いている。男は咳払いを一つして、HiMERUへとチューニングを合わせてから水を飲むためにベッドから立ち上がった。
そうしてHiMERUが軽く部屋を見渡せばソファーの方にこの部屋で見ることのない人物を視界に捉えてしまった。
「メルメル起きた~?」
「……あ、まぎ?」
一度咳払いをしたとはいえHiMERUの声は寝起きでまだ少し掠れていた。再び咳払いを繰り返していつもの声の調子を取り戻す。
「どうして天城がここにいるのですか?」
一旦言葉を区切って今度はちゃんと部屋を見回した。
「お二人はどこに?」
「その辺は後でちゃんと話してやるからまずは水でも飲めって。それと一応熱も測っとけ」
燐音はソファーから立ち上がってHiMERUにペットボトルと体温計を押し付けると無理矢理ベッドへと座らせた。普段こういうことをされたら抵抗もするが、今回ばかりは大人しく従った。そもそも眠りに落ちる直前まで考えていたことを思うと燐音に対してどう振る舞っていいのか分からないのだ。今は『HiMERU』でいるから会話が出来るだけで。
体温計を挟むと、HiMERUは水を口に含んだ。寝たことと水分を補給したことでニキと別れた時よりは思考がクリアになっている気がする。間違いなく未練は胸の中で主張しているけれど。
お互いに無言のまま時間が流れて体温計が仕事は完了したとばかりに音を鳴らした。HiMERUが自分で確認しようとするよりも前に燐音が見せろと手を差し出してきた。万が一にも熱があった場合にごまかすとでも思っているのかもしれない。燐音に移したくないからこんなことで嘘など吐くわけがないのに。
とはいえ、ここは無視する方が後で面倒くさいことになるのは目に見えていた。HiMERUは自分自身では一切体温を確認しないまま燐音に体温計を渡した。
それを見た燐音は安心したように息を吐き出すと体温計を仕舞った。どうやらHiMERUに熱はなかったらしい。熱がないのならこの部屋から燐音を追い出す理由はない。理由がないことに安堵しているのか落胆しているのか分からないままHiMERUは再び疑問を口にした。
「それで? どうして天城がこの部屋にいるのですか」
「あーっと、ニキが……」
ベッドの側で立ったまま話を始めようとしたからHiMERUはつい口が出てしまった。
「……座ったらどうですか」
それも自分が座っているベッドの上を軽く叩きながら。
「いいの?」
「……お二人のベッドを勝手に使わせるわけにはいきませんし、さすがにソファーとベッドだと距離があるでしょう」
「メルメルがいいなら……いいけど」
言い終わった後にHiMERUは自分がソファーの方に移動すればいいと気付いたがもう遅かった。燐音が隣に腰を下ろしてベッドのスプリングがギシリと音を立てる。この程度で壊れるようなベッドではないが、自分の緊張が音を立てたようでHiMERUは唾を飲み込んだ。
燐音がゆっくりとHiMERUの方を向く。ここまでの距離の近さは告白されて以降初めてだった。前までのHiMERUなら何とも思わなかった距離感にどうすればいいか分からなくてポーカーフェイスを保とうとすることに必死になる。もしかしたら燐音は燐音でずっと緊張していた距離なのかもしれないと考えながら。
「えっと、とりあえずここにいる理由からだよな」
静かに頷いた。
「ニキから俺っちの話をしてたらメルメルが顔を真っ青にしたから何をやらかしたんだって怒られて」
「……え」
つい「天城は悪くない」と口に出そうとして、それを一番告げるべきニキはこの場にいないことを思い出しギリギリで踏み留まった。本当に今回の件において悪いのはHiMERUであって燐音ではないのに。
「その場はこはくちゃんが俺っちの味方してくれたからどうにか治まったンだけど」
「桜河が?」
こはくが燐音の味方をする図がHiMERUには想像出来なくて聞き返してしまった。すると燐音はどこか嬉しそうに笑ったから胸の奥がギリと音を立てて締め付けられた気持ちになる。もう無邪気に自分にその笑顔が向けられることはないと悟っているからだろうか。
「そ。色々あって今だけはこはくちゃんが俺っちに優しいの」
「……良かった、ですね」
果たしてこの返答で正解なのかHiMERUには分からない。燐音の心境が予想出来なくて、前までは予想出来なくとも考える過程を楽しめたのに今はそれが出来ない。探偵失格だとすら思ってしまう。
「それでメルメルが具合悪そうだから様子を見に行けってところはニキもこはくちゃんも一致したから俺っちがわざわざやってきたってわけ」
燐音はわざと恩着せがましい言い方をする。二人に押されて来てやったのだから鬱陶しく思いこそすれHiMERUが気を遣われたと思う必要はないのだと。そんなのHiMERUにはもう通用しないことぐらい分かっているだろう。……もう、そういう言動が天城燐音として染み付いてしまっているのかもしれないが。
「ここに来た理由は分かりました。でも、部屋にHiMERUと天城しかいない理由はまだです」
「……あ~、頼み込んで今日だけ他で泊まってもらうことになっただけっしょ」
頼み込んだという言葉だけをここを乗り切ろうとしていることはHiMERUにはすぐ分かった。燐音がそこを詳しく聞いてほしくないということも。明日にでも二人から聞き出せば答えなんてすぐ分かってしまうのにそう言うのならば、本当に今を乗り切れられたらいいのだろう。
答えを追究することは嫌いじゃないけれど、言葉にするのは止めておいた。どうせ今のHiMERUはほとんど探偵失格なのだから。
「ではこれでHiMERUの疑問は全て解決しましたね。天城の反応からして熱もなかったようですし、もう帰っていただいて大丈夫ですよ。心配をかけてしまいましたね」
突き放すような言い方になってしまったが、これでいいのだとHiMERUは自分に言い聞かせていた。ユニットを組んだばかりのHiMERUはきっとこれくらいは突き放していたはずなのだ。もう一度燐音を好きになる前の距離感に戻せばいい。そのための一歩だった。
隣にいる燐音に向かってダメ押しにこれ以上踏み込むなと微笑んでみせた。燐音であれば意図は理解してくれるはずなのだ。理解して受け入れてくれるかどうかはHiMERUの賭けであったが。
実際、燐音にHiMERUの意図は正しく伝わっていた。一人になりたいから自分をさっさと帰らせようとしているのだということも。もしかしたら燐音と二人きりである今の空間が嫌なのかもしれないが、わざと突き放されたことは理解していた。
理解したうえで、HiMERUの言う通りになってやるのは癪だった。ついさっきHiMERUは燐音の頼み込んだという言葉に踏み込まないでくれたけれど、それはそれである。別に受けた恩をすぐ返さないといけないことはないのだから。
深呼吸でもするかのように息を大きく吸って吐き出した。燐音はHiMERUに踏み込む覚悟を決めたのだ。HiMERUが本当に具合が悪いようなら看病なり何なりして帰るつもりではあった。でも、普通に会話が出来るのならこのチャンスを逃すことは出来ない。
燐音がニキから聞き出した情報から考えると、HiMERUに不調をきたしている原因が燐音にあることは明白だ。こはくのおかげでいくらか持ち直したとはいえ一世一代の告白を断られた傷はまだある。まだ好きなヤツと二人きりになって意識するなという方が無理でもある。
それでも燐音は今度こそ恋心が木っ端微塵に砕け散ることになったとしてもHiMERUに踏み込むと決めた。不調の原因が自分ならCrazy:Bのリーダーとして、加えてHiMERUとその奥にいる男を好きになってしまった者として、無視して帰ることは出来なかった。
「メルメル」
「………………何ですか」
返事があったことに燐音は心の中でだけでガッツポーズをする。今のHiMERUの拒否具合を見ていると無視される可能性も考慮していたのだ。さすがに無言を決め込まれたら実力行使しか残っていなかったからそこにも安堵している。HiMERU相手にそこそこといえど本気を出して武力は使いたくなかったのだから。
「俺がおまえに告白したことは覚えてるよな」
「……はい」
忘れられるわけがないとHiMERUは言葉に出さずに思った。HiMERUの中の燐音はそんなすぐに忘れられるような小さな存在じゃない。むしろ気付かないうちに大きくなりすぎて困っていると言い換えてもいい。
燐音が帰らないという選択を取ったことで必死に抑え込もうとしていた未練が『HiMERU』を押しのけて表に顔を出そうとしているのだから。今すぐにでも腕を掴んで抱き締めてやりたいと叫び出しそうな未練を男は顔に出さずに『HiMERU』で蓋をした。
「あれ、忘れろ。俺も今日限りで忘れるから」
「は?」
「ああ、いや、おまえに忘れろは難しいよな。忘れなくてもいいからこの会話が終わったら全部無かったことにしろ」
待てと言おうとしてHiMERUは自分の喉がやけに渇いていることに気付いた。先程水を飲んだばかりなのに。
「おまえが匂いだけじゃなくてニキが目で見て分かったレベルで顔が青かったんならダメだ。それじゃあ『HiMERU』としてやっていくのに不安が残る」
「……っ」
反論しようと思って何も言葉が出なかった。ここでようやく燐音が覚悟を決めていることを察してしまった。自分の心とHiMERUを傷付けてでも関係値を戻そうとする覚悟を。
その証拠に燐音の顔からは何の感情も感じ取れなかった。淡々とHiMERUに効果がある内容だけを反論が出来ないよう的確に伝えてくる。仕事のことで事務所に報告をする時でさえここまで淡々として言い方はしない。
HiMERUが自分を守るために燐音を突き放そうとしたのなら、燐音はナイフを握りしめてHiMERUの心の中に踏み込んで告白をしたという事実を切り取ろうとしている。そのナイフにはきっと柄なんて存在しなくてHiMERUだけじゃなく燐音の手からも血が流れているのだろう。
確かに燐音が告白をしなければこんな事態にはなっていない。起こったことを冷静に並べればそれは事実である。少なくともHiMERUを名乗っている男が燐音に抱いて感情を自覚するのはもっと遅くなっていたに違いなかった。
そう。告白を断られたのだから当然とも言えるのだが、燐音は知らないのだ。この男はあの日首を横に振ったことを未練として抱え続けていることを。そしてその未練が時を経て大きくなりすぎて燐音がHiMERUに抱いていたものと同じ種類の感情に変わっていっていることも。
「俺とおまえなら無理矢理にでも無かったことにして今までみたいな距離感に戻れるだろ。最初は多少ギクシャクもするかもしれないけど、ニキとこはくちゃんには上手く言っとくからさ」
燐音からの信頼が痛かった。HiMERUを続けている男ならこれくらい出来るはずだという信頼。出来なかったから今みたいになっているのだ。男だって最初は前と変わらずに上手くHiMERUでいれると思っていた。それが日を増すごとにどうにも上手く出来なくてたまに未練がにじみ出ていた。だからニキだって話を聞くために呼び出したのだろう。
ああ、そうだ。男にはどうしたって燐音の告白を無かったことには出来ない。それをしてしまえばきっと『HiMERU』にも支障が出てしまう。今のところユニットのメンバー以外には見抜かれていないと思っているが、おそらくそこも厳しくなるだろう。
男にとって何よりも優先すべきことは『HiMERU』である。それだけは揺るがない。燐音が言ったように『HiMERU』としてやっていくのに不安が残ることが確定事項なら男も燐音の提案を飲んでいた。絶対に、それだけは、守らなければいけない。HiMERUは完璧なアイドルなのだから。
ただ、それは現時点において確定事項ではない。そして男にはそれを払拭させる方法が一つだけ思い付いていた。自分の中に存在している未練を消してしまえばいいのだ。
HiMERUは今でも断ったことを間違いだとも思っていないし、後悔もしていない。反対に男はずっと引きずっていたし、燐音を傷つけたことを後悔していた。相反する思考を持ってしまうことが今の自分なのだ。HiMERUと男は静かにそれを認め、双方にとって男の未練を消せるならば消した方がいいで意見が一致した。
「……天城」
「ンだよ。反対意見は聞かねェぞ」
「いえ、そうではなく……」
ここで初めて男は未練を消すと言っても何をどうすればいいのか迷い始めてしまった。結論を言えば燐音に自分も好きだと伝えればいい。でも、もし断られてしまったら? 燐音はもうすっぱりとHiMERUのことは諦めているかもしれない。部屋にやってきて、自分が傷付く覚悟をしながらも信頼と言葉のナイフを向けてくれたのだ。仲間としての親愛は消えていないとは思う。
ただ、HiMERUに告白をしてくれた時の気持ちを今でも抱き続けているかは話が変わってくる。ニキが言うにはHiMERUと違って燐音は少しずつ回復しているようなのだ。恋心を諦めて前に進み始めている途中かもしれない。そんな燐音に好きだなんて伝えてもいいのだろうか。
最初に断ったHiMERUが気持ちを告げたところで今更だと、燐音に断る苦しみを与えてしまうだけではないのか。燐音のことだから本当に諦めていればちゃんと断ってくれるだろう。その選択を燐音にさせてしまう可能性を思うと急に言葉の続きが紡げなくなった。
「メルメル?」
中途半端なところで話を止めたから燐音が心配半分訝しさ半分といった顔でHiMERUを見てくる。
その言い過ぎてしまっただろうかと不安に揺れている顔を見てHiMERUは唐突に気付くことが出来た。燐音だって告白をする前は今みたいに不安に襲われていたのかもしれない。HiMERUが今抱いている不安と種類は違うだろうけれど。
そうであるならば、燐音の告白を断って傷付けて、こうして部屋にまで来た燐音に対して自分が怖じ気づくのは違う。断られた時のことは後で考えればいい。出たとこ勝負なんてHiMERUらしくはないけど、燐音が相手ならそれだっていいだろう。
HiMERUは自分の手を強く握りしめながら、今日初めて揺らぐことなく真っ直ぐに燐音の瞳を見た。
「HiMERUは天城が好きです。最初は『HiMERU』の命運を預けるに足る男か不安でしたが、今は仲間として信頼しています」
「メ……」
「天城の話は最後まで聞いてからでお願いします」
言葉に被せるようにHiMERUが早口でそう伝えると、燐音は大人しく口を噤んだ。ここで止められてしまうと燐音の傷口に塩を塗り込んで終わってしまう。だからこそ最後まで聞くように伝えたし、今からの言葉のためにはこの前半も必要なのだ。
「ここからが本題ですが」
HiMERUが軽く咳払いをする。
「俺も燐音が好きです。あの時の燐音の言葉を借りるなら付き合いたいという意味で」
「……………………は」
燐音の息が漏れただけなのか、何かを言おうと思って言葉にならなかったのかHiMERUには判別が出来なかった。その上、燐音の表情からは何を考えているか読み取ることも出来ない。まるで燐音の周囲だけ時が止まったみたいだ。
その様子にHiMERUはつい言葉を付け加えようとしてギリギリで理性がそれを押しとどめた。言葉を重ねれば重ねるほど言い訳みたく聞こえてしまう可能性があり、男の人生において一度もすると思ってなかった告白がチープなものになってしまうのが怖かったからである。
男からの告白を受けて燐音は混乱していた。正確に言えば脳が理解することを拒んでいたと言ってもいい。
HiMERUが言ったことは冗談ではなく本気だということは分かっていた。この空気と流れでHiMERUが冗談でも告白をしてくるような人物じゃないことぐらい燐音はとっくに知っている。知っているからこそ混乱しているのだ。
だって、それならなんで、なんで燐音が告白したときに断ったのだ。気持ちに応えることは出来ないと言ったじゃないか。HiMERUだけでなく、その奥にいる男も一緒に断ったじゃないか。だから燐音はまだ気持ちを諦めることは出来なくてもHiMERUとの距離を出来る限り告白前と同じくらいに戻そうとしていたのに。
実際に告白を断られて燐音は自分で思っていたよりもショックを受けて、すぐに戻ることは出来なかった。でも、こはくと会話をしてどうにか前を向ける力をもらったのだ。天城燐音がいつまでも立ち止まっているわけにはいかない。だから男への恋心を引きずるのではなくて、背中に抱えてまた前に走っていくことにした。直接見ることはないけれど絶対に捨てない場所に抱え込んで。
そう決めて、その上で自分が傷ついてもいい覚悟も決めて、この部屋を訪れたというのに男からの告白で混乱して燐音の思考はこれっぽっちもまとまらない。嬉しさと困惑と動揺と疑問がぐちゃぐちゃに混ざってどれから発言するべきか分からない。どれが本心かも分からなかった。この告白を受け入れたいのか、突っぱねたいのか一番大事なことも今の燐音には分からなかった。
混乱して、普段ならもっと動いている頭も動かなくて、何が分からないかも分からなくて、思い浮かんだことを口が勝手にこぼしてしまった。
「……おまえのそれは俺への同情?」
こんな、優先順位がはっきりしている男が同情だけで告白なんてしないと燐音は理解しているはずなのに。
「違います」
だから零れた言葉の意味を理解して燐音が訂正しようとしたけれど、それよりも先にHiMERUが否定した方が速かった。きっぱりとHiMERUは悩む素振りさえ見せずに否定をした。
燐音の告白を断ったときと同じでHiMERUの表情は特に変わらない。部屋に入って様子を見ていたときも、起きたときも調子が悪そうだったというのに今のHiMERUは毅然としている。つまりHiMERUの中で男の答えは決まっているか、燐音に感情を悟られまいとしているのだ。
それならば。
「同情じゃねェならあの時告白を断ったのはなンでだよ」
結論を出す前に燐音が疑問を口にしたって許されるだろう。良くも悪くも目の前のHiMERUの表情が変わらないのだから燐音の混乱している頭は少しだけ落ち着くことができた。変わらないから否が応でも断られたあの日がフラッシュバックしてしまうのだけれど。
「……あの時は」
HiMERUが言いよどむ。言いにくいのか一瞬だけ視線が燐音から逸らされて、すぐに戻ってきた。
「『HiMERU』に恋人という存在は不要だと思っていましたから」
「じゃあ今でも要らねェだろ」
「……そうですね。『HiMERU』に恋人はいない方がいいのでしょう。でも俺は断ったことをずっと後悔してたんだよ。それこそ椎名に顔色が悪いとバレてしまう程には」
HiMERUになったり仮面が外れたりと男の口調が混ざり始めていることに燐音は気付いたが、言葉にするのは止めた。意図しているのかは不明でも本心を明かしている証拠でもあるのだから。
「後悔するぐらいなら保留でも何でもすりゃ良かったのに」
それ故に口調を指摘せずに新しく生まれた疑問をぶつけた。そうだ。何も燐音は当日に答えがほしいとは言っていない。もしかしたらそういう空気を出していたかもしれないが、燐音相手ならHiMERUも考えさせてほしいくらい言えるはずだ。そこまで後悔するレベルだというなら余計にそうするべきだった。
「……天城に言っても信じてもらえるか不明だが」
「おまえが何を言ったって信じてやるよ」
この状況で今更だと言わんばかりに燐音は話の先を促した。外れかけている仮面を戻そうとしない男の発言を疑う理由がない。
「当時はまだ天城を好きだと自覚していなかったんだよ」
「はァ!?」
燐音は驚きのあまりつい大きな声が出てしまった。
今、この男は自分に向かって何と言った? 自覚していなかった? あれだけのことをやっておいて?
燐音が告白するまでの全ての行為をHiMERUにおける親愛の情によるものだと言われたら信じられる。というか断られたのだから信愛でそういうことが出来る相手だと思い込んでいた。だからこそ燐音は告白を受けて混乱していたのだ。HiMERUは自分を恋愛の意味で好きにはなってくれないんだなと思っていたから。
でも、どうやらその考えは的外れだったらしい。言葉の真偽を疑っているわけでは全くないが、今までの発言を全て信じると男は燐音の告白を受けて初めて燐音を好きだと自覚したことになる。あれだけ勘違いされてもおかしくない行為を繰り返しておいて当の本人は無自覚であったらしい。
「……ははっ」
笑いが零れてしまった。例え燐音でなくともこれが笑わずにいられるだろうか。燐音の告白を断って、今燐音に告白をしたこの男は自分の気持ちに対してとんでもない鈍感野郎のようだ。
ああ、でも、それならHiMERUの行動にも男の行動にも納得が出来る。元から構造上の関係で行動と言動がちぐはぐなところがあるヤツだったのだ。
男は燐音のことが好きだが自覚をしていなかったため、その好意からくる行動をHiMERUがやっていても本人的に違和感は存在しなかった。男の中の恋愛感情をHiMERUの仲間に対する親愛が包み込んでいたと予想出来る。それが燐音の告白をきっかけに分離を始めてしまったのだろう。だから燐音側だけの問題じゃなくて、HiMERUの方も距離感が急に上手く掴めなくなってギクシャクした。その分離が止まらなくて結果的に今日具合が悪くなったのだろう。
燐音本人も気付かない間に頭の回転が普段のキレを取り戻し始めていた。HiMERUの意図を読み切れなくて混乱していたけれど、それを紐解くきっかけさえ手に入れば名探偵とまではいかなくとも思考を動かすことは出来る。
実際、燐音の考えはほとんど正解していた。正確には具合を悪くしたきっかけは分離ではなく、燐音への未練という一点を除けば修正の余地はない。そしてその些細なズレは今の二人の関係を変えることに全く影響を及ぼさないズレであった。
「俺でも受け入れるのに混乱したのに天城に信じろって言う方が……」
「あー違う違う。メルメルのことは疑ってねェよ。ちょっと驚いただけ」
笑いを零したまま何も言葉を発しない燐音に男はやはり信じてもらえなかったかと考えていた。しかし燐音が笑いながら言葉を被せるように否定したことでその考えは間違っていたと気付く。男には何故だか分からないが、燐音の表情が途端にスッキリしているのだ。まるで何か答えを見つけたみたいに。
「つまり、おまえは俺のことが好きってことっしょ? あの時の俺と同じ意味で」
「……だからそう言ってるだろ」
「きゃははっ」
燐音は本当におかしくて、嬉しくて笑ってしまう。あの日燐音から告白した男に最初は振られて、自分の読みも恋愛が絡むと鈍くなって錆び付くのだなと思って引きずりながらもまだ諦めることは出来なかったというのに。まさか告白されるとは想像もしていなかった。
今日この部屋にやってきたのだって心配からなのだ。期待なんて、ほんの少しも抱いていなかった。むしろHiMERUを傷つけてでも『HiMERU』に戻してやろうと、そういう決意を抱いていた。
だから、もう、今の燐音の胸中は驚愕と困惑と歓喜が渦巻いて混ざりあっている。頭の思考は回っていても、感情はぐちゃぐちゃなのだ。
燐音だって告白するまでに散々悩んで、断られた後も悩みまくって後悔の感情にさえ襲われていた。こはくはもちろんのこと、ニキだって多分巻き込んでしまった。それが男の無自覚からきたことに物申したい気持ちは当然ある。でもそれ以上に同じ気持ちだったことに対する嬉しさの方が大きいのだ。
息を大きく吸って、吐いた。どれだけ燐音の感情が整理出来ていなくてもHiMERUなら全部受け止めてくれるはずだ。いや、今まで悩まされた分受け止めてくれないと困る。
「メルメル!!!」
「は、はい」
燐音がいきなり声を上げたことに驚いたのか妙に丁寧な返しをされたことがもう面白かった。それともHiMERUなりに今の空気について考えていたのだろうか。まあ、いいか。燐音は思いの丈をぶつけるために言葉を続けた。
「今だからハッキリ言うけど、俺は告白を断られてすっげェ悲しかった。何なら思っていた以上にショックを受けた自分に驚いた。こんなにメルメルのことが好きだったんだなって」
「……それは、すみません」
HiMERUにも思い当たる節があるのだろう。自分が悪いと素直に認めて燐音に謝る姿は今後見ることが出来ないかもなと少しズレたことが燐音の頭をよぎった。
「ほんっっっっっとうに悩んだんだからな!? 普段通りに振る舞わないとニキにもこはくちゃんにも勘繰られちまうから必死に頑張ろうとしたのに、どうにも上手くいかなくてこはくちゃんに頭突きされちまうし!」
「頭突き?」
「あ、いや、それはこっちの話だから気にすんな」
いかにも気になりますという顔をしているHiMERUに対してごまかしにもなっていないそれで押し通した。今なら燐音への負い目から追及されないという考えからだ。実際に成功している。
「ぶっちゃけまだ諦められなかったけど、諦められないなりにそれを抱えて前に進もうとしてたのによォ……」
「………………」
HiMERUがどう返すべきか悩んでいる間に燐音は言葉を続ける。
「そんな時にメルメルから告白された俺っちの気持ちが分かるか!? マジで混乱させられたンですけど!?」
HiMERUの瞳が揺れて口を開こうとすることを燐音は手だけで制止した。多分謝られることは目に見えていた。だからこそHiMERUには最後まで聞いてもらわなければならない。先程HiMERUが燐音に対して似たようなことをしたときみたいに。
「でも、嬉しかった」
「……あ」
「メルメルのせいでどれだけ悩まされたかとか、さすがに気付くの遅すぎだろとか言いたいことは山ほどあるけど、嬉しかったのが一番大きい」
「天城……」
燐音はHiMERUの後頭部に手を回すと自分の方に引き寄せた。額と額がゆっくりと当たる。HiMERUは少しの抵抗もしない。
……まさか二回も告白することになるとは思わなかったなァ。燐音は少しだけ笑ってHiMERUを正面から見据えた。一回目の時と比べると随分雰囲気が違うしムードも何もあったものではないが、今の方が気持ちが落ち着いていることは事実だった。
「俺もメルメルが好き。おまえと同じ意味で」
その言葉を聞いて至近距離でHiMERUが笑う。つられるように燐音も笑えば、ずっと二人の心の中に巣くっていたものが溶けていった。