ケンカするほど仲がいい 何通かのメールへの対応と、滞っていた事務作業に一区切りついたところで、漸く顔を上げた仁科が小さく息を吐いた。
「あと……は、今日じゃなくてもいいか」
何時間も集中して画面を見ていた所為で眼の奥が重く感じる。肩も首も凝り固まって血行が悪くなってしまった。一度ぎゅっと眼を閉じて、思いきり伸びをして、ゆっくりと深呼吸をする。しかし普段なら少しは軽くなるはずの身体はどうにも怠いままだ。このところ心身共にうまくリラックスできていない。
「溜まってんなあ」
近ごろ、独り言が多くなっている自覚はある。発した自分の声が耳から入ることで、絡まった思考が整理されるし、声を出す行為には、つい浅くなりがちな呼吸を正常に戻す効果もある。とはいえカフェなど不特定多数がいる場所で無意識に出てしまうのだけは極力避けたい。アジトならば気を遣わず集中できるのでとても助かっている。
追加で肩も回して肩甲骨を解していると、スマホを耳に当てた笹塚がリビングを横切っていった。大先生の編曲作業も一段落したらしい。
「……ああうん、それでいい。じゃ宜しく」
通話を終えた笹塚はすぐに作業部屋は戻らず、ぶら下げていたペットボトルからぷしゅと音をさせている。ただの炭酸水のガスの音に琥珀色の幻影が見えた気がして、車で来たことを少し後悔した。いや、かなり疲れも溜まっているし今日は帰って早く寝た方がいいだろう。
「終わったのか。おつかれ」
「うん。とりあえずキリのいいとこまでは出来たし、そろそろ帰るよ」
「夕飯は?」
「まだ早いだろ。腹減ってるなら何か注文しとこうか」
「手配なら済んでる。仁科も食べてけば?」
「俺はいいや」
笹塚が食事の用意をしていたのも引き止められるのも、かなり珍しいことではある。しかし今の仁科にはその理由を気にする余裕すら残っていなかった。
早く帰りたいと気ばかり焦るが重い身体は言うことを聞かない。のろのろと荷物をまとめ、何とか気力を奮い起こして玄関へ向かう。廊下の半ばまで進んだところでガチャリと玄関の扉が開いた。
「おじゃましまーす……あ、」
大荷物を抱えて立っていたのは朝日奈だった。まともに顔を合わせるのは何だか久しぶりな気がする。
「間に合ったな。荷物こっち寄こして」
「ありがと。この箱は傾けないように気をつけてね」
朝日奈の声を聞きつけた笹塚にあっさり追い越され、玄関までの道のりを塞がれる形になる。居心地が悪いのに何となく黙っては出て行きづらい。やり取りが終わるのを所在なく見守っていると、笹塚にギロリと睨まれた。
「さっさと部屋戻れば」
「いや俺は……もう、帰るからさ」
「なんで帰るの! ダメだよ今からごちそう作るんだから」
手ぶらになった朝日奈に荷物も奪われ、仁科は抵抗むなしくリビングへ押し戻されてしまった。
笹塚が手配済みだと言ったのは、朝日奈が来て料理を振る舞ってくれるという意味だったらしい。ソファに押し込められて少しぼーっとしている間にも、美味しそうな匂いが漂ってくる。みるみるうちにテーブルの上は色とりどりのご馳走で埋め尽くされた。
食欲がなかったはずの仁科もつい箸が進み、缶ビールを二本ほど空けたあたりで今度は真っ赤ないちごタルトが運ばれてきた。
「仁科さんお誕生日おめでとう!」
「へ?」
「やっぱり忘れてたか」
大学とネオンフィッシュの活動が忙しかった上に、ここしばらく朝日奈と会っていなかったのも重なりすっかり失念していた。それというのも、はちみつトーストの食べ方について意見が合わず、口喧嘩をしたのが原因だった。
朝日奈は食パンの白い部分にぐるぐると渦巻きを描くように蜂蜜をたっぷりかけてから、軽く焼くのがいいのだという。仁科はしっかり目にトーストした食パンを手で割いて、その断面に蜂蜜を垂らして食べるのが好きなのだ。
要は蜂蜜をかけるタイミングの違い、パンを焼く前か後かというだけの事である。それを自分の方こそ至高なのだと鼻息の荒い二人に対して、至極どうでも良いという顔の笹塚がバッサリと切り捨てる。
「腹に入ったら同じだろ」
「違うもん! 真ん中はじゅわっとしてて耳がサクッと軽くて、それを交互に楽しむのが堪らないんじゃん」
「俺はやっぱトーストはトーストらしく、香ばしく焼けてるのが好きだなあ。そこに蜂蜜をかけるとキラキラ光ってさ」
「すぐお皿にこぼれちゃうよね」
「それをちぎった耳で拭くのがまたいいんだよ」
傍から見ればじゃれているようにしか見えないけれど、こんな調子で止まらなくなってケンカになったらしい。
「じゃあ今度俺にも食べさせて。どっちが美味いか判定してやる」
「美味しすぎてほっぺた落ちちゃうかもよ」
「それじゃまず美味しいパンを買いに行かなくっちゃね」
どこのパン屋さんにしようかと相談を始めた仁科と朝日奈を横目に、笹塚のフォークがタルト目掛けて振り下ろされた。