とびきり甘いデザート(仮) ━━朝日奈の様子がどうもおかしい。
俺の誕生日だからと朝早くにやって来て、甲斐甲斐しく掃除をしたり料理をしたりしているのは物音や匂いで分かっていたけど。朝日奈の顔を見てから最後の音を決めるつもりだった曲を仕上げていたら、いつの間にか数時間が過ぎてしまっていた。
誕生日にライブも締切も打合せもなく一日オフというのは、仁科からのささやかなプレゼントなのだそうだ。おかげで何も気にせず作業に集中でき、当初考えていたものより遥かに満足のいく曲ができた。
その代償に不足してしまったものもある。腹の虫はうるさく鳴いて主張するし、それから、あいつの声もまだ聞いてない。
どちらも満たそうと覗いたキッチンで見かけたのは、所狭しと並んだ美味そうな料理たちと、スマホを握りしめ画面を凝視している後ろ姿だった。手元までは見えないが、ひたすらスクロールしては何かを調べているようで、こちらに気づく素振りもない。
楽しげな朝日奈を見ているのは気分がいい。
そうでなくとも、膨れっ面も泣きべそも大口を開けて笑うのも、ヴァイオリンを思う存分歌わせているのも、課題を前に眉根を寄せているのも、無謀に見えることにも懸命に取り組む姿も。見かければつい観察したくなる。
そうして浮かんだ音からいくつかの曲ができた頃、仁科に指摘されて腑に落ちた。それは恋と呼ばれる現象で、俺の音楽にそれまで存在しなかったタイプの音が溢れてくる新しい仕組みなのだと。初めは戸惑ったが、上手く扱えばとても面白い。朝日奈由来の短いフレーズばかり収納したフォルダは、今も増殖を続けている。
今月に入ってから、共有のスケジュールアプリがスタンプだらけになっていくのを咎めたら、「今年も笹塚さんの誕生日を一緒にお祝いできるのが嬉しくて」などと言う。朝日奈に出会うまでは、ただ生まれた日というだけで特に感慨もないし、祝われて嬉しいと思うこともなかったのに。満面の笑みを浴びたら、つられて頬が緩んでしまった。
別に特別なことをしなくても、何でもない一日も、あんたが隣で笑っててくれればそれで十分なんだけど。
こっちを見ないのはつまらないな。
揺れるポニーテールに気を取られ、声をかけるタイミングを逃したままぼんやり眺めていたら、思いの外つまみ食い…もとい味見をする手が止まらなくなっていた。端から順に全種類終えてしまい、追加で唐揚げを口に放り込んだところで視線が交錯した。
「あ」
口の中に香ばしい香りと生姜風味の効いた肉汁がじゅわりと広がっていく。作り置きの定番おかずにもなっているけど、揚げたてだと格別に美味い。
目が合ったまま、もぐもぐ咀嚼しながら次の言葉を待っていたのに、返ってきたのはクスクスと笑う声だった。
「それ、二度揚げするから座って待ってて」
妙な感じだ。いつもなら断りなく〝味見〟をしたら文句を言われるのが常なのに。今日は特別にお咎めなしらしい。まあ、小言を聞かずに済んだのを単純に喜ぶべきなのだろうけど。誕生日だから、と唱えれば何でも許されることにまだ慣れない。少なくとも、未完成の唐揚げに満足するほど浮かれているのは間違いなさそうだ。
「お誕生日おめでとう!」
貰い物の地酒で乾杯し、好物ばかりが並んだご馳走に舌鼓を打つ。既に一通りつまみ食いしてあるし、食べ慣れたいつもの味なのに、ふたりで一緒に食べるとさらに箸が進んでしまった。
「ケーキもあるんだけどもう食べます?」
「いや。次はあんたがいい」
「え……いま?」
朝日奈の手を取ってソファへ移動し、首筋に顔を埋めて深呼吸をする。本当はつまみ食いで腹の虫が治まったとき、すぐにでもこうしたかった。料理中はダメと根気よく躾けられて少し我慢強くなったと思う。
「ふふ、くすぐったいってば」
アルコールが入ってほろ酔いの朝日奈は、普段に比べて体温が高く触り心地が格別だ。素面のときより感度も良くなっていい声を出す。
いきなり押し倒してさっさと欲望を果たしたくもあったけど、腕の中から何となく違和感を感じる。初めての時みたいな緊張感とも違う。こちらに身体は委ねているのにどこか奥の方が強張っているような。
それか、何かを隠しているような。
そういえば食事中もやけに口数が少なかった。
「ん……、それで──」
いつものように近々のトピックスを話すよう促すと、こてんと肩に頭を預けてぽつぽつと言葉を紡ぎ始めた。でもまだ変な感じは消えないし、俺の反応を窺うようにちらちら見上げてくるのが気になる。
「この間、楽団の飲み会で聞いたんですけど」
そんなのいつ行ったんだ。
隠しごとを疑う訳じゃないけど、何だかもやもやする。違和感の手掛かりを見つけたいのに、いつも以上に話の内容が全然頭に入って来ない。
一度気分をリセットしたい。
話を遮るついでに相槌代わりにキスしようと顎に手をかけたら、まっすぐ見上げてくる瞳が妙に潤んでいた。何かを言い淀むように唇を一度軽く噛んだりして、あからさまに緊張が伝わってくる。
ああ、たぶんこれだ。
ちょっと待て、その続きは聞きたくない。
「んでね、なまら好きだべさ」
「知ってる」
あれ、何だいまの?
よく知っているはずの言葉なのに頭が追い付かない。
「あの……もうちょっと、なんかこう、リアクションしてくれても良くないですか」
頑張ったのに、とボソッと続けるとそっぽを向いてしまった。髪の間から覗く耳の先が赤くなっているのが見える。
そしてもう変な違和感も緊張感もどこにも見当たらなくなった。
恥ずかしがる朝日奈の話を整理すると、最初は『女の子の方言って可愛い』という話題だったのが『彼女が自分のお国言葉を使ったら可愛すぎて悶える』という意味の分からない話になったらしい。
「それで、調べて練習したって?」
「うん。イントネーション変じゃなかったですか」
気にするところがずれてる気もするけど。
じわじわと先刻のにわか北海道弁が頭の中で反芻されてこっちが恥ずかしくなる。悔しいが確かに可愛かった。口を尖らせたりモジモジしたり目まぐるしく変わる表情はいつでもいつまでも眺めていても飽きないし、めんこいなと思う。
それでも何がしたかったのか意味は解らないし、そんな上目遣いで見てきて何を期待しているのかわからない。
俺も何か返せばいいのか。
なら、そうだな……。
「あんたといるとあずましいわ。これでいい?」
「へ?」
今度は目がまん丸になってポカンと口も開いている。間抜けな表情にはそぐわないぷるんとしたピンク色とはちみつリップの甘い匂い。
もう我慢できない。
「あとで意味教える」
後頭部を捕らえて深いキスを交わすと、零れる声がさらに甘く響いて許容量を超えた。
好物は最初に食べてしまう性分ではあるけれど。
飲み物も甘い方が好みだけど。
今日のこのとびきり甘いデザートは、ゆっくり味わうために最後まで取っておいた方がいいのかもしれない。