……扉の向こうから薄らとした殺気を感じる。この家から殺気を感じたことは初めて訪れた日を除いて五回目だった。さて、今度は一体どんな被害妄想が繰り広げられるのか。三回目から少しばかりの楽しさを覚えてしまっている自分がいた。こういう日、ほとんど鍵はあらかじめ開けられている。自分はゆっくりと扉を開けて新橋さんの家の中に踏み込んだ。
そうして何の言葉も躊躇いもなく自分の頭がある辺りにペンナイフが突き立てられる。背後からでも避けることが出来たものなのだ。予期出来ていた動きを避けられないわけもない。自分は身体を捻ってそれを避ければ新橋さんの足がたたらを踏む。その隙にペンナイフを持っていた手を強く握れば自然と新橋さんの力が弱まってペンナイフが玄関に落ちた。
悔しそうに口をへの字に曲げる新橋さんを家の中に引っ張ると扉を閉めた。
「…………この」
「はい。なんでしょう」
「この浮気者!!!」
なるほど。今日の新橋さんは自分が浮気をしたと思っているらしい。とはいえ、いつものごとく自分に心当たりは全くない。そもそも新橋さん以外の相手に対して自分は好意を抱けない。一人の人間として善人だなと好ましく感じることはあっても、新橋さんに抱いたものと同じ好意を抱けることはないと断言できる。
何より探偵業に関しては守秘義務があるが、それ以外の人間関係は新橋さんだって把握しているだろう。自分に浮気を出来る時間があるのなら教えてほしいくらいだ。
自分が黙っていると沈黙を肯定と捉えたのか新橋さんが顔を怒りで赤く染めながら口を再び開いた。
「一昨日の正午頃、貴様はどこで何をしてやがりましたか?」
その時のことならば今でも覚えている。守秘義務に触れない範囲で言葉にすれば。
「探偵の職務をしていました」
自分の答えなんて予想していたという風に新橋さんが小さく笑い声を上げた。普段聞いている悪魔みたいな笑い声とはまた別の自分を嘲るような笑い声であった。
「えぇ、えぇ。貴様ならそう答えると思っておりました。探偵業だと言われれば俺が引き下がると思っているのでしたら勘違いも甚だしい!」
「自分は真実しか言っていません」
自分に非は何一つないのだから新橋さんの被害妄想を理解出来るまで聞いたら後はそれをゆっくり否定するだけだ。つまり最初に新橋さんが何を思い込んでいるか知る必要がある。
「俺も最初に貴様を見かけた時は仕事だろうと考えておりました。探偵の仕事であれば普段見かけない場所にいても不自然ではありませんから。それこそ俺の生活圏内にいようとそれだけで貴様を責める理由は存在しないでしょう」
相槌を入れることもせずに続きを待つ。新橋さんの生活圏内を把握はしていなかったが、確かにあの場所ならばこの家からそう遠くもない。すれ違ったり見かけたりしたところでおかしくはないと思えた。
「しかし! 貴様はあろうことか俺の目の前で一人の人間に話しかけた!」
……目の前と言われても自分は新橋さんが近くにいたことなんて気付いてもいなかったのだが。だがこの流れで新橋さんが何を見て勘違いをして被害妄想を膨らませてしまったのかは想像できた。
「やけに近しい距離で会話を……っ!」
新橋さんが最後まで言い終わる前に掴んだままの腕を引っ張って彼の身体を近くの壁に押し付けた。そのまま自分の身体で壁と挟むように一気に距離を縮める。もう少し密着すればお互いの心臓の音まで聞こえてしまいそうなほどに。
「それはこのくらいの距離だったでしょうか」
「……ぁ、いや、これよりは離れていましたが」
突然の自分の行動に新橋さんの言葉の勢いが弱くなる。新橋さんがどの角度から自分を見つけたのかは分からなくとも、あの程度の距離で浮気を疑われてはこの先誰かとすれ違う瞬間に肩がぶつかっただけで彼の被害妄想が始まりかねない。それはさすがに少しばかり困ってしまうかもしれない。
だって自分はもう少しまともに新橋さんを愛したいと思っているのだから。
掴んでいた腕を離すと同時に新橋さんの手に自分の手を重ねて指を絡め合わせた。ピクリと彼の肩が上がったことを視界に入れながらも耳元に自分の口を寄せる。
「自分があの方に話しかけたのは探偵の仕事で訊きたいことがあったからです。新橋さんからどう見えたかは分かりませんが、自分は話しかけた瞬間から距離は詰めていません。あの方は人懐っこい方でした。だから少しばかり向こうから距離は詰められましたが、それだけです」
新橋さんの口から漏れる息が熱い。自分がここまで密着したことで熱を持ってしまったことは想像にかたくなかった。
「そしてその上で一般的にみれば浮気を疑われるような距離ではないと自分に断定できます」
「っ、貴様が決めることでは……!」
「自分にとって浮気を疑う距離の基準はこれです」
お互いの吐息を感じることが出来てもう一歩詰めれば心音すら聞こえる距離のことだ。本当ならもっと手前だろうという気持ちはあったが、新橋さんに納得してもらうためにはこれくらい誇張した方がいい。
「……ぁっ」
呼吸の感じから新橋さんが何かを言おうとして口の開閉を繰り返していることが分かる。普段であればいくらでも待つ覚悟は出来るが、今ばかりは言葉にしないだけで早く新橋さんの考えを伝えてほしいと思ってしまう。現状はまだ大丈夫でも、ここまで密着して新橋さんの吐息を感じている時点で自然と自分に熱が集まっていく。
こんな話をしている途中にそれがバレてしまっては再び何か凶器を振りかぶられるに違いないのだから。
「……貴様がこのような距離で話すのは俺だけだと申すのですね」
「そうです」
間髪を入れずに答えを返す。新橋さんの喉の奥から悔しそうな音が漏れた気がした。
「っ、今回は! 今回だけは俺の誤解だったと認めて差し上げましょう! せいぜい血が流れるようなことにならないよう自分の行動に気をつけるのですね!」
「今回は、ではなく『今回も』の間違いだと思います」
誤解という名の被害妄想で殺気を向けられたことは今回が初めてではない。ただの探偵が劇作家に言葉の訂正をするのはどうかとも思ったが、つい言葉が先に出てしまったのだ。
少し身体を離して新橋さんの顔を見ればまだ変わらずに赤く染まっている。それが怒りによるものなのか他の感情によるものなのかは分からなかった。
「そうやって図体は大きいのに細かいところばかりを気にするなんて、さぞ探偵業で活かされる能力なのでしょう」
どう考えてもこれは褒められていない。下から自分が見上げられているはずなのに上から目線で、笑うような声色で告げられたこれはどれほど浮かれた人間でも分かるほどの嘲りの言葉だった。
……新橋さんは自分から善人を剥がしてしまう天才なのかもしれない。繋いだままであった手を引っ張れば新橋さんは特に抵抗なく自分の方に倒れてきた。力を入れていなかったのか抜けていたのかは分からない。ただ、それも好都合だと自分は新橋さんを抱え上げた。
「き、貴様!」
自分が新橋さんを抱え上げるということの意味をもう知ってしまっているのだ。耳元で喚かれてこそいるが、特に暴れない新橋さんに頷くと家の中に歩みを進めた。
玄関に落ちているペンナイフは帰るときにでも拾えばいいかと思いながら。