食べごろ 今日のメインはぶりの照り焼き。それにレタスとアボカドのサラダ、ピーマンとおかかの梅和え、明太だし巻き玉子、たっぷりキャベツと豆腐の味噌汁、主食はまいたけの炊き込みご飯。デザートにはむきたての梨を添えて。
「いただきまーす」
ふたりで選んだ橙色のあたたかな照明が食卓を照らしている。連日の残業で疲労困憊の体に、ロシナンテの好物ばかりのメニューが染みわたった。真正面に座るローは梅が苦手だから、ローが食事当番のときはめったに梅を使った料理が出てくることはない。この家では時々こんなふうにロシナンテの好物ばかりが並ぶ日があって、それはいつもロシナンテが仕事やら何やらで忙しく家に寝に帰るだけのような日が続いたときだ。
経験と年齢を重ねればそれなりに重要なポジションに押し上げられるのが世の常だ。大きなプロジェクトのリーダーとして指揮をとり、時には後輩のミスのフォローやリカバリー、メンタル面のケア。大雑把で楽観的な性格もあって割と苦にならずできるほうであったが、さすがに今回は疲労が蓄積していた。プロジェクトがひと段落したところで、明日から久しぶりの連休だった。リビングの壁にかけられたカレンダーに赤いペンで(ちなみにローの予定は黄色のペンで書かれている)大きく「やすみ」と書いたのは数日前のことだ。一緒に住み始めた当初は、ローが勝手に共有カレンダーアプリをスマホにインストールしていたのだが、この時世になってもアナログ派のロシナンテがまったく活用できずこの形に落ち着いた。
ぶりはやわらかく、箸ですっとほぐれる。肉厚な身にほどよく甘いたれが絡んで自然とまなじりが下がった。味噌汁は猫舌なロシナンテに合わせてほんのすこしぬるめで、お椀いっぱいのキャベツはくったりと火が通っていて甘みが口の中に広がる。
むかしは料理なんてほとんどできなかったローだ。どちらかといえば一人暮らしの時期が長かったロシナンテのほうが得意だったというのに、いつからか料理を研究しはじめ、ロー本来の凝り性な性格が功を奏してかあっという間にレパートリーの数を追い越されてしまった。調味料を感覚でてきとうに使うロシナンテは毎度違う味に仕上がるが、ローはご丁寧にしっかりと匙ではかるから外れがない。料理ひとつをとっても、そのひとの気質が出るのだなと気づいたのはローと暮らし始めてからだ。
「ローってさァ、ほんとにおれのこと好きだよなァ」
ほどよくふくれた腹で何の気なしにぼんやりと呟けば、デザートの梨を静かに咀嚼していたローはくつくつとちいさく笑う。
「今頃気づいたのか」
「だってローも今日仕事だったろ。なのにこんな手の凝った食事作ってさァ、すげェ愛されてンなって思ったわけですよ」
「それは何よりだな」
この梨だってきれいに皮がむかれている。ロシナンテがやれば身まで削ってしまいかなり歪な形になるというのに。医者という職業ゆえか、元来手先が器用な男だ。一度コツをつかんでしまえば、これぐらい造作もないことなのだろう。
食事を終えふたりで皿を洗いすっかりときれいに片付けてソファに沈み込めば、満腹感が睡魔をつれてやってきた。特に見るでもなくつけられたテレビから流れてくる音がひどく遠い。
「コラさん、ソファで寝るな。風呂沸いてるから入っちまえ」
「んー……、ッ⁉」
ローの言葉にあいまいに返しながら、風呂めんどくせェなァ、とぼんやりしていると突然足先がひんやりと空気にさらされる。驚いて見やれば、床に膝をついたローがため息をつきながら靴下を脱がせにかかってきていた。
「ちょ、自分で脱げるから!」
「いつまでたってもダラダラしてるコラさんが悪い」
「わかった、わかったって!」
幼児でもあるまいしそんな世話まで焼かれてはさすがに目が醒める。あわてて重たい腰を持ち上げ脱衣所へと向かった。はずだった。
「……なんでついてきてんの」
「おれもはいる」
「えっ、狭いだろ」
「この感じだとあんた風呂で寝るだろ」
「介護⁉」
しれっとした顔でついてきたローが当然のようにロシナンテの衣服に手をかけるので「自分で脱ぐから!」と引きはがしながらふたりして風呂場に転がり込む。大の男ふたりで入ることなど想定されているはずもない空間はぎゅうぎゅうだ。今日はおれが洗ってやると言ってきかない男にしぶしぶ折れて、されるがまま髪の毛が泡だらけになる。一人暮らしをしていたころは手軽だからとリンスインシャンプーを使っていたのだが、成分がよくないとローに言われお高そうなシャンプーとトリートメントが常備されるようになった。効果があるのかどうかさだかでないが、心なしか髪がさらさらになったような気がする。おじさんの髪がさらさらになってどうすんだよ、とロシナンテは思う。
強すぎず弱すぎない加減の指圧が心地よい。うっかり寝てしまいそうだ。
「かゆいところはねェか?」
「……ないでーす」
「今寝そうだっただろ」
「だってきもちーんだもんよ」
まるで美容室のようなやりとりのあと、すこしの洗い残しもないよう生え際までしっかりとシャワーで流される。ついでとばかりに体まですみずみ洗われてなんだか変な気分になりながら、ふたりしてようやく風呂に浸かった。ざあ、と半分以上お湯が溢れ出る。
「おれローといるとどんどんダメになっちまうなァ」
脚のあいだにローをおさめてその頭のてっぺんにあごを乗せる。ぼんやりと呟けばローは「いいことじゃねェか」とだけ言った。
「よくねェよォ。ローがいなかったら生きてけね~」
「そうなるようおれが仕向けてんだ」
「えっ、そうなの?」
「あぁ。気づいてなかったのか?」
「怖ェこと言うなよ!」
こつん、と頭を小突けば肘で返されてふたりして笑いあう。あったかくて、湯舟の中で触れあった肌が気持ちよくて、ほんのり眠気があって、こういうのを幸せと言うのだなとロシナンテは思う。疲れているロシナンテを気遣って手の込んだ食事を作ったり、世話を焼いてくれるのがまったくいじらしい。この幸福な気持ちをすこしでもローに返してやりたい。
「ロー、こっち向け」
「なんだ」
「ちゅーしちゃる」
「……今はいい」
「えぇ、なんでだよ」
「それだけじゃ済まなくなる」
「いいじゃん、べつに」
「あんた疲れてるだろ。さっさと寝るぞ」
「えー」
何もかもに満たされて眠気がやってきているのは真実なので、強く否定しようもない。腕を引かれるまま風呂場を出て、タオルで体を拭き、寝巻のスウェットに着替える。流れるままにドライヤーで髪を乾かされ、歯を磨き、気づけばぽかぽかの体でぬくぬくのベッドの中に放り込まれていた。
続くようにローものそのそとベッドの中に入ってくる。
「……おれ幸せすぎて明日死ぬかも」
眠りと覚醒のはざまをうろつきながら、ローを抱きしめる。ゆるく腰に回された腕にぎゅ、と力がはいった。
「あんたに死んでもらっちゃ困る」
「えー?」
「明日が一番食べごろだろ」
「ふは、明日おれ食われんの?」
「あぁ。がぶっとな」
もしかして今日やけに甲斐甲斐しく世話を焼かれたのは下ごしらえってこと? なんて思いながら、ロシナンテはまぶたの重さに抗うことなく目を閉じた。「おやすみ、コラさん」と遠くで声が聞こえて、ベッドサイドのルームライトがぱちん、と落とされる。最高の休日はすぐそこだ。